- ベストアンサー
言語論的転回
ghostbusterの回答
- ghostbuster
- ベストアンサー率81% (422/520)
「言語論的転回」(linguistic turn)というのは、20世紀に入って、近代哲学から現代哲学へと転換していく、その動向をさすことばとしてあります。 デカルトに端を発する近代の哲学は、〈わたしの意識〉を、まず確実なよりどころとして、哲学をうち立てていこうとします。そこでもんだいになるのは、人間の認識というのは、どのようなものなのか、ということです。 人間の認識がどこからくるのか、いったいどのようになされるのか、どれほど確実なものなのか、そして、人間に認識できるのは、どこからどこまでなのか。 さまざまな哲学者たちがこのもんだいに取り組んでいきます。 けれども、〈わたしの意識〉の確実さをよりどころにしているかぎり、「わたし」の外にいる他者や、世界の問題をうまく扱うことができない。 やはり〈わたしの意識〉から出発する哲学には、方法論的な欠陥があるのではないのか。 そういうところから、20世紀に入ってから、〈ことば〉の側から、このもんだいを解決しようとする動きが出てきます。 近代の意識を中心とする哲学が、出口のない袋小路に入り込んでしまったのは、哲学でつかわれる言語が適切なものではなかったのではないか。 「哲学的問題は、言語を改良することによって、もしくはわれわれが現在使っている言語をより良く理解することによって解決(または解消)される」 言語論的転回という言葉を最初に使ったのはベルクマンですが、一般に普及したのは、アメリカの哲学者リチャード・ローティが編纂したアンソロジー、『言語論的転回』が大きな影響を与えたことによります。 上記のことばはそのローティの有名な言葉ですが、この「言語論的転回」の特徴をよくあらわす言葉としてあると思います。 そのうえで、わかりにくいところ、もっと知りたいところなどあれば、補足をお願いします。
関連するQ&A
- 「コペルニクス的転回」はもう一度転回する必要がある
カントはご存知のように「コペルニクス的転回」によって、経験的認識が、外的世界の刺激を必要とするのに、それに反対して超越論的認識には外界の刺激を必要としない、自己触発があれば十分と言って、認識は私の表象にしたがう、といいましたが、これって間違いなのではないでしょうか? カントはデカルトと同じように、人間の内と外を分けて、認識は外にあるものを受容するのではなく、内にあるものを表象することだけで認識ができる、と言ったことになりますが、そもそも人間に「内なるもの」ってあるのでしょうか? フッサールは意識に関して、その本質は「志向性」にあると言っていますが、「志向性」とは、何ものかの意識で、意識内在というものはなく、意識は外に向かっているということです。 このフッサールの意識の考えはデカルトとカントの批判、つまり意識とか自我は人間の内部にある、ということへの批判として言われたことでした。 この考えを受けて、ハイデガーは実存の本質は「脱自・エクスターゼ」と言っていますが、「脱自」とは、おのれの外に出る、という意味。 だとするとカントのいう「コペルニクス的転回」は経験的認識よりも、超越論的認識の方が優位であり、先行する、ということを言ったものであり、人間の外よりも内が優位と言ったのと同じだとすれば、それではまるでフッサールやハイデガーがいうのとは逆になります。 そもそも人間の「内部」とか「内面」があるということが言われたのは、日本では明治維新以降であり、柄谷行人は「日本近代文学の起源」で、明治の言語改革によって、人為的に、制度的に作られたものと言っています。 つまり「内部」とか「内面」というのは、人間に生まれもってあるのではなく、それは「言説・ディススクール」だったということです。 たとえば近代文学では、文学を「内面の表現」という言い方をしますが、「表現」とはエクス・プレッションの訳で、「エクス」というのは、内部があって、それを外に押し出す、という意味ですから、あらかじめ「内面」があることを前提にしています。 しかし、その前提が戦後の70年代に消えました。 その結果、近代文学という制度が終わりました。 なぜ終わったのかといえば、19世紀に登場した「国民国家」が戦後終焉したからです。 言い代えると「内部」とか「内面」は戦争をする為に必要とされたからです。 戦争が終わって、それが必要ではなくなった、ということです。 さらに言えば、近代文学が必要でなくなった、ということです。 「内部」「内面」がなくなったとすれば、カントのいう「コペルニクス的転回」も、同時に終わったのではないでしょうか? つまりカントのいう超越論的認識の優位が終わって、経験的認識の優位に戻ったということ。 もう一度「コペルニクス的転回」を転回させる必要があるのではないか、ということです。 どう思いますか?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 言語論についての質問です
言語論の勉強をしているのですが、 「効果的な言語運用の方法」というのがどうしてもわかりません。 どなたか説明していただけると嬉しいです。お願いします
- ベストアンサー
- その他(学問・教育)
- 言語相対論について
言語相対論という考え方があるのを知りました。 しかし、言語が思考を規定したり、「強い仮説」のように思想自体が言語によって作られているなら、言語を持たない場合は思考をもたないということになるのでしょうか。 昔オオカミに育てられた少女という本を読んだことがありますが、 たとえば彼女たちは何も考えずに生きてきたということなのでしょうか。 また、私自身が友達、先生からうけた指摘に 「論理的に物事を考えるのが非常に苦手で、良くも悪くも感性が先行する。感覚での理解がすばらしいが、言語を使って理解、表現する訓練をしないと一般的には理解しているとみなされない」 というものがあります。 しかし、この考え方では「感覚で理解している」というのは結局「理解していない」ことになるのですか? (感覚での理解というのは、いいたいことの感じはわかるけど日本語では説明できない、という感覚です) 言語相対論についての理解が不十分なままの質問ですいません。 初心者でもわかる文献、また言語相対論的な考え方を示すための実験例なのが書かれている本がございましたら 同時に教えていただきたいです。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- 転回系について質問です
以下の質問では、 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10100605415 三和音の転回形は第一転回形と第二転回形しか存在しないという立場と、 根音をベースとして5つ存在するという意見に分かれています。 どちらが正しいのでしょうか? 素人です。
- ベストアンサー
- 作詞・作曲
補足
話としてはよく分かりました。ありがとうございました。 しかし、自己の意識を重視する考え方が袋小路にはまったから次に言語に注目するというのは、やや唐突な印象を受けるんですが・・哲学が意識分析から言語分析にいたる具体的なプロセスが何かあるのでしょうか?