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この神観念はいつごろから定着しましたか?

歴史カテに質問しているとい意味を、お酌み取りくださると幸いです。 最近も宗教がらみの質問や回答、あるいは別の質問等などでよく見るのですが、「神様は心が広いので、特定の信者にのみ依怙贔屓するはずがない」とか、「罰などをあてるはずがない、そういうことを言うのは邪教の神だ」、などといった意見です。 わざわざ歴史カテに書いているのは、こういった考えの是非そのものを知りたいので書いているわけではありません。 ただ、歴史的に見れば、上記のような神様の定義は、日本古来のものではないと思います。日本の神は、ある時は、たたりもしますし、非礼を働いてもにこにこ笑って一方的に恩恵を及ぼしたわけでもありませんし、お礼参りもしないといけませんし、荒ぶる神という概念もありますし、決して人間にとって美味しいことだけをしてくれる存在ではありませんでした。もとが自然信仰としての側面が強いでそうなのかもしれませんが・・。 日本の神がこのようなものだとすると、先ほどの定義からいけば、日本古来の神々のほとんどは邪教の神になってしまいますし、受験祈願に天満宮にも行けなくなります。 このような神様は優しいだけの存在、人間にとって優しいだけの存在というのは、いつ頃から広まったのでしょうか? また何を起源(根拠)にしていると思いますか? キリスト教ですか? でもキリスト教の神は、旧約を見る限りでは、なかなな非信者には厳しいし、甘くもないように思いますし、ヨハネ黙示録なんてのもありますし、非信者にも優しいキリスト教という理解も都合が良い気がしますが・・・・。

みんなの回答

  • pyon1956
  • ベストアンサー率35% (484/1350)
回答No.3

現在も定着していないのではないかと思います。 少なくとも「心の広い神様」というものを考える方がいらっしゃるのはいいことだと思いますが、やはりそれは定着しているとは言えないのではないでしょうか。 現にイラク戦争でのアメリカの言説は時として宗教的狂信者のそれです。最近も高名なテレビ伝道師が他国の大統領の暗殺を勧める始末(さすがに「これは政府の見解ではない」という微妙ないいかたでアメリカ政府は否定しましたが、一方でこういう無茶苦茶いう伝道師に配慮してもいます)。 また、キリスト教内部でもしばしば他の宗派に対する批判というものはほとんど悪魔よばわりだったり、というのを実際に見聞しました。 また仰る黙示録ですが、ルターなどは否定したがっていたようです。ルター訳のドイツ語聖書では当初ヨハネ黙示録だけはページ数がうってなかった、というのは有名な話です。しかし結局削除することは出来ませんでしたが、あれってどう見ても・・・・ ではそういう考え方のはじめは?これはまちがいなく近代です。宗教的寛容、という考え方はたとえばレッシングの「賢者ナータン」などにもあるごとく、近代啓蒙思想の産物です。ですが当初は寛容であって、容認ではありません。不愉快だが認める、というもので神学的にそれを容認する、というものではなかったと思います。そういう意味では近代社会の発展の中で徐々に生まれてきた考え方でしょうが、神学の範疇までそういうことを主張している、というのはあまりないと思います。どちらかといえば一部の信者さんの個人的信条の枠からいくらも出ていないと思いますが。

noname#12704
質問者

お礼

回答ありがとうございます。まず、定着していないというお話ですが、どこを見るかで少し分析も変わってきますね。教義などがすぐに動くと言うことはないと思います。ですが、こちらのサイトでの書き込みなどを見ると、圧倒的多数でそういう意識なんです。一般的、宗教に無関心な人々の「常識?」はそういう感じになってきているのではないかと思います。お話いただいた、テレビの伝道師というのはアメリカですよね。イラクの話も。私は「日本」の話をしています。しかし、日本古来の神観念に類似のものがあまり見あたりません。一部にているものはあっても、それが広まったともなかなか考えにくく、そういう論調でもありません。それで近代日本に影響を与えた影響を考えた際にキリスト教についても少し触れてみましたが、確かにおっしゃることもわかりますし私もそういう趣旨で書いてはおりますが・・。回答ではキリスト教の海外での実際の歴史や実情を書いていただきましたが、ただ、日本人は日本人でキリスト教に対して、かなり勝手なイメージがあります。イメージは、実際に聖書がなどうなっているかとか、黙示録がどうのとか関係ありません。「愛の宗教」と言ってはばかりませんから、あるいはキリスト教にあこがれた知識人から、心の広い神様について広まったのかな、とも思うわけです。最後にお書きになられた近代啓蒙思想の影響がどこかで入り込んでいるというのは、なるほどと思いました。

noname#12704
質問者

補足

質問文を見ると、日本のことというのが明確に書かれていませんね。日本のことで、よろしくお願いします。誤解を与えやすい文、失礼しました。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.2

神とは、尊敬されるべきものであり、かつ畏れられる者でもあります。 これは、どこの世界の神でも同じことです。 キリスト教の世界で、「旧約聖書の神と、新約聖書の神が、異なっているのではないか?」という疑念は、キリスト教成立当初から有りました。 過去には、旧約聖書の神は、真の神ではなく、悪魔であり、それを正すために、神はキリストを遣わし、新約聖書を与えたと考える人達がいました。 キリスト教二元論の考え方です。 有名なところでは、グノーシス派、パウロス派、カタリ派、ボゴミール派などです。 また、現在でも、プロテスタントの一部は、旧約聖書を聖書として認めない宗派があります。 また、神と悪魔は、歴史的観点からしますと、相対的なものです。 ある宗教の神は、別の宗教では悪魔にされている例が多々あります。 ゾロアスター教の悪神アフリマンは、インドの最高神インドラだと言われています。 これは、当時、ペルシャとインドが対立していた事に由来します。 キリスト教の悪魔アスタロータは、バビロニアの豊穣神イシュタルだそうです。 さらに、キリスト教の悪魔アモンは、エジプト神話の最高神アモン・ラーだそうです。 これは、旧約聖書の時代、イスラエルの民が、バビロン捕囚や、エジプトに連れ去られた事に由来しています。 ですから、悪魔だとか、邪神だとかを、気にする必要は、全くありません。 そもそも、唯一絶対の神がいるならば、なぜ悪魔や邪神が存在できるのでしょうか。

noname#12704
質問者

お礼

回答ありがとうございます。キリスト教の整理ですね。大丈夫ですよ、宗教問題で悩んでるわけではないので、ご安心くださいね^^。

  • senchi
  • ベストアンサー率15% (15/96)
回答No.1

すみません、歴史的には説明できないかもれませんが。 日本の「神」って実に多様で複雑です。 (1)八百万の神・・・これは天地のあらゆるものには神が住んでいるというもの。山にも川にも木にもかまどにも。地鎮祭はその土地の神に申し訳を立てるものだし、私の地元にはでっかい岩を祀った岩神神社とかあります。ここでいう神は信仰する対象などではなく、人間を超越する存在だが、あくまで第三者的な自然物の主であり、人間に恵みも与えるが、人間が感謝を忘れたりその物・場所を荒らされたりすると怒って、天罰(?)を下すというものです。厳密には(2)(3)も含んで八百万の神と呼んだりしますが、性質上分けさせていただきます。 (2)死者を祭り上げたもの・・・質問にある、菅原道真を祀った天満宮、家康を祀った東照宮、あと何か白峯神社(京都)は蹴鞠の上手かった人を蹴鞠の神様として祀ってました。道真は死んだとき藤原家を呪い、彼らはそれを恐れて天満宮を建てたけど、こういった神は彼らの人格を尊ぶもので、人々にギブ&テイクする性格は弱いです。 (3)古事記・日本書紀の神々・・・伝説上の日本の創国主。いざなぎの命・いざなみの命のアレ。天照大神の子孫が天皇家の先祖・神武天皇っていうアレ。伊勢神宮は天照大神を、出雲大社は大国主命を祭ってます。彼らはそれぞれ何かをつかさどっていて、一番一般的な「神様」っぽいですね。彼らはが恩恵を与えるのに明確な理由なんてない気がしますが(神様ってそういうものですし)、強いて言えば彼らの子孫=天皇が治める国だからというところはあると思います。 (1)は日本古来の思想だし、庶民的なものなので由来など歴史的なものは分かりません。(2)は確か道真の例がはじめだった気がします。少なくともその頃から始まったものだと思います。(3)は「古事記」「日本書紀」の中で既に伊勢神宮・出雲大社が建てられている前提になっているのでいつに始まったものか分かりません。この二書は天皇家に口承されてきたのをまとめたものらしいので、少なくともその前提は編纂以前にあったのでは?(しかし編纂時に完全に書き足された可能性も否定できません) すみません。明確な回答にはなっていませんが、「日本における神は比較的人間に対し第三者的で(生き方を導いたり、救済したりなんてコトはほとんどしない)、信仰するような対象でもない(神主・巫女は神への奉仕者)ので、そもそもそういった神観念は厳密には当てはまらないのでは」というのが私の見解です。ただし、奈良時代に始まる神仏習合の思想が、日本の神の概念を仏と混乱させたということも十分考えられます。

noname#12704
質問者

お礼

回答ありがとうございます。日本古来の神観念の整理、わかりやすいですね。(3)の神々でも、荒御霊としての神は、災いをもたらしますね。呼び方は中国からの影響ですが、日本のものとして定着して、伊勢にもちゃんとお祭りされています。神仏習合ということに関しては、あるいは、こういう神観念は、浄土教の救済一辺倒の仏の観念の影響かとも思いましたが、中世は仏も罰を与える存在なのですよね。裏切ると業病になるわけです。あまり親鸞流の救済論が根付いていたも思えないし、まして一般人がそれを考えているとも思いにくいです。となると、どうなんでしょうね・・私は3の方の最後に書かれていることかなという気がしていますが・・。

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