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キリスト教における洗礼ヨハネについて

kodai78の回答

  • kodai78
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回答No.1

まず、洗礼者ヨハネの位置づけですが、彼は旧約聖書のイザヤ書40章3節で預言されていた、メシアの通るべき道を正すべく存在となります。 当時のユダヤ教のどの派にも属せず、荒野で修行をし、身分や立場を問わずに人々に教えを説いていました。真剣に自らの罪を悔い改めた者に儀式的に水の洗礼を授けていた、歴史上ではイエスの師匠と言っても差し支えのない人物です。しかしヨハネは自分を「私の後からこられる方はより力があり(イエスのことです)、私はその方の衣服を脱がす値打ちもない」といっており、イエスが洗礼を受けに現れた時も「私こそあなたから洗礼を受けるべきでは」と言っています。しかし、イエスはそれを拒みヨハネから洗礼を受けることを主張しました。 その意味ではたしかに不可解に思えるかもしれません。 ただし彼の行動は後に布教活動を始めたイエスの見本であり、自ら進んで荒野に赴き弱者の立場に立ち、病苦や罪の意識に苦しんでいる者に対し然るべき導きを説いていましたが、驕る権力者に対しては容赦のない批判をしました。その結果、ユダヤの国主ヘロデの不倫を批判し、投獄され、最後に刑死しました。これはイエスも同じような道をたどることになります。キリスト教の教えではイエスは三日目に復活しますが。 私はクリスチャンではありませんが、キリスト教について勉強した時期があります。そしてほぼ同時期、統一教会の勧誘も受けたこともあるため、いくらかですがその教理も知っています。統一教会では洗礼者ヨハネをメシアであるイエスの直接弟子にならなかった事から、謀反者のように教えていますが、私には全く理解できません。 聖書的に考えれば、彼は主(イエス)の通る道を正すために現れたのであって、後に従い弟子になるための人物ではないと思います。 さらに統一教会がヨハネを否定する原因の大きな所に、マタイ福音書11章にある、ヨハネが牢獄から「来たるべき方はあなたですか。それとも別の方を待つべきですか」とイエスに対する矛盾ともとれる質問を彼の弟子を通して行なった箇所があります。しかし、当時イエスの説く教えは必ずしも誰からも受け入れられるものではなかったようです。いつの時代も正しいことを言っている者が尊重されるとは限らないように、悪態も多かったと考えられます。獄中の直接イエスの布教を見ることのできないヨハネには不安だった、と私は考えます。そこで彼が出した質問も「来たるべき方(つまりメシア)」への忠誠ゆえの再確認であって、それを納得できれば改めてイエスへの信頼もできたはずです。そこでイエスはヨハネの弟子達に「あなた達が聞いたり見たりしたことをヨハネに報告しなさい」と答えており、「自分は絶対メシアだから信じろ」などといった強制はせず、事実を聞いて自らの意思で悟るように述べたのだと思います。 そしてその直後、イエスは群集に向かってヨハネを「預言者より優れたもの」と高く評価しています。不和になった相手をここまで賞賛はしないと思います。 イエスが十字架で刑死したのはヨハネの不信によるものとする統一教会の教えは、彼らの独特の考えを成立させるために聖書の部分的な引用を加えたものにしか思えず、私には納得しかねます。イエスとヨハネの不和というのは統一原理の特有の解釈と私は考えています。 それが正しいか、間違いかの結論は遠慮させていただきます。 最後に言わせていただきますが、統一教会とキリスト教は似ているようで全く異なる、相容れようのない教えの宗教です。こういうと統一教会側は私のような者をサタンと呼ぶかもしれませんが。 どちらか教理の視点のみではなく、age1118さんが自主的、客観的に判断されることをお勧めします。

age1118
質問者

お礼

元々キリスト教であった関係上、それなりにキリスト教の理解もあるつもりなんです。 イエスの示唆に対し、私はエリヤでないと否定したり、いつまでも別行動をとっていたり、重要な役の割に変な死に方をしていたり、天の国で一番小さい者と評価されたりと私自身は納得できないものが、統一原理で氷解したのですが、父親が納得しないのを見て、一般のクリスチャンはどう考えるのか知りたくなったのです。どうもありがとうございます。

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