• 締切済み

宗教は詐欺にはならないの?

gomapapyの回答

  • gomapapy
  • ベストアンサー率39% (41/104)
回答No.2

カウンセリングは謂わば、悩み相談で、宗教とは役割が重なる部分はあっても、同列に論じるのは間違っているでしょう。本来、宗教の目的は救済で、そのためにこの世の真実を広める活動しています。 仏教は悟りを開いて、迷いを捨てるためのもので、キリスト教は神の愛を説いています。ですので、祈れば助かる、願えば叶う、信じれば治るという教えは、本来伝統的な宗教ではありません。 新興宗教など出どころの怪しいものは、嘘をついてでも信者を得ようとするかも知れませんが、伝統的宗教はそのようなものではありませんよ。

kirakiraaruku
質問者

お礼

そうであってほしいですね、ありがとうございます

関連するQ&A

  • 宗教 プラシーボ効果

    宗教はプラシーボ効果を利用して、信者を増やそうとするのですか?

  • ■自殺についての宗教的な見解

    仏教・キリスト教・イスラム教など、ほとんどの宗教で自殺は否定されています。 もちろん、さらに膨大な各宗派に分かれるので、自殺否定の仕方にも、いろいろな考え方があるでしょう。 では、膨大な宗教の中で、自分が詳しい宗派だけで結構ですので、どういう具体的な内容で自殺が否定されているのでしょうか? たとえばプロテスタントの方なら、「聖書のどこの部分に、どういう解釈で自殺否定がなされている」だとか、法華経の信者の方なら、「教義のどこの部分に、どういう解釈で自殺否定がなされている」など、具体的に教えて下さればと思います。 まさか、後世の名もしらない人が勝手に言い始めたことではないと思いますが。

  • 真如苑の救い、そして仏教(宗教)の救いとは

    家内が真如苑信者です。私は真如苑は嫌いで絶対に信者にはなりません。なぜなら個人崇拝だからです。それを前提として質問です。 最近、家の関係に課題があり家内の経親と話をしました。その時、真如苑が他の仏教徒違うところは”救い”だと言われました。仏教(宗教)はそもそも"救われる"ことを目的としていると思うのですが、皆さまのご意見お聞かせください。各立場からのご回答をいただき、私なりに答えを出したく思います。 <真如苑関係者の方> 真如苑における"救い"の定義を詳しく教えてください。また、他の仏教や宗教と何が違うのでしょうか?ただし、他の仏教や宗教への批判的コメントは遠慮ください。 <仏教、及び他の宗教関係者の方> 各教義における"救い"について教えてください。また、上記同様、真如苑に対する批判的コメントはご遠慮ください。

  • 「聖書」を使用している宗教は宗教が違っても共通の「聖書」を使用しているのでしょうか?

    何年も前にある宗教を信仰している方に聖書を頂きました。 私は特に信仰しているものはないですが、聖書の言葉を聞いたりするのは好きなので、ほんとに時々ですが思い出しては読んでいます。 読んでいると心に響くような一文もあります。 でも私の周りには意外に聖書を用いる宗教を信仰している人が多く、 時々色んな話をしている中で「聖書の中にこんな言葉があるんだよ」と言われることも珍しくありません。 ただそれがバラバラで、モルモン教、エホバ、イスラム教・・・。 この3つは名前がはっきりしているので分かりやすいのですが「日本キリスト〇〇教会」(←はっきり覚えてませんがこういう名前など)で 単に「プロテスタント系の教会」としか私には分からない教会に通っている友達もいます。 そこでふと疑問に思ったのですが、時々そうして友人から聞く聖書の言葉は私の持つ聖書と同じものなのでしょうか?「聖書」とは本により翻訳の違いなどはあっても「聖書」を使用している宗教の聖書の内容は同じものなのでしょうか? 特にエホバ、モルモンは聖書を使用していても宗教の中で異なる位置(モルモンは他にモルモン書も使用している等)にある、といったことは知っているので、こちらはまた違うものかも?とも思います。 いろいろ調べてみましたが、調べれば調べるほど複雑すぎてよく理解できませんでした。 ちなみに私がいただいた聖書は旧約、新約と両方かかれたもので「日本聖書教会(JBS)」というところが出版されたものです。 どうぞよろしくお願いします。

  • 宗教とは悪人なのか善人なのか?

    宗教とは悪人なのか善人なのか?それぞれの宗教の総本山では 人知れず資金を集め、本部の信者に報酬や退職金迄も支払って いる。この厳しい世の中において、下々の檀家の信者は、地元 のお寺に上納金(お布施)を納め、決まった額を地区代表のお 寺へと納める。それを総本山がお寺の存続料として受け取る。 つまり、やくざの世界と同じで、檀家(やくざの組員)からお 布施(めかじめ料)を取り、総本山の大親分は大富豪リッチに 生活している。檀家には顔を見せない、説法しないときている。 集めた金は政治家に流れているだろうと推測する。給料の上が らない庶民、商品の値上げ、年金の減額、消費税と軒並み税金 が連なる。政府与党と同じで、この不景気に寺の会費やお盆の 塔婆代が安くならないのは、旧統一教会の様に取れるだけ巻き 上げようという思惑があるのだろうか。 質問です。お寺から教わることがない世界、スマートホンで知 識情報は直ぐ手に入る。宗教とは悪人なのか善人なのか?お経 の全ての意味を(中国語)説明出来る和尚はいるのだろうか?

  • イスラム教における聖書の位置づけ

    イスラム経でも、旧約聖書や新約聖書の一部は尊重されていると聞きましたが、イスラム教の信者はコーランンの他に聖書を合わせて読むのでしょうか?もし、そうだとしたら、その聖書はキリスト教徒が使用している聖書とは異なった内容のものでしょうか?

  • 宗教について

    興味はあります。私自身心が弱く誰かにすがりたくなることもあります。宗教は神や仏に救いを求める人が信仰するものだと認識しています。うちは父が他界したばかりで母も長く車椅子生活を送っており、そのせいではなく私は嫁に行けず出産適齢期もとうに過ぎています。がしかし、話しやすい人につい自分のことを話すことはあっても、その人の勧める宗教に入信したいとまでは思えません。でも、エホバの証人、創価学会、霊友会、他仏教系2種、神道、宗教ではないらしいが倫理といろんな方がいろんな形で誘ってくださいます。お寺や会館について行ったこともありますが、これだけとは決められません。どうせ信仰するならうちには仏壇もありずっとひとつのお寺の檀家なのでそこの和尚様に機会あるごとに説法もいただきお経もついて読んだりすることでも宗教してるなーと思えています。それなのにそんな私に批判がましく、強引に自分の信仰を押し付けようと仲間まで連れてきて宗教行為を強要されるのには、いくら友だちでも上司でもうんざりします。嫌なことも言ってしまいます。今まで金銭の要求はされたことがないのでいい宗教だとは思いますが、拒否ばかりすると罰を与えられるのではないかと思うほどの脅しとも取れる言葉はあります。「ただあなたの幸せを願っている」と大切な人にも言われたことがない言葉はとても気味が悪くきこえます。どれかに入信しなければいけないくらいならその方々との一切の関係を絶ってもいいと思っていますが、そのことによってもたらされるかもしれない災いまで受け入れる覚悟って難しくないですか。

  • ひとつの宗教のみが正しい根拠とは

     数日前に、ひさびさにひとつの宗教にこり固まっている  人たちと話をしました(論戦?)  日蓮宗系の人たち(女性)で、日本人が全員、法華経に  帰依しなければ日本が滅ぶとのこと。  まあ、そうした信仰そのもは法華経の信者ならば、(過激かどうかの  違いはあるにしても)ありうる話で、目くじらを立てることもありません。    ただ、問題はその根拠です。  その方々にそう主張する根拠を問うと、  自分たちの教団の経典のここに書いてあると  「自分たちの経典」の一節を指し示すのです。  私が「世の中には色々な宗教があり、その数だけ  経典や聖書のたぐいがありますね。その人たちも  あなた方と同じように「自分らの経典」だけを根拠として  自分らが正しいと言い募るならば、その両者のあいだに  どうやって対話が成り立ちますか?  あなたがたは、ほかの人を説得したいんでしょう?  あるいは少なくとも理解してもらいたいんでしょう?  それならば、自分らの経典をいったん離れて  相手の立場にたって、相手にも分かるような  議論の進め方をしなければいけないんじゃないですか?  だからこそ釈迦は「たとえ話」を多用したんじゃないですか?」  と言うと、「いや、自分らの経典が正しいんだから」  とか、なんとか話がそれ以上、かみ合いません。  そこで質問です。  どうしてこのようなことが起こるのでしょうか?  彼らは他人を説得したり納得させたり  さらには自宗に改宗させたりしようということを  放棄しているのでしょうか?  それぞれの経験と立場でご回答いただければ  幸いです。    

  • エホバの証人という宗教について、その1

    早速ですが、「エホバの証人」という宗教に関して、近日触れる機会があり、少し悩んでいますので、みなさまの意見を聞かせていただけると嬉しいのですが。 まず、私はキリスト教カトリックの信者です。幼児洗礼を受け、堅信も受けました。学校もカトリックの学校に行っていたので、他の宗教に関してもほんの少し程度の知識はありました。 それから、「エホバの証人」を知るきっかけとなったのが、今付き合っている彼がそうであるからです。 ほとんど、その宗教に関しては名前くらいしか知らず、彼に彼自身の宗教に関しての質問を投げかけたのがきっかけでした。 カトリック・プロテスタント教会ではエホバに関してキリスト教とは認めておらず(厳密にはキリスト教とは言わないのは彼ら自身も言ってますが)彼らが授けるバプテスマ(洗礼)も認めていないことはあとで私が調べてわかりました。 小さいときからカトリックという世界であったため、またいろいろなエホバに関しての情報、彼自身からの話から聞いていても、どうしても私にはしっくりこない。彼らが一生懸命勉強家で、研究熱心であることは痛いほど分かるのですが、なにか、聖書から得られるものが違うように思えてなりません。 彼とは性格やそういった面で好きになったので問題はないのですが、いざ、エホバとなると、喧嘩になったりします。(彼と付き合っているのであって、宗教と付き合っているのではないのはわかっています) 言葉にするに難しいのですが、彼を好きなのは変わりません。しかし、心のどこかでやはり、エホバというのが引っかかっているのです。 2に続きます。

  • なぜ 宗教=危険? な意識が有るのか。

    私はありがちな無宗教(?)者ですが、 私生活の中で「宗教」という言葉が出てくると引きます。 これは何故なのでしょうか? 世界の宗教や信仰を見る分には全く抵抗は無いのですが、 ポストに入れられる紙切れが一見普通の内容っぽいものの 次第にあやしくなり「信仰」という言葉が出た途端、 「気持ち悪い」という感情が反射的に浮かび上がります。 この感覚は一般的なものなのでしょうか? 宗教お断りが世間の常識になってる影響か? それともよく有る「変なツボ買わされる―」などの影響か? ちゃんと前を向いて向き合って物事を解決する事を放棄し、 何でも神に結び付けて現実逃避している姿が不快なのか? 勧誘員が人の話を聞かずオタクトークを延々繰り広げるからか? はたまた地下鉄サリン関連のおかげか? 宗教建築は立派な物が多く、写真等見るのはむしろ好きですし、 フィクション作品中(程度の表現)は全く抵抗はありません。 宗教が心の救いになる人も居る事は理解はしますし、 適度な信仰をしてる国々が実際有る(ハズ)だと思うものの、 いざ。身近に現れると「気持ち悪い」としか思えません。 なぜ身近に現れた途端、気持ち悪く感じるのでしょうか?