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隋はなぜ、聖徳太子の文面を容認したのですか?

juntの回答

  • junt
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回答No.4

 隋が成立した時、百済や新羅は隋に使を派し、その柵封体制に入りましたが、高句麗は南朝、陳との国交を断たず、隋への朝貢をしませんでした。そのため、598年以降、隋は高句麗討伐の兵をおこして攻めましたが、これを降ろすことができなかったのです。推古13年(605年)天皇や聖徳太子らが誓願して仏像を造らせるのを聞いた時、高句麗の大興王が黄金三百両を献じたというのも、隋の侵攻に対して日本と友好関係を保っておこうという政治的配慮によるものです。日本もこの高句麗を通じて隋をめぐる国際情勢を熟知していたので 、隋とも友好関係を結び、その文化を摂取することを決意しました。  日本が当時の朝貢外交という慣行を無視して、あえて対等の文章を国書に使用したのは、一見無謀のように思われますが、隋が当時、高句麗の頑強な抵抗に手を焼いている最中であったことを知っていたからです。隋としては、高句麗と日本が友好関係を結ぶことを得策と考えなかったので、むしろ日本の要求を認め 高句麗との離間を図る政策を取ることが予想されたのです。これはNo.1さんのいうように瀬戸際外交などではなく、ここに聖徳太子の外交感覚の鋭さを読み取ることができるのです。  それから朝貢というのは、朝鮮のように毎年土産物と国書を持って行き、その柵封体制に入ることを言うわけですが、日本は朝鮮のように毎年使節を派遣するのではなく数十年に一遍行ける時(気がむいた時)、土産物を持って行くだけで国書は持って行きませんでした。それは、日本側にしてみれば、聖徳太子以来の対等関係を継承するということもありましたが、こうした姿勢を踏襲して再三国書を奉呈しても『蛮夷の書、無礼なる者あり』(隋書)と言われ紛争の火種になるだけであるから、国書を省略し土産物の貢献のみにとどめたのです。(それから隋や唐を日本の発展に寄与させるというのが日本の政策であり、遣隋使・遣唐使の留学費用が全て隋・唐持ちである以上、手ぶらというわけにはいかなかったのです)  隋や唐の側からしても、対等な文章の国書を受け取ってメンツを潰されるのも困るし、朝貢させて臣下にしてしまうと、王朝の一藩屏(はんぺい)となり、もしもの時は海を超えて兵を送り守らなければならない義務も負うわけです。これを避けるため日本を不臣の扱い(国書は持って来なくてもいいし、土産物も不定期でいい)としたのです。  しかし、この『対等外交』が問題になったことがありました。753年正月、唐朝は朝賀の席次を、当初西畔第一に吐蕃、第二に大食(アラビア)、東畔第一に新羅、第二に日本をあてました。ところが出席した日本の遣唐副使大伴古磨呂は猛然と抗議し、『朝貢する新羅と朝貢していない日本の席順は当然日本が上席につくべきだ』と言い張りました。唐王朝はこれを認め、日羅の順を入れ替えたという事実があります。

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