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人の意見をパクる心理

近頃、不思議に思うことがあります。 常に意見が対立し続けているにもかかわらず別の場においては、その対立者が、こちらの意見を肯定する形で(そのことを伏せて)自論として論を展開しているというようなことを何度か目撃しました。 これは本人が気づかないうちに行っている無意識の行動なのでしょうか。それとも別の心理なのでしょうか。 やたらに辞書や専門書等から引用して説明しようとすることとは、また違うのでしょうか。

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  • ベストアンサー
回答No.7

心理学部生です。 それは同調行動における同調、その中でも同一視という 「影響を受ける人が、影響を与える人のようでありたい思う、個人的欲求から生じる同調」と考えられます。 つまり、対立者の意見に対して影響(賛成)を受けていることが考察されます。

sirayukihime
質問者

お礼

お返事が遅れ失礼致しました。御回答、有難うございます。 「同一視」そうなのですか!私は「投影」「逆転移」といったことばを思い浮かべ ておりました。根底で通じるものでしょうか。意外なようで思い当たる感もあり ます。専門の御立場から示唆をいただき、たいへん参考になりました。

その他の回答 (6)

回答No.6

蛇足かもしれませんが、議論の対象が各人に共通であるという約束がはじめにないと、意味のある議論ができないと思います。また大切なのは各人が持っている前提は異なっていてもその上に何かを積み重ねるための過程には共通な論理が不可欠であると思います。この場合どの展望台が優れているかというのは本来の議論ではないと思います。問題は各人に見えているものを正確にあるいは忠実に述べることではないでしょうか。展望台にしてもヘリコプターなども展望台であるといえばまた別の話になってくると思います。ご返事下さらないで大丈夫です。がんばってください。

sirayukihime
質問者

お礼

再び御気にかけていただきまして恐縮です。 >議論の対象が各人に共通であるという約束がはじめにないと >前提は異なっていてもその上に何かを積み重ねるための過程には共通な論理が不可欠である このあたりの確認と確保が、まず以って困難なことと思いました。 >どの展望台が優れているかというのは本来の議論ではないと思います 仰るとおりだと思います。 しかしまた「どの展望台が優れているか」ということ自体、他を知らねばできない議論です。 そして各人の満足度、納得の如何を問われるレベルの問題ならばいざ知らず、一つの頂点を見極め、目指そうとする議題の場であったなら「どの展望台が優れているか」も議論に上るのは必然的であるとも考えます。このときこそ視野の広さ経験の多様さが問われてくると思います。逆に、これらが不足しているものに方向性や決定付けの権を預けてはならないと思います。 >各人に見えているものを正確にあるいは忠実に述べること これこそが対立の源になりかねないわけですから実に難しいことだと思います。 結局「展望台の優劣」どころか「いくつの展望台から観たのか」という数量の争いに堕しかねない。机上の知識を誇る人に、よく見受けられると感じます。集めてコレクションするばかりではなく磨いていかなければならない場合もあると思うのですが。なかには少ない材料で研ぎ澄まされた結論を導き出せるかたもいらっしゃいますが。普通は、たくさん仕入れて仕込みにかけ、わずかにでき上がったものを手にするばかりでしょう。 とまれ「展望台」を語っても「ヘリコプター」から観ている人の話には私は黙して傾聴するばかりです。 御回答者様の御意見には私は虚を突かれる事がよくあります。 御励ましくださいまして嬉しゅうございました。

  • hw4183
  • ベストアンサー率17% (15/86)
回答No.5

たびたびスイマセン。 お返事ありがとうございます。 背景は全く分かりませんが、大変な目に合われたようで。お怒りというか感情的なものは質問の中から伺い知れなかったものですからその点、ご勘弁願います。 そういう事でしたら、(一発かましたれ~!)くらいのことは言いたかったですが、(スイマセン) >>「深く考えているようには感じられない」 御回答者様が何故そのように判断できるのか不思議です もし、深く考える人であれば、人や、人の思想を罵倒したりしない。罵倒した人の考えをイケシャーシャーと他の人に自分の考えのように伝えたりは絶対しない。その点からそう思っただけでございます。 >>「その説がプラスになる」 誰に対してですか?少なくとも反論痛罵された者にとっては不快しか残りませんでしょう。 本当に不快極まりない奴ですね。懲らしめたい奴ですね。 ただ、あなたの説が人類にとって何かしらのプラスになるのであれば、良い考え、よい研究結果、より幸福になるなにか、であればたとえ宿敵や親の仇であったとしても、そのことを広く伝えたとしたら、そのこと自体はマイナスではないと思ったからです。 私は友達と意見の違いがあった時は徹底的に話します。タダ、感情移入があまりに激しい時は、後でがっかりしてシュンとなって反省します。あまり感情的にならないように努力しています。 大変でしょうが、最終的には「許す」って事も大切かと思います。 いろいろ枝葉の事になりましてすみません。 お気に障ったところがございましたらどうかお許しください。ありがとうございました。

sirayukihime
質問者

お礼

わざわざ有難うございます。 私の内なる事情を御察しいただき感謝致します。 >もし、深く考える人であれば、人や人の思想を罵倒したりしない。罵倒した人の考えをイケシャーシャーと他の人に自分の考えのように伝えたりは絶対しない。その点からそう思っただけでございます。 御もっともです。ですから私も今回、唖然としたわけですが…やはり本人は無意識かもしれないですね。先方は私が「指摘」した事自体を「罵倒」行為と感じているようですから私自身には、もちろん2倍3倍にして返してきたわけで結果、先方の行為は「純罵倒」行為に成り果てました。実を申し上げて私も大人しく黙っているばかりのタイプではありませんので(大局的に見て、見逃すということが良い結果に結び付くとは限らない)お返しを見舞ったことはございますが、それにしても先方の考えを自分の考えとして利用するなどは、ついぞ、しようとも思いませんでした。もちろん同意見にはなれないからです。ですが、やはり私自身、相手に対する思い込みがあったこと、「指摘」が「罵倒」と感じるタイプかも知れないとは思い至らなかったことが悔やまれます。 私の説ごとき「人類にとって何かしらのプラスになる」などとは考えられませんが私の論というのは、これ殆んど実体験に根ざしている部分が大ですので私から見れば些少な経験(本人にとってはイッパイイッパイなのでしょうが)に机上の知識をペタペタ貼り付けて張りぼてにしたような者に、私の血を吐くようななかから掴み取ったものを理解の努力もなく吹聴されてたまるか!という心境に陥りがちであったとも思います。 何よりナマジに言論を張ろうとする人物だけに有名人であれば引用を誇らしく行い無名の者であれば自己の懐から取り出したように振舞う「人の褌」根性に嫌悪を感じておりました。いや、それ以上に私同様、見抜けない周囲、見抜いていて良しとする周囲。これが一番嫌悪の対象でした。 相手方がクール且つ柔軟な姿勢を、わずかでも垣間見せてくれていたら当人自体は比較的あっさりと許せていたと思います。私が本当に許せなかったのは、その周辺だったのかも知れないです。 かえって御回答者様の御心に御負担を負わせてしまいましたこと、こちらこそ御許しください。有難う存じました。

回答No.4

少し外れているかもしれませんが、私はこう考えます。ある話題について議論をしている場合、まともな発言者は自分が納得できる前提を確保しつつ意見を述べています。いわば富士山を周囲のいろいろな展望台から観て、それぞれの人が見えたままを正確に述べているようなものです。この場合、富士山がいろいろ違って見えてもそのほうが当然なわけです。ところが人によっては自分の展望台を決めないでいろいろな展望台から観ることが好きな人がいます。こういう人は自分のことを客観的であると信じているのですが、実は自分の意見をもてないわけです。こういう人の中には自分の意見を述べる人を主観的であると言って非難する人もいます。ほかの人が見つけて使っている展望台を自分のものとするような人はたくさんいると思います。自分で展望台を決められないことを自覚している人は偉い人だと思うのですが、受験戦争での勝者の中にはそうでもない人がいるように思います。

sirayukihime
質問者

お礼

御回答者様のネームは、かねがね…私、内心「分かったら、なくなる教の教祖様」と呼ばせていただいております…冗談ですが、日頃、興味深い御回答を拝見し勉強させていただいております。 さて。例に挙げられましたことを実際に当てはめてみますと「富士山を、いろいろな展望台から観たら、いろいろ違って見えるのは当然」だと指摘したのは当方です。 そして自分がいる一つの展望台からは、こうとしか観えないと言う先方に、ならば、こちらへ来て、この展望台からも観て御覧なさい、あなたは一つの展望台からしか観ていませんよ、と指摘したことが相手側の不興を買ったわけです。もちろん相手は自分こそが客観的なのであり(それは 他者から仕入れた机上の知識 の数を指しているのでしょう)こちらにも来て観て御覧なさい、と言うのは押し付けである、つまり、それこそが主観である、というリクツなわけです。 結局のところ別の視点から見てみようとすれば他人の展望台を借りるしか手立てがない、しかし借りるという事自体が何故か本人は認め難いのではないでしょうか。それだけ自己自身が観自在にはなれないということ従って、その知識も借り物に頼らざるを得なくなる。しかも頼っていることを、やはり認めることができない。 こんなふうなことかと考えているのですが違っているのでしょうか。 面白い御回答をいただき有難うございます。

  • kirara-ki
  • ベストアンサー率31% (520/1650)
回答No.3

相手の考えを聞いて、途中から、そうだと思ったものの、それまでの経過があり、自分の意見をひっこめられないので、その場では、反論し、別の場では、さも、自分が始めからそのように考えていたかのように言っているのではないでしょうか。 または、意見が正しいのは分かっているけれど、兎に角相手が嫌いで、認められず、反論しいる。(面白くない。) でも、意見については、始めから同じ事を考えていたので、他の所では、賛成する。 私の回答は、ちょっと次元の低い答えかな。日常生活で、こういうのをよく目にしますので、つい、答えてしまいました。

sirayukihime
質問者

お礼

最初に御挙げになった例が最もシックリくるような気が致します。 とは言え二例目も当たっているように思われますが、ただ一つ「始めから同じ事を考えて」はいなかったと確信しております。多分、私の経験量のほうが相手方よりも多かったのだと思います。そこから相手方が気づいていない点を指摘したのが先方の自負心をいたく傷つけたのでしょう。 確かに日常のレベルにおいても、よく見受けられるシチュエーションではありますね。 職場などでも、あの人が言ったら頷くのに同様のことを、この人が言ったらウンと言わないということあります。これはもう話の中身は関係ないですね、単純な感情の問題で。 御回答者様の御答えが次元が低いのではありません、こうしたシチュエーションこそが低次元なのだと思います。 アドバイスいただき有難うございます。

  • hw4183
  • ベストアンサー率17% (15/86)
回答No.2

こんばんわ、ちょっと一言だけよろしいですか. 自論を持つ、という事は、実は大変な事なのですよ。情報をなるべくたくさん集め吟味し、考え、考えぬき、こうであると結論づけるわけです。時間もかかるし、手間もかかる。その上、間違ってる場合も多々あり、、、結構!大変なんですよ、 世間の論客、知識人と言われる方であっても、誰かの 情報を結構パクッテますから。パクラないと食っていけませんから。 その方はそれほど深く考えているようには感じられませんし、あなたの意見に本当には反対していない。反対するほどの考えはもってなくて、自分で取り入れちゃったわけですから、結果としてはOKでしょう!! その説がプラスになるのであれば良いということでしょう。ちょっとだけ、おおめに見てあげましょう。

sirayukihime
質問者

お礼

「自論を持つことは大変なこと」 そうですね、そのプロセスや大変さの度合いは様々でしょうが。また、どこまで考え抜いているのかも他者はもちろんのこと本人自身も自覚しにくいことかも知れません。 実はパクること自体を一番重大視しているわけではないのですが自分の思考のプロセスに対して自覚的であろうとするならば自分は、どこでどのように他者の情報を受け取り影響を受けてきたか、ということについても自覚的であるよう心がけることがあらま欲しき姿勢でしょう。ことに言論人、知識人足ろうとすれば、このような姿勢は初歩的なことだと考えます。それは相手が参考文献からの引用として断りを入れるほどの者ではないにせよ、です。思想をかたち付けようと欲する者の良心でもあると思います。 「深く考えているようには感じられない」 御回答者様が何故そのように判断できるのか不思議です…私は、ここで詳細な背景を一切明らかにしておりませんから。 反論の場で痛烈な批判罵倒をしているのですから結果OK!!と言えるものではないと思います。あの反論に次ぐ反論は何だったの?!とホントに不思議です。 「その説がプラスになる」 誰に対してですか?少なくとも反論痛罵された者にとっては不快しか残りませんでしょう。 ともあれアドバイス有難うございました。

  • siroutom1
  • ベストアンサー率20% (50/240)
回答No.1

常に意見が対立し続けている人は答えは同じなのに、視点の違いだけです。 あなたが1+2=3といえば、逆に言えば3-2=1だろ! 青信号は進めといえば、左右の青はとまれだぞ! 会話中は反論しても、いざ自分が他人に説明する場合、説明しにくい、相手に理解してもらえないので 正当論で話します。 ほとんどの場合、無意識でしょう(他人には正論??自分に対してはわざとと思ってしまうので腹が立ちます。) お酒を飲めば、楽しいし悪い人ばかりではありません。友達少ないですが仲良くしてあげてください。

sirayukihime
質問者

お礼

早速のアドバイス有難うございます。 >常に意見が対立し続けている人は答えは同じなのに、視点の違いだけです。 これはぁ~…違うと思います…答え自体、違っていると思います。ただ、その場では、そうとしか取れなかったということで相手の本音までは分かりませんけど。 ほんとに答えが合致しているのであれば、それを認めればいいことだと私は思うんですが。認めないためにこそ、あれこれ反論していると取れたのですけれど。 結局、別の場では「正当論」として持ち出すのであれば反論している場では感情だけで発言していたということなんでしょうか? 時間的にも適当な間隔を空けたりとかして工夫しているのかともとれますので意識的にやっているのかな?と思えます。それなりに知恵をめぐらすタイプの人物像でもありますので。 お酒はですね、個人的にはキライです。飲んだときとシラフでガラッと人格変わる人も苦手です。私は、いくら飲んでも多少陽気になるだけで、あんまり変わらないです。 飲んでもいないのにコロコロ言動が変わるような人は友だち少なくて不思議じゃないですし私も仲良くしたくありません。 すみません、最後は感情的になってしまいましたかね…

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  • 私の考えについて意見してほしいのですが。

    特に哲学について大学などで学んだことは全くないのですが(経営学部)、自分の身体操作技術論の発展過程で、東洋武術的身体論に、釈迦の至った「悟り」と最近の国際的なマルクス論の展開とに共通性を感じています。 具体的に 1 物事全般における三次元性 人の物事に対する視点や認識は二次元的であり、平面的である。また、それはスポットを当てたかのような範囲的な狭さも含んでいる。 2 釈迦の「悟り」と身体操作技術的観点から見た身体論 身体操作において身体の分割を考えた場合。それを分割していき中国武術(意拳)の王郷齋が至った細胞レベルまでの意識的身体分割そしてその統合。その延長線上に釈迦の「悟り」、(私の解釈では)宇宙との同化であり、具体的には素粒子レベルでの意識的身体分割によって宇宙という存在と釈迦自身との差異がなくなったのではないか。そして統合=宇宙との同化を「修行」(=おそらくは呼吸法やヨガ的なもの)を進め、「宇宙=自身」というものを「体感」し得た。 3 最近の国際的なマルクス論の展開 身体の分割=分業であること。そして、資本主義(ネグリの帝国)において内部でうごめくグローバルとローカルの二元的対立は、=輪廻。最終的な「共産主義」(でなくても現在の資本主義という枠からパラダイムシフトしたポスト資本主義社会)とは釈迦の至った輪廻から抜け出ること。 (今のところ)以上から 4 我々は宇宙(=自然=神)の一端 その一端である限り現実にそれを超越することはできない。すなわち終局的には、宇宙との同化。「宇宙との同化」をピラミッドの頂点としたとき、人間の行動や思想はそこへいたるプロセスに過ぎない(中でうごめく物事について人間というフィルターを通してみたときの是非はあるが)。 自分でもまだ淀んだイメージなので非常にわかりにくいと思いますが、こういった考えに意見してください。