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江戸時代の戸籍管理

ご先祖は江戸時代農村の郷士から藩士(城勤め)になったので、戸籍管理が、お寺から藩庁のほうに移りました だけど、藩士になっても、お墓は郷士だった頃の農村のお寺に建てたんですよね、これって、戸籍管理がお寺から藩庁に移ってますが、元々いたお寺にお墓を建てても、よかったんですか?それと、当主や家族が亡くなる度に遺体を10数キロも離れた農村まで運んだのも不思議ですが 余談、農村には郷士だった頃の、ご先祖所有の農地屋敷があり屋敷農地の管理は身内、小作人に任せてあったみたいです

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回答No.2

No.1です 補足を頂戴しました。 下記URLをご参照下さい。 >檀家制度の人別帳とは別の制度に基づいてたとはどんな制度でしょうか? 檀家制度 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/檀家制度 抜粋 檀家制度(だんかせいど)とは寺院が檀家の葬祭供養を独占的に執り行なうことを条件に結ばれた、寺と檀家の関係をいう。 寺請制度(てらうけせいど)、あるいは寺檀制度(じだんせいど)ともいう。 江戸幕府の宗教統制政策から生まれた制度であり、家や祖先崇拝の側面を強く持つ。 宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)とは - コトバンク http://kotobank.jp/word/宗門改帳-77446 抜粋 江戸幕府がキリスト教禁制を徹底させるため,幕府直轄領はもとより私領 (大名の領分と旗本の知行所) の人民について,寺院にその檀徒であることを証明させた帳面。 各村で作成し,幕領では遠国奉行,領主,地頭らがその支配内の分を取りまとめて,毎年 10月に幕府の寺社奉行所に提出させた。 諸藩は宗門奉行もしくは類似の役人に提出させた。 寛文年間 (1661~73) 頃から行われるようになったといわれる。 宗門改帳と人別改帳 (→人別改 ) とは異なるものであるが,のちには両者はしばしば混同された。 寺請制度(てらうけせいど)とは - コトバンク http://kotobank.jp/word/寺請制度-854012 抜粋 江戸時代,個人が寺の檀家でありキリシタンや禁制宗派である不受不施派などの信徒でないことを,檀那寺に証明させた制度。 農民の住居移転,奉公,結婚,旅行などの際には,この制度によって檀那寺から発行される寺請証文を必要とした。 寺院は,幕府の庶民支配機構の末端の役割を果たした 人別帳(にんべつちょう)とは - コトバンク http://kotobank.jp/word/人別帳-110894 抜粋 江戸時代の戸籍の称。戦国時代の諸大名のなかには富国強兵のために人別調を行なったものがあり,江戸幕府も初めは切支丹改のために人別改を行なったが,享保以後は主として人口調査 (ことに農民の移動防止) の目的で町村役人に子 (ね) および午 (うま) の年 (6年ごと) に管内の人別帳を作成させた。 これは毎年作成させる宗門改帳とは目的も内容も異なるものであるが,のちには両者は混同されて,宗門人別帳などと呼ばれたこともある。

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回答No.1

>戸籍管理がお寺から藩庁に移ってますが、元々いたお寺にお墓を建てても、よかったんですか? 戸籍に相当する人別帳はお寺が管理していましたが菩提寺と檀家の関係は寺檀制度と呼ばれる人別帳とは別の制度に基づいていましたので元々のお寺に葬られても一向に差支えはありませんでした。 >遺体を10数キロも離れた農村まで運んだのも不思議ですが 現在の感覚では徒歩で10kmは遠く感じられますが、移動手段が徒歩に限られていた江戸時代には左程の距離ではありませんでした。 三里程度であれば野辺送りの葬列は組まれていたでしょう。 蛇足 ご先祖様が居られた城下や村落の周辺に火葬場の跡が残っていませんでしょうか。 江戸時代でも火葬という習慣はありました。 村落には共同で管理していた火葬場がありました。 江戸の街にも五三昧と呼ばれる火葬場がありました。 又火葬を行う火葬寺というのもありました。 ただし、火葬するには大量の薪が必要でしたので江戸では裕福な商家に限られていました。

sokoo0823
質問者

補足

城下には火葬場が、あったかどうか分かりませんが農村には火葬場は、なかったですね 檀家制度の人別帳とは別の制度に基づいてたとはどんな制度でしょうか? 余談ですが、農村にあった屋敷は所有主は城勤でいないので管理するために代々、親せきの者が住んでたみたいですから、人別帳にはその親せきの家族のことが書かれたんですかね

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