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イエスとは人間存在として実在していた。その2

mekiyanの回答

  • mekiyan
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回答No.2

なんか長ったらしくて読む気にもならんけど、ユダヤ教とキリスト教は全く別物で一緒くたにすして論法してもアカンがな。 キリスト教は実在したイエス・キリストが死後180年以上も経ってから、宗教として組織がつくられていったもの。 ユダヤ教とキリスト教が合併されたのは、歴史的にみたら、つい最近のことで100年もたってませんがな。合併されといっても、教会とかは別で、ユダヤ教のお寺には、ユダヤ教信者以外は入れもしません。彼らは豚肉を食べるのもご法度です。

Flareon
質問者

お礼

ありがとうね。 日本人がキリスト教を理解したいと思い立って、少し勉強しようとすると、途端に頭が悪くなって酷く困惑するということは、傾向的に「あるある」なんだよ。 それで中二病に罹患する疫病という性質を前提にしたうえで、私は中二病を解消したいから、ものすごく嫌がりながらキリスト教に関して思案したんだ。 本末転倒だよね。 まあ、腹を立てながら、そういうのに取り組んできたので、このページに関連する質問というのが例示されるが、出てくるのは確信犯的に喧嘩を売っている私の挑発的な質問だ。 そのページに飛んで、さらに関連質問を読み返しても、私の罵詈雑言による挑発行為だろう。 どこかの時点で自信がついたから、日本人向けの中二病ワクチンの開発に成功すると、逆にキリスト教圏の中二病の発症予防薬が効かなくなるかもしれない、とも言及していて、そういうイヤガラセも兼ねた挑発だったよ。

Flareon
質問者

補足

備忘録。(手記) 私の田舎の小中学校で1年上の先輩にキリスト教徒の子弟がいた。 隣に住んでいる私のクラスの同級生が、特定の日に夜になるとキリスト教系の祈りの言葉が隣家にも聞こえてくると話したけども、その先輩を悪く言う人はいなかった。でも時折その先輩の話が噂になった。 私もその先輩と話したことがあるけども、他者にいたわりが深く言質に、高潔な精神と高徳さを感じる立派な人で、幼いながらに感銘を覚え、多くの先輩の中でも多くの尊敬を抱いたものだ。 その人が私の人生で出会った、初めてのキリスト教徒だよ。 この学問カテゴリーでも、珍しくも尊敬できるキリスト教徒さんは時々登場する。 別の話に飛ぶ。 日本人キリスト教徒というのは、「人類で最も高貴な人種の一人」という傲慢さで中二病沼にはめる下心(要するに勧誘)をしないときには、周辺に理不尽な喚き散らしをして、しかめっ面にさせてくれる。 「人類で最も高貴な人種の一人」というのは、文明開化期に西洋の様々な文明の成果を日本に輸入する輸入ブローカーは、西洋人の精神を理解するためにはキリスト教になるのが手っ取り早かった。したがって一族として資産形成したり、高い社会的な地位を確立するには、成功をかみしめたのは主にWW2終了後だが、キリスト教への人柱になる自己犠牲は利益獲得に効率的だった。 そうした片りんを、期待を交えて言及する質問は哲学カテゴリーでも散見する。 キリスト教徒は優秀な民族の象徴だ。 キリスト教に入信すれば幸せになれる。 キリスト教では天国が保証されている。(従わないなら地獄に落としてやる) その他にも耳障りな異口同音が多い。 話がまた飛ぶ。 キリスト教の戒律では人を殺してはいけないというルールがある。 しかしだ、キリスト教を押し付けると、それを受け入れた人の精神は死ぬ。 その構造とは、人にはそもそもその人の信仰があり神が宿っている。 キリスト教を押し付けるとその人に宿る神は死ぬ。 他人の神様を殺すのは、彼らにとって喜ぶべき暴力だ。 英雄にりる所業だ。 我らの神こそ唯一にして絶対だ。 しかし、キリスト教を受け入れた人は、つまるところ精神的なキリスト教徒による殺害の成果として、キリスト教に入信するのだ。 それは、人を殺してはいけないという戒律を破る布教活動ではないか ? このようにして、キリスト教に改宗した1世代目というのは、人生の成功のために改宗したのに、激しい苦悩でのたうち回り人生を失う。 2世代目以降で、私の尊敬したキリスト教の先輩みたいに適応するのだ。 証拠は今も現在進行形だよ。 この学問カテゴリーの他の質問では、「こんなはずで無かった」という中二病患者にあふれる野戦病院のような様相が今の旬ではないか。

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