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江戸時代のお墓のルール
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>天領、関東の旗本知行地、関東の藩領ではたとえ農村のお寺であっても1800年ぐらいまでお墓を建ててはいけない そんな事は、ありません。 他にも回答がありますが、1500年頃には既に庶民(農民など)の墓が存在しています。 >庶民はお墓に苗字は書いてはダメというルールが存在したらしいです これも、そんな事はありません。 これは、各宗派によって異なるのです。 例えば、浄土真宗では墓石に「〇〇家」「〇〇家代々」等は彫りこみをしません。 墓石には、「南無阿弥陀仏」と彫るのが正式なんです。 若しくは、法名である「釈〇〇」と彫る。 決して、苗字は彫りません。 江戸時代は、宗教についての教え(教義・風習)は絶対でした。 ですから、江戸時代から昭和初期までは「南無阿弥陀仏」と彫った墓石が多いのです。 浄土真宗に限りませんが、決して名前を彫るのは駄目というものではありません。 高度成長期以降では、浄土真宗でも「〇〇家」「〇〇家代々(累代)」と墓石に彫る事が多くなりました。 >関東はお墓のルールが厳しいのですか? 関東でも天領でも、全国各地で同様です。 が、関東の場合「人口に対して、墓地不足」があった事が原因でしようね。 質問者さまもご存知の通り、檀家制度が厳しく存在していましたよね。 檀家制度は、住民票制度です。 この寺の檀家は、この寺が所有する墓地に埋葬する。 実際、江戸時代の関東でも「墓を建て、故人の名前を彫る」のです。 が、カネが無い庶民は川原から拾ってきた石を積み上げて墓石とします。 これだと、故人の名前・苗字を書く事が出来ませんよね。
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- ichikawa2017
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>庶民はお墓に苗字は書いてはダメというルールが存在したらしいです。 757年(天平宝字元年)に定められた養老律令に準拠したものですが、苗字を書いてはだめなのではなく一定の身分以下の者がお墓そのものを造ってはならないということでした。 時代とともに有名無実化して行きました。 有名無実化していたとは言え明治憲法が制定されるまでは有効でした。 これに対して江戸幕府は天保2年(1831年)にお墓に使う墓石の大きさを制限しました。(墓石制限令) これは逆に言えば養老律令に関わず、庶民がお墓を建てていることを認めていたことになります。 墓石制限令では庶民が戒名に〇〇院という院号や△△居士という居士号をつけることは禁止していましたが苗字についてはいいともだめだとも言っていませんでした。 苗字というものは古くから多くの人が持っていました。 江戸幕府は武家階級以外の人が公式に使うことを禁止していただけです。 お寺の墓地などを管轄していたのは寺社奉行です。 寺社奉行は町奉行とはことなり奉行所としての役人がいませんでした。 取り締まりなどには寺社奉行を拝命した大名の家臣が任にあたっていました。 寺社奉行には評定所で審議するという重要な任務がありましたので寺社奉行の家臣にしてみれば全国に無数にあるお寺の墓地をいちいち覗いて歩くようなことはやりませんでした。 >どうして関東はお墓のルールが厳しいのですか? 関東地方というか関八州(武蔵、相模、安房、上総、下総、常陸、上野、下野)は江戸時代には譜代大名領と旗本領、幕府直轄の天領が占めていました。 譜代大名も旗本も幕府の家臣ですので関東平野一帯の領主は幕府の命令に従う義務がありました。 従わなければそれ相当の罰則(改易=馘)が課せられました。 これに対して関西地方は京都大阪などの大都市を除けば大名領でした。 大名は治外法権を持っていて幕府の命令に従うか否かは大名の考え方次第でした。 京都や大阪を統治していたのは大阪城代でした。 町人から多額の借金をしていて数年で江戸へ戻る大阪城代としてはお墓が立派過ぎるなどということで町人と争う気力などありませんでした。 >他の地域では藩によっては、お墓に庶民が苗字を書いてもいいとこもあったみたいです 藩というか統治している大名は治外法権を持っていましたので幕府の命令に従うか否かは大名の考え方次第でした。 中にはお墓に対する制限など設けていない大名があったのではないかということは充分考えられます。
- bekky1
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【お墓に庶民が苗字を書いてもいいとこもあったみたいです】 庶民という時点で、今のように、墓石に名前(含む名字)を刻めるわけがないでしょう? 制度の問題もアレば、技術に伴う、お金の問題もある。 死んだ人に対して、生き残ってる人がお墓作るのですから、 領主より立派にできるわけがない。 卒塔婆が立体的になったような柱のような木製の墓なら、墨で書いても、10年も残らない。 なので、あれこれうるさく言わずに済ませたということも考えられる。 更に、「関東では・・・・、天領では・・・・、旗本の知行地では・・・」というなら、ソレが基本、徳川ではそうだということに過ぎないかもしれない。 江戸の周辺は徳川系で固めてますから。 身分制度としても、武士も直臣と、陪臣との格差は、 石高以上にある。 ましてや、「苗字帯刀」というぐらいに、名字が誰でも名のれるものじゃない。 武士というのも、浪人は武士じゃないです。 主人があっての武士ですから、江戸時代は、浪人も制度上「町人」です。 名字を持っていたから「ある」だけで。 そのかわりに、田舎の方に行くと、別にご商売をしてなくても、 名字に変わるような一家に一つ?みたいな屋号があるそうです。 今なら、普通に「鈴木一郎」が、屋号「タカヤマ」として タカヤマ一郎・・・・という人物確定する。 多分、あなたのご理解されている名字は、「屋号」です。
- 177019
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分かる事だけ申し上げます。一般庶民がお墓を建てるようになったのは、400年前と言われています。その背景には「島原の乱」が大きく影響しています。この事件以降、寺請制度が敷かれすべての人がどこかの寺の檀家になる事に。キリシタンの監視が目的だったこの制度が、浸透した事により庶民の間でお墓を建てる習慣が浸透するようになったという事です。ただお墓と言う概念自体は世界最大級の古墳、仁徳天皇陵がある事からも分かる通り、かなり昔からありましたが、中世以前の庶民はお墓を持つ事が出来ず、故人の亡骸を野山に埋め、時には捨てなければならない事もありました。貴族を筆頭とした一部の特権階級に属する人しかお墓を持つ事が出来なかったため、お墓を持つという事は庶民の憧れでした。江戸時代のこうした出来事が切っ掛けとなって、誰もが平等にお墓を持てるようになった事は、弔いの歴史上とても画期的な事でした。
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