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西南戦争と西郷隆盛

西郷隆盛は西南戦争を勝とうとおもっていたのでしょうか?戦をするのに負ける気でやる人はいないと思いますが、勝とうと思えば桐野とかに固執せずに人材登用を図ればよかったのでは? 東京を目指さずに熊本あたりで結果としてうろついているのをみると、西郷は太政官や日本の為にあえて薩摩の不平将校などと自滅する道を初めから狙ったのではと思ってしまいますが。いかがでしょうか? よろしくお願いいたします。

  • knx
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  • goHawaii
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回答No.7

こんにちは。 西郷は蜂起したかったわけではありません。 地元で起こった騒動を、地元の名士として代表する立場に就き、いつのまにやら 西郷の叛乱とされただけです。 勝ち負けどころか、戦う気すらもってませんでした。 発端は薩摩で政府が旧薩摩藩の所有する武器類を接収するという話が出てきた ことなどから、薩摩に残っている旧薩摩藩士が接収にきた政府役人とのあいだで 武力衝突を起こして騒動が発端しました。 この騒動を、西郷を亡くすことに利用しようとした動きがあったという噂が出た ことも、騒動を大きくすることにつながりました。 西郷は当時の士族の象徴でしたので、徴兵制などで武士のアイデンティティを 奪う政策が続く当時の士族としては許せなかったのでしょう。 また、鹿児島に残された者と、東京に出て鹿児島を忘れたかのような振る舞いを する政府要職に就いた者たちとの間でのわだかまりもあったことなどから、 どんどんと話が大きくなったとも言えます。 今はわかりませんが、少なくとも30年前は戦役から100年も経っているにも関わ らず、西郷を愛し、西郷を殺す動きをとった大久保のことを憎む風が残って いました。敬天愛人の言葉は、今も愛されています。 ただ、その30年前ぐらいは、薩摩藩士の無念を思って田原坂で自決した人の ニュースが1年に1回はあったと記憶しているので、西南の役はそう昔の 話ではなかったのだと思います。 田原坂の戦いを地図上で見ればわかるのですが、かなり広範囲での戦闘です。 また、お互いが撃った弾丸同士がぶつかって圧着したかたちで残っているものが たくさん残っています。また、民家の土塀や林の中に弾丸や小刀の錆びたものが よく落ちていました。(地元なので、よく知っています。) 弾丸同士がぶつかるくらいの激闘だった・・・想像つきませんよね。 私の曽祖母が「薩摩も政府軍も関係なく、弾丸が貫通した穴に藁の紐を通して 薩摩藩の兵器類を接収する寒風摩擦の要領で亜鉛のついた傷口の肉をシゴき 取って介護した。」という経験談を語っていたそうです。 話が逸れてしまいましたが、元々は薩摩で起こった騒動を政府に問い質しに行くぞという旧薩摩藩士の動きが、14,000名もいたために蜂起軍の北上と見做されて 乱ではなくて役という扱いとなり、不幸にも早々に熊本での戦いを呼んでしまった というかたちでしょうか。 熊本城は行けばわかりますが、14,000名程度で簡単に抜ける城ではありません。 加藤清正の築城の謂れもあったものですから、薩摩は熊本城を抜くことに固執して しまったのが戦略上の大きなミスだったのかも知れません。 結果的に、清正が野戦をすることを想定して整備していた田原坂で決戦を行い、 その戦いの最中に背後を政府軍に衝かれることを許してしまいます。 薩軍は士族というよりも侍の集まりでしかなかったため、戦術的にはさておき 戦略的には大きく見劣りしていました。そもそも、道中のトラブルは力押しして 東京に歩いて辿り着くことが彼らの目標だったので、戦略を問われたとしても 関係なかったのかも知れません。 明治天皇は「西郷のことを殺すつもりはなかった。」と漏らしていますから、 14,000人規模のデモであった可能性もありますね。

knx
質問者

お礼

薩摩のご出身の方からのご回答誠にありがとうございます。上記の曾祖母様の経験談はすさまじいですね。『元々は薩摩で起こった騒動を政府に問い質しに行くぞという旧薩摩藩士の動き』というのが本質なのですね。だから勝敗はあまり関係なかったのでしょうか? 維新の功労者ですから当時の悲しみは大きいですね。大変勉強になりました。 またご機会がありましたよろしくお願い申し上げます。

その他の回答 (6)

  • jamiru
  • ベストアンサー率5% (170/3044)
回答No.6

西郷自身の性格でしょうね。 元々征韓論賛成など、好戦的な性格でもありましたからね。座して死ぬより戦って死ぬほうが良いと悟ったのかもしれません。 それに戊辰戦争で榎本武揚の蝦夷国を阻止した以上、日本国内で独立が出来ないことは分かっていたと思います。 戊辰戦争で総大将徳川慶喜は許されています。意外と許されている人は居ますが、あえて西郷は自決しています。最後は自分自身の性格に足をすくわれたのではないでしょうか。 妻も出征時にもう戻らぬことを理解してまし。

knx
質問者

お礼

征韓論は戦をするというつもりだったのでしょうか? 西郷の征韓論も本人の本意が不明だったところがあったのではないかとも思いますが、また時期をみて質問します。 もちろん薩摩士族の死者が相当数ありますので自決以外の道もなかったのでしょうか? 西郷の性格が維新の時に吉とでてのちに凶とでたのでしょうか。ありがとうございました。またよろしくお願いします。

  • ss79
  • ベストアンサー率33% (258/765)
回答No.5

西郷には武力蜂起の計画はなかったと思います。 彼は住居に押し掛けてくる兵仔達に居留守をつかって追い返すように家人に命じていましたし、毎日ウサギ狩りに出かけて山野を歩き悠々自適の生活を目指していました。 武力蜂起を聞いた第一声は「しまった」といいます。 実際明治政府の挑発的な行動はあったようでそれに激発してしまった事態は引き返す事は不可能だったでしょう。 後は成るようになると放置してしまったように思います。 カリスマと見なされてしまった以上彼は敗北と死しか見なかったと思います。

knx
質問者

お礼

西南の役がなくウサギ狩りをしていてその後に日清・日露の戦になった時に西郷が生きていたらどうだったか?想像してしまいますね。時代の大きいウネリに巻き込まれたのですね。大変ありがとうございました。またよろしくお願いします。

  • ipa222
  • ベストアンサー率20% (903/4455)
回答No.4

周りが騒ぎすぎて止めるに止められず、責任を取ってトップになってみんなと共に討ち死にしたと言うことでしょう。 三島由紀夫の割腹自殺も似たようなケースですね。はしごはずされてクーデターが頓挫したけど周りが盛り上がってしまって形だけ決行ということなので。 加藤の乱も似たような感じでした。 よくあるケースですね。

knx
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。三島由紀夫の割腹は背景が不勉強でしたが似たようなケースなのですね。加藤の乱もショウモナイイメージがありますが、時代の流れに翻弄したということでしょうか。またよろしくお願いします。

  • papatomo
  • ベストアンサー率42% (3/7)
回答No.3

西南の役について西郷自身が勝算など考えていなかったと思います。 前回答者様の仰る通り、西郷自身が企図した戦いではなく、当時の薩摩地方の政治的情勢(不平士族の高まりなど)それが近代日本及び日本軍創設の大立役者西郷に乗じた偶発的『事件』であったと思われるからです。  予想外は、彼の肉親(弟・従兄弟)が体制側につき、政府は賊軍として徹底的に鎮圧の方針を採った点だと思います。  西郷は不平士族を抑える為「ある程度」のアジテーションを中央政府に誇示できればと思っていたと考えていたのではないでしょうか?(それによる身分・経済的な救済も考慮していたかもしれません。)  また、自分であれば政府中央部と引き際の着地点が見出せる。と楽観視もあったのではないでしょうか?  しかし、乱の端緒・中央政府の対応・引くに引けないほどの緒戦の戦果、兵士の高まり・ジャーナリズムの発展(電信による新聞報道)で世論の高揚・国家建設時の賊軍に対する露悪表現・・・短い中では説明し切れませんが、西郷自身、立った際に此処までの騒ぎ 乱の首魁となるとは思っていなかったと思うのです。

knx
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。ご本人の意思でなく勝敗になく担がれたという事なのですね。戦になったときもやはり勝利を目指してはいなかったのでしょうか? 複雑な思いがめぐっていたのでしょうね。勉強になりました。またお願いします。

  • chico-is
  • ベストアンサー率9% (35/357)
回答No.2

その通りだと思います。 ただ 戦は相手がないと出来ません。 現在のデモ行進にたいして、政府が過剰反応 冷酷な行動をした為に、起きたと思われます。

knx
質問者

お礼

誠にありがとうございます。薩軍の功績がゆえに時代に合わずに必要がなくなり冷酷な対応をしてしまったのでしょうか。

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

西南戦争は西郷がしようとおもって仕掛けた戦いではありません。 西郷としては若手が動くのを止めたり逃げたりすることは忍びないし、勝てないことはわかっていてもやりたいようにやらせようとかつがれただけでしょう。 あえて自滅したという説もありますが、そこまでは考えていなかったんではないでしょうか。

knx
質問者

お礼

お礼の返事が遅くなり申し訳ございません。薩摩士族の自滅は太政官の思惑通りの結果となってしまったのでしょうか。まことにありがとうございました。またお願いします。

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