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卑弥呼は天皇の祖先と考えていいですか。

 古代史に興味があるものですが、一つ疑問があります。天皇の系統は神武天皇まで遡れると思いますが、さらにその前は大王(おおきみ)と呼ばれていたと思います。邪馬台国の女王卑弥呼は文字で記録のある最古の女王(つまりは日本の最古の中心人物)なので、言ってみれば天皇の祖先と考えていいでしょうか。  卑弥呼から始まって、それがやがて天皇になったというルーツが妥当なのかどうか知りたいです。  よろしくお願いします。  

みんなの回答

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10538/33121)
回答No.10

>天皇の系統は神武天皇まで遡れると思いますが、さらにその前は大王(おおきみ)と呼ばれていたと思います。 そこが違います。第40代天皇とされる天武天皇(大海人皇子)が初めて「天皇」という言葉を使い始めたとされています。それ以前の天皇のことは「大王(おおきみ、またはだいおう)」と呼ばれていたのです。まあいってみれば呼称変更です。 >卑弥呼から始まって、それがやがて天皇になったというルーツ たぶんそんな話は明治政府が作った「万世一系」の話にも、日本書紀にも古事記にもどこにもないと思います。 そもそも日本国最初の「公式な歴史書」である日本書紀には卑弥呼に関する記述はありません。「天照大神が卑弥呼だ説」はありますが、日本書紀には一言もそんなことは記載はありません。 卑弥呼はあくまで中国側の記録に「東の方に邪馬台国ってのがあって、そっから使者が来たよ。その邪馬台国ってのは卑弥呼って女王がいる国なんだってさ」と記載があったから存在が記録に残っているだけです。 日本書紀や古事記には「伝説」の話が沢山入っています。質問者さんとて「棒でグルグルかき回したら日本列島になった」という話が歴史的事実だとは思わないでしょ? 神武天皇から系譜は、あくまで伝説上の話に過ぎません。 「歴史的に、確実に存在したであろうと思われる最古の天皇」は、第21代とされる雄略天皇です。さきたま古墳群から出土した剣に「ワカタケル大王」の名前が彫られていて、存在が確認されました。当時は雄略天皇のことをワカタケル大王と呼んでいたのです。 それ以前の天皇については、存在を確認できる出土品がないのでなんともいえません。今後どこかで画期的な発見があれば遡る可能性はあります。 「卑弥呼と天皇(大王)の関係」は全く分かりません。卑弥呼が3世紀の話で、5世紀の宋の記録に「倭の五王」の記載が出るまでの4世紀が「空白の期間」となっています。4世紀は日本では前方後円墳が盛んに作られていた時期なのですが、文字の記録がないので4世紀の日本で何が起きていたのかは日本史の中でも今もっともホットなテーマのひとつですね。我々一般人は「邪馬台国がどこにあったか」なんかで盛り上がりますが、古代史研究者で最もアツいのは「4世紀に何があったか」です。 しかし卑弥呼と天皇(大和朝廷)の関係を示唆する証拠はあります。 現在邪馬台国の場所として最も有力なのが奈良県にある纏向遺跡なのですが、ここにある「箸墓古墳」は「最古の前方後円墳」ではないかといわれています。前方後円墳は大和朝廷の象徴として大和朝廷の支配権がどこまで及んでいたかを測れるものなのですが、元祖前方後円墳は箸墓古墳ではないかといわれています。 そしてその箸墓古墳に埋葬されているのは「倭迹迹日百襲姫命」という舌を噛みそうな名前の女性だといわれています。邪馬台国じゃないかといわれてる場所にある、女性の立派なお墓。しかも時代は3世紀くらい。ということはそこは卑弥呼の墓なのではないと考えるのは自然ですね。 じゃあ発掘して調べりゃいいじゃねえかと思うところなのですが、箸墓古墳は宮内庁が管理していて、宮内庁は発掘調査を許可しないのです。 けれど大和朝廷の象徴である前方後円墳が卑弥呼の墓から始まったのだとしたら、卑弥呼が大和朝廷に繋がっていくものだったと考えるべきでしょうね。ま、そもそも「邪馬台」って字が当時の中国語読みだと「ヤマタォ」になるらしいですからね。

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  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (386/1190)
回答No.9

>天皇の系統は神武天皇まで遡れると思いますが、さらにその前は大王(おおきみ)と呼ばれていたと思います。 この認識は違いますよ。 正規の歴史書の日本書紀が編纂された時に、諡として〇〇天皇と 表記されたのです、万葉集は日本書紀編纂前なので、大王の 表記です。 日本書紀には卑弥呼が古事記のスーパーウーマン神功皇后では ないかと、チラット書かれていますね。 個人的にはロマンが有って宜しいのですが、違う様です。

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  • jack-a3
  • ベストアンサー率34% (199/585)
回答No.8

現在有力な説としてはそうなります。が、細かいところではいろんな説があります。 そもそも邪馬台国は「ヤマトコク」、つまり大和国のことだという説が有力です。 また卑弥呼は「ヒメミコ」、つまり皇女や女王のことで、これはすなわち神功皇后という説を唱える人もいます。こうすると邪馬台国の女王卑弥呼はイコール大和朝廷の神功皇后であり、そのまんま天皇家に直接繋がる、となります。 ただし年代とかが合わない部分もあり、これが定説とはまではなっていません。他にも邪馬台国が周囲の小国を吸収や併合など行いながら勢力を拡大していき、やがて連合国家としての大和朝廷となったとする説も有力です。

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  • 4500rpm
  • ベストアンサー率51% (2922/5695)
回答No.7

いろいろな学説がありますが、そのうちの一つでは、天皇の祖先と考える説もあります。 ・天皇の祖先をたどると、天照大神にさかのぼれます。 ・天皇などの在位期間当てはめて、天照大神の代までさかのぼると、丁度、魏志倭人伝の卑弥呼の時代に当たります。 ・なので、卑弥呼=天照大神であるという可能性が高い 一つの説にこだわらず、いろいろな意見や証拠、文献を調べて、あーだこーだと考えるのが面白いのではありませんか。

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回答No.6

どうでしょう? 卑弥呼は婚姻しておらず、実子もいなかったとされております。 また、卑弥呼の後継には男王が立つも内乱状態になり、新たに臺與(トヨまたはイヨ 壹與・台与・壱与とも)という13歳の少女を女王に据えた結果安定した。と記されています。 が、それ以降の魏志倭人伝の記述は途絶えています。 なので、邪馬台国が天皇家のルーツという説では卑弥呼の子孫ではなく臺與の子孫と考えるのが妥当かと。 ちなみに邪馬台国に魏からの使者が来た時には既に卑弥呼は亡く、臺與の統治下だったそうです。 臺與の正体も不明ですが、卑弥呼の実子では無いことは確かだそうです。 何かで読んだのはその後邪馬台国はまた男王になるも滅んでしまったとか、また違う部族が関西の方で力を持ちそれが天皇になったとか、継体天皇より前があやふやで実在やつながりが不確とか…

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  • 69015802
  • ベストアンサー率29% (370/1252)
回答No.5

天皇そのものが最初の方は権威づけのための作り話だから意味のない質問だと思いますが

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  • kyokoma
  • ベストアンサー率39% (214/542)
回答No.4

宮内庁も歴史家も認めていません。 中国の史書にその名があるだけで、 文字が伝わっていなかった時代に文書を送ったとは考えにくいのと日本書紀にも参考程度にしか扱われていない為、 あくまで推測の域を出ておらず、 学術的に断定されていません。

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  • SPROCKETER
  • ベストアンサー率26% (2044/7626)
回答No.3

卑弥呼は天皇祖先では無いでしょうね。学説がいくつかありますが、卑弥呼は男性で、娘がいたので、女性と勘違いされているようです。卑弥呼は女装して猥褻な話をするのが人気があったのも勘違いの原因になっているようです。今で言えば、落語家や漫才師のような人だったようです。こういう人が朝廷(天皇)をやっていたはずが無く、天皇の先祖では無いでしょうね。むしろ、政治家だったのだと思います。 卑弥呼の墓が見つからないのも、それを物語っています。おそらく、小さな墓しか作らなかったのだろうと思います。卑弥呼は朝廷の下で政治をやっていた人物で、天皇の先祖では無いでしょうね。

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回答No.2

個人的には、違うと思ってるけど、証明できないので、自由に好きな説を信じたら良いんじゃないでしょうか?

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回答No.1

そうですね。 その解釈でいいと思います。

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