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吉原の遊女

江戸時代の吉原等の遊女は、借金の肩代わりに親に売られたそうですが、彼女達の寿命は22歳程度と聞いています。 遊女が亡くなった場合、親に連絡は行くのでしょうか?そもそも売られた後に、親との交流はできたのでしょうか?

みんなの回答

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5119)
回答No.4

>江戸時代の吉原等の遊女は、借金の肩代わりに親に売られたそうです 江戸時代に限らず、第二次大戦までは遊女売買が行われていました。 明治以降は、売春宿・遊郭・慰安所に売られています。 本人は知らない間に、実の親が娘を売るのです。 悲惨ですよね。 >彼女達の寿命は22歳程度と聞いています。 まぁ、当時の平均寿命として45歳です。 余程上級女郎(花魁クラス)にならないと、寿命は短いでしようね。 労働基準法・衛生法なんか、ありませんから・・・。 最下の娼婦は、現在の値段で2000円前後で売春を行っていましたよ。 ※浄瑠璃・曽根崎心中のモデルになった「お初」も、最下の娼婦でした。 >遊女が亡くなった場合、親に連絡は行くのでしょうか? 連絡は、ありません。 亡くなると、葬儀をしないで「近所の投げ込み寺(浄閑寺)」で埋葬します。 親族には、一切連絡はしません。 ただ、上級遊女になっていた場合は(内々に)伝えていた様です。 まぁ、(多くの遊女は)遊郭に来るまでは「売春をする為に売られた!」とは思ってもいませんでした。 遊郭に着いた時点で、「親に売られた」事が分かって親子の縁を切るのです。 ※「親に売られた」事を信じない遊女は「強制連行された」と信じ込むのです。 >売られた後に、親との交流はできたのでしょうか? 交流は、出来ますよ。 あくまで、「親は客」としてですが・・・。 1956年の売春防止法が出来るまでは、日本全国に遊郭が存在しました。

DJS
質問者

お礼

ありがとうございます。悲しいですね。

  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (417/1292)
回答No.3

既出の回答に有ります様に凄惨で悲しく哀れな末路です。 この事は、昭和31年の売春防止法が出来るまで続いていました。 敗戦後は昭和21年にGHQにより公娼制度が廃止され人身売買は 無くなりましたが、解放された女郎は食って行くために、進駐軍、 相手に商売をしましたのが赤線と呼ばれていました。 昭和31年以降は、トルコ、ソープランドなどと、名称を変えながら 現在も続いています。 ------------------------------------------------------------------- 吉原遊郭は小田原北条の忍者の頭領、風魔の小太郎が時の老中に 働き掛けて、造られた事を御存じでしょうか? 戦が無くなり、泥棒稼業で忍者達は生計を立てていました、 失業対策で風魔の小太郎が行ったのです。 諜報戦に長けた忍者が女郎を管理するのに打って付けですよね。 歴史の影の部分を調べるのも結構、面白いですよ。

DJS
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • unnoun
  • ベストアンサー率16% (409/2496)
回答No.2

売るような親に連絡など行きません。 借金未納ぐらいの通知届ぐらいはあるかもで また売られるのです 古い映画ですが、廓では黴の生えたような米や飯を洗って下っ端はしのいでいました。 花魁など高級遊女は別として、多くの下級遊女の待遇は劣悪だったといいます。特にひどかったのが食事。ただ空腹をいやすだけの代物でした。そのため栄養失調になり抵抗力が弱まって病死した例も多かったでしょう。また身売りされたのだから無理勤めさせられて病死する、あるいは殺されることもあったといいます。遊女が死ねば、日本堤下の弘願山専称院西方寺、三輪の浄閑寺の共同墓穴に、無縁仏として投げ込まれました。過去帳に「○○売女」として遺されてます。華やかさに隠れた裏はありますよ。

DJS
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • unnoun
  • ベストアンサー率16% (409/2496)
回答No.1

ゆうじょ専門の寺に放り込まれます。昔は、郭で死んだらたらいみたいな桶に入れて座らせたまま捨てていました。太夫クラスになると墓があるのもあります。大体は共同墓地のペット供養程度でした。

DJS
質問者

お礼

ありがとうございます。

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