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朝鮮出兵に対しての太閤秀吉と西郷隆盛
あまり自信があるわけでなくこじつけかも知れません。 秀吉の朝鮮出兵と西郷が唱えた征韓論は何か共通点があり、それは直前の戦乱の時代の残り火を消すという作業であったのでは。 秀吉の国内統一には、内乱を収める必要があり、そのためには危険勢力を国外に向け海外利権を獲得させるというひとつの目的に収束させる事。 西郷は特に、薩摩の戊辰戦争でくすぶりが残る武士団の功名エネルギーを上手に有効利用する方便として、征韓論を唱えたのではないか。理想としては富国強兵と信じていながらも、現実的な武士の働き場所や、内乱の予防のために(この予防が失敗したので西南の役その他が起きる)出兵を主張したのではないだろうか。 2つに共通性はあったのでしょうか。それとも違った観点で考えたほうがよいのでしょうか。
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西郷隆盛の征韓論についてのみ、述べます。 西郷が征韓論を主張したことは史実です。 鹿児島県発行の『鹿児島県史西南戦争』第三巻(一九八〇年)のなかに、広瀬為興稿「明治十年西南ノ戦役土佐挙兵計画」という文書が載っています。それによると、西郷と参議の板垣退助、副島種臣、左院副議長の伊地知正治が軍隊派遣の戦略について協議しています。西郷は「先ツ兵ヲ北韓ニ上陸セシメ、平壌ヨリ京城ヲ包撃スルノ謀」を主張し、副島は賛成しました。しかし板垣は「先ツ其君主ヲ檎(とりこ)ニスルヲ主眼トスル」点では賛成しながら、南北挟み撃ちの戦略を主張し、西郷は同意しました。 司法省出仕だった有馬純雄(薩摩出身)は、自伝『維新史の片鱗』で、西郷に朝鮮占領後の民政官に任命するといわれ、関係地図を探したと述べています。 西郷が征韓論を唱えなかったというのは、西郷びいきの人びとのたんなる願望です。
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- syouiny
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最高度に政治的な行動です。 西郷隆盛は、この時期には、軍務は陸軍卿の山県有朋に委ね、筆頭参議として行動しています。もし陸軍大将としての計画であれば、参議の板垣退助、外務卿から参議になる副島種臣、立法機関の左院副議長伊地知正治と協議し、「進軍ノ戦略」は「板垣伊地知ノ二氏ニ委スヘシ」と述べたというのは、おかしなことになります。これは政府最高首脳の間での協議であったのです。
- a-koshino
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田村貞雄氏のサイトより↓ http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/kirino.htm#hayashi これを見る限り、使節を派遣してもだめだった場合の出兵計画です。 西郷は陸軍大将でもありますから、いざという際に勝てる計画を立てなかったら職務怠慢です。が、これをもって、政治的に征韓論を主張したとは言えないのでは? 毛利氏と田村氏の間で、かなりの泥仕合になったようですね。2年も続いたのは、お互い相手を論破する決定的根拠を欠いたからでしょうか?
- akikoll
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時代背景が異なる事から、共通点を見つけても観点を変えて見たほうがよいと思います。以下は補足。 秀吉の際は、李参平という優れた焼き物の技師を連れてきています。もっとも朝鮮では、軽蔑の目で技師は見られていました。竜安寺などの枯山水などは河原者と呼ばれる被差別民が作ったといわれています。能で有名な観阿弥などもいます。芸術を高くかっています。
お礼
交流を促した面もありますね。
- cse_ri2
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No.1の方の意見に同意。 西郷が主張したのは遣韓論であり、征韓論ではありません。 しかも遣韓論と言っても、自分が少数の同行者だけを連れて朝鮮に全権大使として赴くと主張しただけであり、軍隊や失業士族を動員しようなどいう意見は述べていませんでした。 この辺の内容については、明らかに学校の歴史教育の誤りですね。 司馬遼太郎の『翔ぶがごとく』を読むだけで、おおよその事情はわかるはずなのですが。(とっても、司馬作品の中でも『翔ぶがごとく』は雰囲気が暗く、読んでいてあまり面白くはなかったのですが) ちなみに、 >薩摩の戊辰戦争でくすぶりが残る武士団の功名エネルギーを上手に >有効利用する方便として については、いろいろと考えていたようです。 ただし、それは韓国に向ける軍隊にしようとは考えてはいなかったようです。 西郷隆盛の構想としては、満州に送って屯田兵とし、近い将来に現実のものとなるであろうロシアの満州進出に備えるものでした。 この辺の話は、教科書はもちろん、いろいろと資料を漁らないと見つからないのですが、西郷が日本だけでなく東亜の平和と安全にどれだけ心を砕いていたかが、だんだんと理解できてくるかと思います。
お礼
ロシアに備えるという遠大で必要な課題をもう導いていたわけです。 なかなか歴史教科書的知りえないところです。
- a-koshino
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西郷隆盛は征韓論を主張していません。 政権の首班という立場上、板垣退助などの強硬な征韓派を黙認していたようですが、最後には戦争回避のため国交回復の特使になろうとしましたので、賛成はしていなかったのではないかと考えています。 不平士族に対するガス抜きとして、征韓論が唱えられたのは事実でしょう。 秀吉の朝鮮出兵については、社会システム全体が戦争を前提に動いておりましたので、泰平へ移行するまでに大きな戦争が必要だった(関ヶ原や大坂の陣も同じ文脈で捉えられるでしょう)のは事実だと考えます。 違った観点で考えた方がよろしいでしょう。比較するなら、戦争→泰平と、泰平→戦争という移行過程の違いになりますかね。かなり難しい比較になりますが。
お礼
時代の差はあるでしょう。もちろん同じ尺度で考えられないでしょう。ガス抜き必要だったのでは。
お礼
やはりガス抜き的必要性と、ロシアに備えるの予防線あるいは、植民地経営的戦略とを考えていたのでしょう。