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昨今の礼儀礼節の衰退していますか?

MK1の回答

  • MK1
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回答No.5

>昨今の礼儀礼節の衰退と凶悪・悪質犯罪との因果関係 おそらく社会学者に尋ねれば、「ほとんど関係ない」という答えになるでしょう。 「ほとんど」という意味は、まず礼儀や礼節は社会の中の人間関係に属することです。産業社会が成熟し、さらに長期の不況による社会関係の流動性が高まり社会不安が増大している現代社会では、個人レベルでも家族、近隣、職場などの人間関係の緊張度が高まっているといえますし、一方で犯罪総体が増加している(これも統計上厳密に「犯罪」をどう分類し規定するかで違ってはきますが)ということを前提にしますと、 1) 社会不安の度合いの高いぎすぎすした社会→ 礼節が軽んじられる(一般論として) 2) 経済不安などから犯罪の多い緊張した社会→ 犯罪の総数が多くなれば、その中の凶悪犯罪の比率は高まる(発生した犯罪が結果的に凶悪なものなる機会が増える) この2つは同時に存在しますから、その意味で関連性は有意ということになります。 しかし一方、貴方が疑念をもつように、犯罪が「凶悪」な犯罪に進展する経緯は個別の理由によるものが大きい(犯罪者の置かれた犯行時の心理情況、経済的困窮などの犯行目的の背景、犯罪までの被害者との関係の経緯、性格、成育歴等々)ので、必ずしも「礼節の衰退=凶悪犯罪の増加」という単純な一般論を唱えるのは無理があるということです。 また、注意が必要なのは、とくにマスコミはよくある犯罪は取り上げず、特異な、あるいは強烈な印象のある(つまりは凶悪な)犯罪を取り上げる傾向があるといえますから、一般に感じられるほど本当に凶悪な犯罪が増えているのかは改めて厳密な検証が必要です。また、情報開示でこれまで隠匿された犯罪が露見しやすくなったなどの時代的背景もあるでしょう。 さらに違った面から「礼節」と「犯罪」の関係を見ますと、例えば裁判所(つまり社会を管理する法権力)は犯罪を繰り返し犯す人を「ぐ犯性がある」といい、「規範意識が低い」として、刑務所に拘束して教育します。その内容はまさに規則正しい「礼儀」を教える(たたき込む)集団生活訓練といったものです。つまり、少なくとも社会を管理する側では「礼儀正しさを教えることは犯罪の発生を抑止する」と考え、それが一般にも社会通念だと思っているといえないでしょうか。ただ、これも本当に正しいか、疑問はありますが。 いくつかの観点から捉えてみました。敢えて結論に集約するのは避けたいと思います。後はご自分の意見を組み立ててください。結論を先に立てるのではなく、あくまで信用できる事実を基礎に実証的に論述することが大事だと思います。我々の世界では、その方法論を「エビデンス・ベースド」といいます。

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