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「左遷」の菅原道真が「天神」とはこれいかに
fujic-1990の回答
- fujic-1990
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日本には、古来「荒魂(あらみたま)、祟り神」でも祀れば「和御魂(にきみたま)、守り神」に変わる、という思想がありました。 そして強い霊力をもって祟る恐ろしい神ほど、和御魂、守り神に変わると強い守護力を持つと考えられていました。 また、日本は「大八洲豊葦原瑞穂国中国、言霊(ことだま)の幸ふ国」と言われてきました。 ざっくり言うと「我が国は、大きな8つの島から成り、豊かに葦(水草)が生い茂る水豊かな国で、あの世とこの世の中間にある国で、言葉には不思議な霊力が備わっていて、発せられた言葉の霊力によって良いことも悪い事も実現してしまう国である」というような意味です。 令和の現代でも、「縁起でもないことを言うな!」とか言ったりします。悪い事を言うと、言霊のせいで悪い事が起きる。一説によると、太平洋戦争でも悪いこと(アメリカに勝てない)を警告すると実現してしまうと思って、警告ができなかったという話もあるくらいです。 確かに菅原道真は、藤原一族に陥れられて「太宰権帥(だざいのごんのそち)」つまり「太宰府の次席将軍」と言っても実際は窓際族で何もさせてもらえない地位に流されました。 そこで「東風吹かば・・・」なんて歌を詠んだわけですが、これは美しい歌を詠むと、言霊の霊力によって神が感動し、京都に戻してくれるに違いない、という発想の歌なのです。恨み辛みを歌にするわけにはいかないのです。ヘタをすると日本が滅ぶ。 菅原道真が死んだころ、偶然に天災地変病気、様々な凶事がおこりました。特に落雷(それを原因とする火事)が頻発しました。 藤原氏は理由についていろいろ考えましたが、心当たりは道真を左遷して死なせてしまったことでした。庶民たちもそう考えて、雷の音がすると「桑原くわばら」と唱えました。 桑原という場所は、菅原道真の所有地なので、いくら道真が怒ったとしても自分の領地には雷を落とさないだろう、ということで「ここは桑原です。雷を落とさないでね」という祈りです。 今でも、誰かに騙されそうになった時などには「桑原くわばら」と唱えます。「桑原くわばら、そのては桑名の焼蛤」などと。 話を戻しますが、そこで藤原氏は、藤原氏「が」菅原道真を神として祀ることにしたのでした。そうすれば強い守護をしてくれるだろうと。 藤原氏が道真を祀り始めると、庶民はその学識に注目して学問の神様として崇敬しだしたのでありました。
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