• 締切済み

隋はなぜ、聖徳太子の文面を容認したのですか?

kitakanjinの回答

回答No.6

「隋書」によれば、遣隋使は600年、603年、607年と3回行われている。 「日出ずる・・・・」は、3回目の607年の事で、何れの時も倭王は多利思北弧(タリシヒコ)で有るが、国書には倭王の署名が無い。何故、国書に倭王の署名が無いのか? 北弧は男性名で、女官6~7百名を侍らせていた様で、推古女帝ではない。聖徳太子は推古女帝の摂政だったはずで、聖徳太子が小野妹子を隋に使わしたので有れば、当然倭王は推古天皇のはず・・・? 小野妹子を隋に使わしたのは聖徳太子ではないようだ。 そうすると「日出ずる・・」も聖徳太子の作ではない様だ。(直接の回答ではないが、参考までに)

381mk
質問者

お礼

ありがとうございました。 さきに回答して頂いた皆様も感謝します。 高度な(私には理解の及ばない)展開なのでここらで締め切らせて頂きます。

関連するQ&A

  • 聖徳太子の親書について

    聖徳太子は、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや・・・」と書かれた国書を隋の煬帝に出していますが、これは心境としてはどんな感じだったのでしょうか? つまり、 ・日本と隋は対等の国だよと言う自尊心の表れ ・隋の脅威を知らない(もしくは甘く考えてる)世間知らず のどちらだったのでしょうか? ※聖徳太子は天子では無い、聖徳太子は実在しないなどの説はこの際無視します。

  • 小野妹子は聖徳太子の国書を持って隋に行ってどうして生きて帰ってこれたのでしょうか?

    小野妹子は聖徳太子の国書を持って隋にいって、どうして生きて帰ってこれたのでしょうか? 聖徳太子の国書は「日出る処の天子,書を,日没する処の天子に致す。恙なきや。」で始まっていますが、中華思想の強い中国の王朝では非常に無礼なものと考えられたと思います。特に強大な力をもった統一王朝の隋に行って、対等な関係を示す「天子」を持った国書差し出せば無礼者としてその場で殺されてしまうような気がします。 ところが現実には裴世清を伴い帰国し、聖徳太子の対等外交政策は一応成功しました。高句麗の脅威に対抗するため倭国と手を結ぶ必要があった等の説明を聞きますが、どうもそれだけでは「天子」という言葉の記載のある対等の国書を受け取った上裴世清まで使者として送った理由としては、彼らの中華思想の強さや何百年かぶりの統一王朝の隋の登場といった背景を考えると、説得力がやや弱いと思います。 聖徳太子や小野妹子は隋王朝内部にコネがあったり、彼らの弱みを握っていたのでしょうか? あるいは朝鮮半島出身ではなく、大陸出身の渡来人がブレーンとしていたのでしょうか?

  • 「日出ずる処の天子」の国書は無礼ですか?

    日本が隋の煬帝に送った 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」 の国書は、外交儀礼上無礼なものですか? もし現在このような国書があったとしたら 礼儀に反するものとして非難されますか? よろしくお願いします。

  • 「日本」 二字の本来の意味は?

    はじめてここで質問させて頂きます。 よろしくお願いします。 ただいま語源を調べています。 日本をさす言葉に「大八州」「秋津島」「大和」など多くありますが、現在の「日本」となったのが701年の大宝律令と聞いております。 ただし、「日本」2字の由来が分かりません… 聖徳太子の隋煬帝への親書「日出処天子、日没処天子に書を致す。恙無きや」なども参考にしていますがいまいちです。 何か参考になる文献でも構いませんのでよろしくお願いします。

  • 遣隋使の国書の表現について

    NHK高校講座で、遣隋使小野妹子が隋の皇帝煬帝に持参した「国書」の内容が、紹介されています。書き出しの部分だと思うのですが、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と。 https://www2.nhk.or.jp/kokokoza/watch/?das_id=D0022120044_00000 この書に対して、隋の皇帝煬帝は不快感をあらわにしたということらしいのです。 素人考えですが、たとえば、隋の皇帝と日本の天皇が対等の立場であったとしても、こんな国書を受ければ、隋の皇帝煬帝でなくても怒るだろうと……。この書き出しは、外交文書として極めて失礼な印象を受けます。 教えてほしいのですが、この書き出しには日本側に何か意図があったのでしょうか???まさか「隋を挑発する」というような意図はなかったと思うのですが。それとも「特段失礼な書き出しでもない。」ということでしょうか???それとも当時の日本はまだ外交に疎かったということなのか???

  • 「日出ずる処の天子」激怒した本当の理由は?【空想】

    遣隋使で日本から送られた国書「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや~」に煬帝が激怒したとのことですが、歴史に記されなかった激怒の本当の理由は? 古い話で少々無茶ブリかもしれませんが、楽しい空想回答お願いしますw

  • いつから日本と呼ぶようになったの?

    歴史の授業中、生徒に『いつから日本と呼ぶようになったの?』と質問れたのですが、お恥ずかしいことに答えることが出来ませんでした。 720年には『日本書紀』が書かれているわけだから、聖徳太子が『日出づる処の天子・・』と隋の煬帝に書を送った辺りからなのかなぁとは思うのですが何方かご存知の方教えていただけないでしょうか。宜しくお願いします。

  • 聖徳太子は何故「太子」なの?

     下らない質問ですが、聖徳太子は何故「太子」と呼ばれるのでしょうか?  皇太子でも、皇子でもなく「太子」と呼称される理由が知りたいです。また、他に「太子」と呼称される方はおられるのでしょうか?

  • 古来より日本は文明国ですよね?

    紀元前に日本には縄文人がいましたが、大陸から渡ってきた弥生人達を受け入れ争いなく平和に暮らした。また縄文時代から発達していた水稲である熱帯ジャポニカなど日本から朝鮮半島へ水稲が伝わった。彼らは倭人と呼ばれ、文身をしカラフルな服装をしていた。また船で航海をしあらゆる文化を吸収し高い文化を共有していた。 沢山の倭国が生まれ倭国連合になり大倭国と呼ばれるようになる。大倭国の範囲は朝鮮半島南部、九州、四国、中国、近畿と広大な範囲になり、大倭国は、百済、新羅、高句麗などをその支配下に置いた。百済王家は必ず后を倭人とし、王になるまでは大倭国に人質として暮らさなければならなかった。 大倭国のアメノ タリシヒコ大王は自ら天子と名乗り、隋の煬帝に「日出でる天子、日没する天子に・・・」を送り、煬帝が激怒した。当時、大倭国と隋の国家の広さは同じくらいなので当然といえば当然であった。 その後、隋は唐になり大唐になり、大倭国と百済の連合国と大唐と新羅の連合国が戦い大倭国が敗れ、日本に変わった。大唐に敗れた百済、高句麗の王族は日本に亡命し、百済王、高麗王と姓を与えられ下級貴族として日本の建国に貢献した。 敗れた大倭国の人達は自らを恥とし、日本に変わって新しい国家作りを行った。大陸侵略は止めて今度は、蝦夷や南方に進出し、北海道や沖縄などを日本国に吸収していく。世界では帝国主義的な流れになり、欧米などの国家が他国を植民地化し帝国を築き謳歌していた。 日本はその流れに危機感を感じ自らを大国にし他国の支配化にならないように拡大していった。大日本帝国である。範囲は、本土、朝鮮半島、樺太、台湾、南洋諸島など広大な範囲である。 世界の列強国である、アメリカ合衆国、大英帝国、大日本帝国、フランス帝国、ドイツ帝国、ロシア帝国、オーストリー帝国、イタリア王国などの一角になり世界に発言力を持つようになる。 しかし大国同士の考えや価値観が違い次第に争うようになる。列強国同士の争いに他の国々も巻き込まれ、第二次世界大戦が始まる。大日本帝国は、オランダ、支那、オーストラリア、大英帝国を敗ったが、最後の砦であるアメリカ合衆国に敗れ、大日本帝国、大英帝国は崩壊。 その後、漁夫の利をいかし、ロシアと支那がアメリカと共に世界に様々なアピールをするようになっている。 これが大まかな日本の歴史じゃないですか? 支那、朝鮮が歴史教科書に文句を言う筋合いは無いと思いますが・・。

  • 聖徳太子が・・

    超能力者だったという観点から描いていた なんとなく少女漫画風な絵のコミックしりませんか?