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言語論的転回
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- simmel
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言語論的転回について説明いたします。 まず、言語論的転回の先駆けとなったカントの コペルニクス的転回というものをご存知でしょうか。 例えば、あなたの眼の前にりんごがあるとします。 一般的には、りんごがあなたの視覚を経由して脳で、 目の前の物は「りんご」と認識していると考えられ てきました。しかし、カントはこれを180度ひっくり 返します。まず、何よりも先にあなたの頭の中に、 「りんご」という概念があり、それが、目の前の ものをりんごとして成り立たせている、とするので す。つまり、赤い丸い果物を「りんご」と認識する ためには、あらかじめ「りんご」という概念を有して いる必要があるのです。 言語論的転回もこれとよく似ています。りんごを 「りんご」と認識するためには、「りんご」という 表象が必要になります。ここまではカントとほぼ、 同じと考えてくれてかまいません。ただ、カントと 異なる所は、その「りんご」という表象が言語に よって決定されている点です。 例えば、虹の例を用いて説明しましょう。一般的に 日本では虹は七色とされています。これは、日本語 の中では虹の色は7つに区分されているからです。 しかし、外国では虹は7色ではありません。3色で あったり、5色であったりします。もちろん、実際 に外国の虹の色が少ないということではありません。 その外国語は虹を3つあるいは、5つに区分している ということです。 このように、我々はまず虹を見てから、その色を 7色だと感じるのではなく、あらかじめ言語によって 決定されている色を虹の中に見るのです。言語の このような働きを指して、言語論的転回と言います。
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カントはご存知のように「コペルニクス的転回」によって、経験的認識が、外的世界の刺激を必要とするのに、それに反対して超越論的認識には外界の刺激を必要としない、自己触発があれば十分と言って、認識は私の表象にしたがう、といいましたが、これって間違いなのではないでしょうか? カントはデカルトと同じように、人間の内と外を分けて、認識は外にあるものを受容するのではなく、内にあるものを表象することだけで認識ができる、と言ったことになりますが、そもそも人間に「内なるもの」ってあるのでしょうか? フッサールは意識に関して、その本質は「志向性」にあると言っていますが、「志向性」とは、何ものかの意識で、意識内在というものはなく、意識は外に向かっているということです。 このフッサールの意識の考えはデカルトとカントの批判、つまり意識とか自我は人間の内部にある、ということへの批判として言われたことでした。 この考えを受けて、ハイデガーは実存の本質は「脱自・エクスターゼ」と言っていますが、「脱自」とは、おのれの外に出る、という意味。 だとするとカントのいう「コペルニクス的転回」は経験的認識よりも、超越論的認識の方が優位であり、先行する、ということを言ったものであり、人間の外よりも内が優位と言ったのと同じだとすれば、それではまるでフッサールやハイデガーがいうのとは逆になります。 そもそも人間の「内部」とか「内面」があるということが言われたのは、日本では明治維新以降であり、柄谷行人は「日本近代文学の起源」で、明治の言語改革によって、人為的に、制度的に作られたものと言っています。 つまり「内部」とか「内面」というのは、人間に生まれもってあるのではなく、それは「言説・ディススクール」だったということです。 たとえば近代文学では、文学を「内面の表現」という言い方をしますが、「表現」とはエクス・プレッションの訳で、「エクス」というのは、内部があって、それを外に押し出す、という意味ですから、あらかじめ「内面」があることを前提にしています。 しかし、その前提が戦後の70年代に消えました。 その結果、近代文学という制度が終わりました。 なぜ終わったのかといえば、19世紀に登場した「国民国家」が戦後終焉したからです。 言い代えると「内部」とか「内面」は戦争をする為に必要とされたからです。 戦争が終わって、それが必要ではなくなった、ということです。 さらに言えば、近代文学が必要でなくなった、ということです。 「内部」「内面」がなくなったとすれば、カントのいう「コペルニクス的転回」も、同時に終わったのではないでしょうか? つまりカントのいう超越論的認識の優位が終わって、経験的認識の優位に戻ったということ。 もう一度「コペルニクス的転回」を転回させる必要があるのではないか、ということです。 どう思いますか?
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