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神の存在

家族はキリスト教の信者です。でも自分だけは、まだ半信半疑の状態です。 神の存在を否定する事によるメリットはあるのでしょうか。 ないのであれば自分も信じてみようと思っています。 ご意見をお聞かせください。

  • 9zu
  • お礼率29% (7/24)

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.11

神の存在を肯定するか否定するかはメリット、デメリットで判断するべきことではなく、「真実はどうなのか」によって判断すべきではないでしょうか。

9zu
質問者

お礼

そうですね、判断基準を間違えてました。 ありがとうございます。

その他の回答 (11)

  • hhituji
  • ベストアンサー率30% (15/49)
回答No.12

神を信じることは素晴らしいことです。わたしは、神の存在を信じたときのそのときの喜びを、忘れることができません。 ただ、信仰は、信じてみようかなという態度で到達はできません。これは、非常に人生で大切なことなので、心を尽くし、思いを尽くし、真実を求めてください。聖書には、「わたしは、私を探し求めるものの前に必ずその姿をあらわす」と書いてあります。自分が、一生をかけて信じるに値するものがどうか、確かめてください。インターネットや、書籍や、信者の話などを聞いてください。 有名な「ベン・ハー」の作者であった、ルー・ウォーレスは、キリスト教はインチキだということを証明するために、本を書こうと思い、さまざまな資料集めをはじめました。が、その作業を続けていく過程で、キリストが真実の神の子であるということを否定できなくなり、クリスチャンになりました。ベン・ハーはそのときのインスピレーションをもとにに書かれています。(キリストはほとんど出てきませんが) あなたが、真の信仰に到達することを心より願っています。

9zu
質問者

お礼

皆さんの意見を聞いていて、自分の最初の質問が間違っていた事に気が付きました。神の存在は信じようと思って信じれるものではないのですね。今考えると質問自体が恥ずかしいです。 でも悩んだ結果、信じたいと思う気持ちは強くなりました。もう少し自分なりに神様に近づく努力をしてみたいと思います。 回答して下さった方々本当にありがとうございました。

  • katyan
  • ベストアンサー率9% (201/2029)
回答No.10

まず信じたいのか、信じたくないのか?そこが問題ですね。 神は無理に強制させません。どちらでもお好きなように

回答No.9

「神の存在を否定する」 というよりも 「特定の宗教・宗派の教義を信奉しないこと」 と捉えたほうがいいかもしれませんね。 「なんじゃもんじゃの存在を否定する」 とか言っても、何のことかわかりませんよね。 定義できない言葉を否定しようとしても肯定しようとしても、 ナンセンスです。 で、実際に存在しているのは、 各宗教、各宗派の教義だから。 経典とその解釈の体系だから。 ご家族も、どの宗派でもいいから神様を信じて、なんて言わないのではでしょうか。 「特定の宗教・宗派の教義を信奉しないこと」 によるメリットは、 やはり自由でいられるということではないでしょうか。 余計な葛藤から自由でいられる。 私はもし目の前にほんとうの神様が現れて、 「このように生きなさい、そうしたら救われる、天国へいけるよ」 と教えてくれたとしても、 そんなふうになんて生きられません。 そんな立派な人間じゃないから。 でも、そんなふうに生きられないことで葛藤が生まれるでしょう。 懺悔をしたら赦されると聞いたら懺悔をしたり、 「でもこれでいいのかな?誰か正しい懺悔の仕方を教えて!」と思ったり 寄付したらいいと言われたら寄付をしたり、 「でもこれでいいのかな?誰か適切な金額をを教えて!」と思ったり 隣人を愛せよと言われたら頑張って愛そうとしたり、 「でも愛するって何?」って迷って聖書を読んだり、 内容が難しいから神父さんに説明を聞いたり、 ほかの宗派の考えと比較して訳がわからなくなったり、 「ああ、奥が深いな、神様に近づくにはもっと勉強しなくては」と思ったり、 「ああ、なのに俺ってぜんぜん勉強しない、怠け者だ」と自己嫌悪に陥ったり、 仲間に賛美歌を歌ってもらったりして 「ああ神様はこんな俺でも愛してくれてるんだと」涙を流したり、、、、 ぐるぐる回ってしまいます。 どこかに正解があると想定した時点で、 依存心が生じてしまう。 人生は瞬間瞬間自分と向き合うよりも正解を探す旅になってしまう。 ちょっと批判的になってしまいました。 でも人は、宗教に限らずいろいろなものに精神的に依存している。 夢といったり、信念といったり、思想といったり、哲学といったり、 そういうの、何か方針見たいのを立てると、迷わなくなるから。 選択をしなければいけないときに、 「これが俺の信念」みたいに方程式で処理していけば楽だから。 で、夢のために恋を失ったり、 信念のために家族にさびしい思いをさせたり、 思想のために戦争をしたり、 哲学のために毒杯をあおいだりする。 縛られてしまう。 「これでよかったんだ」と言い聞かせても、内心葛藤しています。 夢、恋、家族、友情、仕事、遊び、地域社会、人類、自然環境、真理、成功、自己実現、認知edc. 人間社会では多様な価値が並存しているので、 イデオロギー化して何かに特化しすぎると選択のときに自由で入られなくなる気がします。 個人的には、人生は問う旅だと思っています。 迷いながら、 「これでいいのかな」 「これがほんとうに俺のしたいことかな」 「この人のために、何かしてあげられること、ないかな」 「あのときほんとうは、何ていってあげたかったのかな」 とか、いつもいつも問い直しながら、試しながら、確かめながら生きていこうと思っています。 ちょっと一方的ですみません。 信仰をされている方には異論があると思いますが、私の正直な意見です。

  • chironero
  • ベストアンサー率11% (23/200)
回答No.8

 神様を、メリット、デメリットで取捨選択?もし、そんな気持ちを持ち続けるのであれば、信じようと思わないで下さい。第一、信じている人に失礼ですし、あなたの様な人に信じられては却って迷惑です。    本当の神様は、あなたの云う処のメリットもデメリットも持っています。又、優しさと厳しさも持っています。共に受け入れてこそ信仰なんです。そのことは新、旧約聖書に慣れ親しみ、偏らない知識を身に着けることから始めて下さい。    神様は、過去から現在、そして未来に至るまで実在するものではありません。  実は、あなたが信じて受け入れれば、あなたの心の中に復活し生き続けるのです。  どうぞご家族でよく話し合って下さい。  ひとつの思いで皆さんで話し合える、祈りあえる、素敵なことです。

  • isyut
  • ベストアンサー率34% (32/93)
回答No.7

精神論は皆様が答えているので、私の個人的な意見をひとつ。 神を否定することでのメリットとして、他力本願率が低くなるというのがあります。 自分より覆しようも無い上位の存在を認めた時から自分は下位に代わるのです。 会社の上司部下とかではなくて、絶対値として上位と下位が設定されるとろこにデメリットが発生するかと思います。 自分が自分自身の主人公ではなく、他からの意見のが上位に位置する状態であると、日本では良く聞く「困った時の神頼み」とか、救いの存在があるわけでもないのに祈って努力を怠る良くない状態を招きやすいと思います。

9zu
質問者

お礼

確かにそうですね、自分にはない発想でした。 参考になります、ありがとうございました。

  • number0
  • ベストアンサー率10% (13/121)
回答No.6

かしこい人達がもういくつも回答しているんですが私的一言。 これが回答です。まあ信じるだけなら。 もう一案。なぜ今ごろ宗教を?日本の教育勅語にありますよ、知を開き開明・・だったかな。 あなたのお宅の指揮はどうとられているのかな。非常に真摯で、奥が深い問題です。宗教をどう捉えるかによるかもね。ファッションとは違うよ。

  • akushu2
  • ベストアンサー率10% (73/695)
回答No.5

私は仏教を信教(熱心じゃないけど^^)していますが、神の存在を信じています。私の言う神とは、「摂理」「普遍」という意味合いのものですがね。 具体(形)ではないので、おぼろげで漠然なモノです。 人間がゴミを捨てれば地球が汚れる。 その罰は人間自らが背負う。 人をだまして他人を不幸にすると、廻りまわって本人に降りかかる。 神とはそういうもんです。 蛇足ながら・・・。 イエス様を熱心に信仰している人達は、イスラムを信仰しているイラクの地で戦争を始め、今もなお、戦いに明け暮れています。 イエス様信者でない日本の自衛隊(中には信者もいるでしょうが)は、ミサイルが飛んで来ようが、銃撃を受けようが、ひたすら我慢して黙々と道路を造り、学校・病院を作り、いろんな人道支援、インフラ支援を続けています。彼らは専守防衛ですけど、実際は銃を持っても相手に向けきれない(殺したくない)という信念で活動しています。戦闘放棄と言っても過言ではないでしょう。 右のほほを叩かれたらたたき返すキリスト信者たち。 右のほほを叩かれても左のほほを差し出す多神教日本人。 イエスキリスト様は果たしてどちらを評価するのでしょうかね?。

  • settsu
  • ベストアンサー率25% (10/40)
回答No.4

家族中が信者なら今まで散々礼拝とかに連れて行かれているんですよね。それで半信半疑なら無理に信じる事も無いと思います。強引に否定することも無いと思います。精神性と言うか霊性というか、そういう事を意識してたらそのうち何か感じるものがあるんじゃないでしょうか。宗教に無関心だった人間があまりに広大な自然を目の当たりにして神の存在を実感したなんて聞きませんか。 私としては人智を凌駕する存在なら地球は丸くないと否定してもしょうが無いと思いますが、宗教は人間の創作だと思ってます。 ところで、ディズニーで今度ナルニア物語が出るそうですが、シリーズの最後で印象に残ってるエピソードがあります。かなり長い事読んで無いので胡乱ですが、邪神を信じる国と善神(物語ではアスラン)を信じる国が有って、それぞれの国の人が二人でいるところに神様が出てきて、  邪神を心から信仰してる邪心の国の人間は実は善神の信者である  口先だけ神を信じると言う善神の国の人間は実は邪神の信者である そう言って邪神は信仰の厚い邪心の国の人間を無視して、無信心な善神の国の人間を自分の生贄の信者として連れ帰ってしまうんです。ええと、確かそんな話です。

  • yasureni
  • ベストアンサー率0% (0/6)
回答No.3

メリット デメリットで神を信じるという考え方は捨てた方がいいと思います。 キリスト教の神はいわゆるメリット(ご利益)は与えてくれません。ただ どんな状況の中にいても生きていく力を与えてくれます。あえていえば それがメリットかもしれませんがそれを目的として信じると失望します。 自分の場合は 自分ではコントロールできないものや事をつかさどっている大きな力 それを神と思っています。 人との出会い、自分の思考 身体を生かしてくれているもの あらゆる出来事 これらをつかさどっているものを神と信じ 良きことが起こるように願っています。 ただ 良きとこ 悪しきことは自分自身の考えであって表面的には悪しきことでも良きことのために現された神の計画だと思っています。 13年前にプロテスタントの教会で洗礼を受けた不勉強なクリスチャンです。 追伸:三浦綾子さんや曽野綾子さんの書いたものをお読みになるといいと思います。

  • ARX7
  • ベストアンサー率15% (36/233)
回答No.2

神を、否定すれば家族から嫌われると思う。 家族とうまく合わせていき。 宗教とは、それなりに、付き合っていったほうが、いいと思います。

9zu
質問者

お礼

自分の状態を家族は理解しています。 信じる事は強制ではないと。 家族が喜ぶのは嬉しいけど、それだけでは決められません。アドバイスありがとうございました。

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