かなり複雑な温泉と斎の繋がりの話

このQ&Aのポイント
  • 日本の温泉と斎の繋がりについて考えると、遊女や温泉宿の起源、禊の意味が関連しています。
  • 温泉は鎌倉時代の寺が発祥で、奈良時代からの湯那システムを羨ましがった鎌倉時代の人々が温泉宿を作り、湯女を置くようになりました。
  • 禊はセックスではなく、身体を清める儀式のことを指しています。温泉と禊は、身体を浄化する共通点を持ち合わせていると言えます。
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【かなり複雑な温泉と斎の繋がりの話】日本語の「禊(

【かなり複雑な温泉と斎の繋がりの話】日本語の「禊(みそぎ)」とはどういう意味ですか? 日本の風呂の湯の語源は斎で斎藤の斎のサイは昔はユと読み禊のミソギノの意味だったそうです。 じゃあ全国の斎藤は湯の関係者だったってことですかね? 昔の温泉は個人経営はなく全て藩が経営していたんですよね? 温泉の源泉は個人所有はなく藩が所有していて温泉を藩が運営して藩民はお金を払えば誰でも入れた。 江戸時代とかも個人経営の温泉はないですよね? 江戸時代の温泉には背中を洗う女性がいたそうです。それを遊女と言ったそうです。 今は遊女と言えば風俗店で働く性を売る女性を指しますよね。 江戸時代の遊女はセックスもお金を支払えば出来たとは思えないので、いつの時代から言葉の意味が変わったのでしょう? というかいつの時代から温泉で背中を洗う仕事の人が今のようにセックスを仕事にするようになったのでしょう? 話はズレましたが日本の禊とはなんですか? 禊=セックスなら、江戸時代から温泉に行けば背中を洗う仕事の遊女がいて、もっとお金を払えば江戸時代は誰でも遊女とセックス出来たってことでしょうか? するとですね、全国の斎藤家の先祖は遊女がルーツってことになるけど、我が家は風俗嬢が出身ですっていいますかね? ちなみに温泉コンパニオンシステムは鎌倉時代に有馬温泉で出来た風俗業だそうです。 有馬温泉には各温泉宿に2名の湯女というセックスが仕事の女性が置かれていたそうです。 奈良時代は寺に湯那ゆなという結婚できない僧とのセックスを担当する仕事があったそうです。 奈良時代の寺の湯那システムを羨ましがった鎌倉時代の偉い人が温泉宿を作らせて温泉宿に湯女を置かせた。江戸時代に藩主は藩民が利用できる温泉を開き遊女を置いた。 この流れでは斎=温泉=禊に繋がらないですよね。 斎は鎌倉時代以前の話ですか? でも温泉は鎌倉時代の寺が発祥で以前はないですよね? いきなり斎が出てきて意味が分かりません。 温泉と斎の繋がりはどこからあったのでしょう?

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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#252332
noname#252332
回答No.1

斎藤氏は藤原一族の伊勢神宮の斎宮の役人が起源でした。禊は中国でも同じ字で同じ意味ですが水で洗って病気や汚れを予防する半ば宗教的行事でした。 http://zidian.wenku1.com/%E7%A6%8A/

gasshop2017
質問者

お礼

有難う御座いました

その他の回答 (1)

回答No.2

「禊」の意味が知りたいなら検索すればいい。 日本の風呂の湯の語源は斎で斎藤の斎のサイは昔はユと読み禊のミソギノの意味だったそうです。 ほう、どこにそんな事を書いていますか? 斎藤姓が皆関係者なんて、一体どこから出てくる?

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