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イエスとは人間存在として実在していた。その2

Nakay702の回答

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  • Nakay702
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回答No.4

(その2) かくして、キリスト教の国教化を経て間もなく、ローマ帝国の隅々にキリスト教が伝播し、人々を危機からの脱出にいざなうべく、キリスト教的信念が民心の内部に醸成されていきます。ただ、ヘレニズムとヘブライズムの間には徹底的な異質性がありました。キリスト教即ちヘブライズムと、ギリシャ文化即ちヘレニズムとは徹底的に異なり、相克的でさえありました。キリスト教的霊感とギリシャ的霊感との二者ほど完全に異質的なものは想像するのも容易ではないとされます。それにもかかわらず、前者は後者に自己を順応させる、しかも表面的にでなく根底から順応させるしか仕方がなかったのです。歴史的キリスト教は、この点において悲劇的な運命を負っていました。それは、それ自身の言葉でものを語ったことはほとんど一度もなかったのです。その神学においても、神はキリスト教的でありながら、言葉の方は本質的にギリシャから来ています。しかも一層厳密に観察すれば、ギリシャ的ロゴスは、永続的にまた不可避的にキリスト教的直観を裏切っていることに気づきます。ギリシャ人は彼岸・超自然的なものに対して盲目であり、キリスト教徒は此岸・自然的なものに対して盲目です。そしてキリスト教徒は、自分に見えながら自分では言うことのできないことを、キリスト教徒が見ているものに対して盲目であるギリシャ人に説明してもらわねばならないのです。 しかし、ここに現れた「救世主」がパウロその人でした。安心して身を託せる政体もなく、進んで心を委ねられる神もない当時の地中海周辺世界。しかも政体は民心に逆行するばかりです。そんな状況下にあって、単純明快に訴えるキリスト教が多くの人心を捕えたとしても不思議はないでしょう。その意味でイエスはカエサルと並んで、いや、彼より遥かに頭抜けた「世界史的個人」(ヘーゲルの用語)でありました。ただし、キリスト教は、出現しただけで即、人口に膾炙されたのではありません。幾つかの条件が整えられることが必要でした。例えば、異質なヘブライズムとヘレニズムの合体や、異民族への布教などがそれです。キリスト教は数回にわたってギリシャ化しますが、その第一回目はすでにキリスト教の揺籃期に行われました。その最大の業績が哲学者フィロンの著作で、モーゼ信仰とギリシャ哲学との巧みな統合でした。他方、キリスト教をめぐる異質性をつなぎ合わせ、それを世界宗教に高める基をつくったのがパウロです。彼は積極的に異民族への布教を行いました。彼の献身がなかったら、キリスト教は単なる「単一民族の宗教」でしかなかったはずです。 パウロは1世紀初頭に、商業・文化の重要な中心地キリキヤ州タルソというディアスポラに生まれ、アラム語とヘブル語を知っていたようです。しかし彼の母語はギリシャ語で、彼が聖書を読んだのも「七十人訳」によってでした。パウロは、彼の育った環境から、おそらくかなり深い影響を受けたのでしょう。彼の伝えたキリスト教にはヘレニズム的宗教感情が刻印されています。しかし、彼の世俗的〔非宗教的〕な教養は割合皮相なものだったようです。彼は同時代人のフィロンのように、聖書の啓示とギリシャ哲学の総合を試みることはなかったようです。ただ、どこへ行っても、まず教団の集会が開かれる時に会堂に赴きました。会堂の礼拝では聖書を読んで注解することが重要な位置を占めており、聖書について何か言いたい人は誰でも発言できるので、パウロは発言を求め、聖書によって、イエスこそイスラエルの待望していたメシアであることを論証します。こうしてパウロは、同胞や異教からの改宗者を信者に獲得しただけでなく、会堂の会員ではないが、会堂に集まって教えを聞き、ユダヤ教の慣習も若干取り入れている半改宗者、つまり「神を怖れる者」と言われる大衆をも信者に獲得したのでした。受け入れられ方は場所によって非常に異なっていました。ある時は、好意的な聴衆に出会い、彼の使信によってユダヤ教団の有力な会員を信者に得て、何の心配もなく宣教を続けることができましたが、またある時には逆に反感をそそり、時には暴力に見舞われることさえありました。その時は、心進まないながらも異邦人に正面から対峙し、誰でも聞きたい人が聞けるようにと、広場で話をしました。そして新しい聴衆には、キリストを告げ知らせる前に、まず唯一の神を啓示する必要があったので、その聴衆にあわせて私信を語るのでした。 キリスト教はひとたび成立すると、ローマ帝国内の各地へ拡散しました。特に、国教化の後は、その勢いは加速されます。シルクロードが、インドと中国との間を往来する仏教徒巡礼者のおかげで、砂漠と高山を貫く修道士と修道院と伝導の道路となったように、(ローマの)軍団兵がアルプスを越え、ステップを貫いて軍事目的のための道路を建設した時、若いキリスト教の道もまた切り開かれたのです。古代ローマの、前キリスト教時代の琥珀街道は、全く特別な種類の思想伝達路でありました。それは、この道が特に立派に機能したからであるし、また近隣諸民族にたいそう親しみ深いものであったからです。そのため、おそらく紀元1世紀には、すでにドナウ川沿いにキリスト教徒が出現したばかりか、キリスト教に関する情報と新しい教えに対する反響とが、ドナウ川の北に住むクアディー族のもとにまで伝わりました。このように、時の人口に膾炙したキリスト教は、琥珀街道を通って、早くも紀元1世紀にはドナウ川の北まで伝わったようです。その後、度重なる迫害にもかかわらず、信徒は増え続け、313年には公認され(後年コンスタンチヌス帝自身洗礼を受けている)、392年にはローマ帝国の国教となったのは周知のとおりです。 以上を要約します。 紀元前2~紀元1世紀頃、地中海周辺のローマ及びその属国の人々は、「身を託すべき神」ないし「信念」たる法や律法の正常な機能を喪失して、いわゆる「危機」に陥りました。その後2,3世紀もの間辛酸をなめ、苦悩を経た後、新しい「信念」たりうるキリスト教、即ち「心を委ね得る神」を獲得することにより、ようやく「危機」からの脱却を果たします。かくして、古代の「歴史的危機」は克服されるに至ったわけですが、思うにイエスとパウロは、この総合的な意味でも、紛れもない救世主でありました。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 喜んでこんな文章を組み立てたあなたは知を愛するのだろう。 その1の質問でももう一人知恵達者からお𠮟り(激励)を受けたが、その文言とは微妙に差異もある助言だよね。 やはり人によっていろいろな見解があるのだろう。 この回答の内容は良くて、自分自身が意見を持つからと無視していい内容ではないね。 私のおもしろ質問もまんざらではないとは思うんだよ。 哲学というのは無理やり考えさせるための拷問教室だと考えていて、のたうち回ったほうが気分爽快なんだ。 皮肉を言えば「幸福になるための宗教?」仏教は世界の全てが苦痛であると教える。 前提だよ。 キリスト教は、我々だけは実に罪深いと教える。 それも前提。 それを全ての人が罪深いと言えば、喧嘩を売ったのはキリスト教徒が先だ。 自らの罪深さを知らなければ愚か者であるだろう。 しかし彼らは、特別に罪深いのだ。 言いがかりをつけられて、黙っていられるか!

Flareon
質問者

補足

根源的な刷り込みで与えられる自由への渇望。 そして仕組まれた手品で突き動かされる。 破壊衝動だよ。

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