• 締切済み

■自殺についての宗教的な見解

仏教・キリスト教・イスラム教など、ほとんどの宗教で自殺は否定されています。 もちろん、さらに膨大な各宗派に分かれるので、自殺否定の仕方にも、いろいろな考え方があるでしょう。 では、膨大な宗教の中で、自分が詳しい宗派だけで結構ですので、どういう具体的な内容で自殺が否定されているのでしょうか? たとえばプロテスタントの方なら、「聖書のどこの部分に、どういう解釈で自殺否定がなされている」だとか、法華経の信者の方なら、「教義のどこの部分に、どういう解釈で自殺否定がなされている」など、具体的に教えて下さればと思います。 まさか、後世の名もしらない人が勝手に言い始めたことではないと思いますが。

みんなの回答

  • syokizou
  • ベストアンサー率17% (5/29)
回答No.6

粗野な質問をしてすいませんでした。このような質問をしたのは質問者の方の考え方のスタンスを知りたかったからです。お許しください。さて今回の意見についてですが、私の考えを述べてみたいと思います。私は真理というものはもっと融通無碍なもので核の部分は同じでも時代環境において変化するものだと考えています。かつてのイエスや親鸞聖人にしてもなぜあれだけの尊敬や信奉を集めることができたのかといいますと、教えにおいて普遍性が高く何百年もの時代の変化に耐えるだけの真理を悟り、そしてその教えが時代を超えて人々の心の糧となっているからであります。しかしその真理の解釈というのは凡人には非常に難しく仏教には八万四千の法門があるといわれていますし、キリスト教にしてもさまざまな宗派があるのもそのためです。同じ宗教を信じていて真っ向から意見が対立するのもそのためです。ただあまりにも原理主義的に考えるのは危険性が高いと思います。その最たる例がオウム真理教です。彼らは仏教の究極の原理主義者でした。私たちは宗教も耐用年数があると教わっています。正しい教えも時代が下ることに形骸化してくるということです。もし親鸞聖人が現代に生きていればあのような法は説かないと考えられます。あの当時の親鸞聖人の救うべき対象の人々はおそらく文字も読めず、まともな教育を受けていないような方が対象であったと思います。現代は非常に科学技術が発達し、こと日本においては高度な情報化社会です。おそらくもし、親鸞聖人が現代に生きていればまったく違った法が出てくるはずです。宗教的真理とはそういうものだと解釈してください。ただこういう言い方をしても、また誤解が出てくると思うので、一度、幸福の科学出版からでてる、「太陽の法」を熟読されることをお薦めします。普通に書店で販売しています。

sunline1
質問者

お礼

たびたびご丁寧な回答ありがとうございました。 参考図書を拝読してみます。

  • syokizou
  • ベストアンサー率17% (5/29)
回答No.5

さらに補足的な説明をさせていただきたいと思います。まず誤解があるのは自殺は転生輪廻から外れるわけではないということです。まず死んだあと自分の葬式が出され肉体が焼かれます。その後いろいろなパターンがあるそうですが、葬式が出されている時点でひょっとしたら自分は死んだのではないかと自覚する段階があります。そして先に亡くなった自分の身内、例えば親であるとかが出てきて自分は死んでいるということを諭されます。その後宗教的な指導者が出てさらに詳しい説明を受けあの世での修行が本格的に始まるそうです。ただ自殺者はたいていエゴイストだそうです。自分のことしか考えず、自分の先行きの見込みがなくなったら、なにもかも終わりだ、という考えをするのでこれが次の修行につながらないそうです。ただ自殺者も自然死も成仏する条件は同じそうなのですが死に方が悲惨なだけあとが大変だときいています。私なりの解釈ですが霊とは思考するエネルギー体で肉体は滅びても慣性の法則で自殺者も自殺する前と同じ考え方を持っています。自分に置き換えて考えてほしいのですが自暴自棄になっている友達を立ち直らせるのは大変なことではないですか?ただ霊となればもう自分の思考思念だけになるのでごまかしがきかず、その人が幸福感をもって死ねばさらに幸福感は増幅され、逆に苦しみをもって死ねばその苦しみが増幅するのではないかと思います。 それとは別に質問者の方の意図がもうひとつよくわかりません。教義であるとか過去の聖者たちがどういったとかガチガチに考えていないでしょうか。自殺を否定する教えは必ずそれを言う理由があります。偉い先生も必ず根拠があって教えを説くものだと思います。私たちは道徳と宗教の違いは霊的なものを含むか含まないかで分かれると聞いています。質問者が求めているものは道徳的根拠でしょうか?それとも宗教的根拠でしょうか?それによって答え方も変わってくると思いますよ。

sunline1
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ご丁寧なお答え感謝します。 >自分のことしか考えず、自分の先行きの見込みがなくなったら、なにもかも終わりだ、という考えをするのでこれが次の修行につながらないそうです。 なるほど。 自殺か自然死かということではなく、「本人の気の持ち様」が問題ということですね。 「気持ちの持ち様」によっては自然死であっても、成仏が難しいということなのですね。 「きっと自殺者はエゴイストが多い可能性が高い」はずだから、単なる確率論的な問題で、自殺は成仏が難しい傾向があるということですか。 と言うことは・・・仏教的概念からすれば、自殺を完全否定している訳ではないのかもしれませんね。これは一つの驚きです。さすが仏教は懐が深いところがありますね。 >それとは別に質問者の方の意図がもうひとつよくわかりません。教義であるとか過去の聖者たちがどういったとかガチガチに考えていないでしょうか。 各宗教によって、誰かがご指導をされたはずです。 その方が、「どういう論拠」でご指導をされたのかを知りたいのです。 肝心の論拠が正しいかどうかは、わたしには興味はありませんし、それを否定しようとも思っておりません。 たとえばsyokizouさんは自殺を完全否定しているわけではないと思いますが、まったく同じ宗派の方でも自殺を完全否定する方もいるのではなかろうかと思います。 そういう場合には、第三者にはどちらが正しいかサッパリわかりませんし、混乱してしまいます。とくに抽象概念的な仏教ではこういう傾向に陥りがちかと思います。そういうときに、そのご指導をされた方の根拠が重要になってくると思っています。 実際に同じ宗教を信奉している二人の人から、それぞれ真っ向対立する意見を聞かされたことがあります。 >質問者が求めているものは道徳的根拠でしょうか?それとも宗教的根拠でしょうか? 宗教的根拠です。 道徳的根拠はまったく考えておりません。 ちなみにわたしは日本人の多くを占めるであろう無神論的な人間です。実家は浄土真宗でした。

回答No.4

こんにちは。 プロテスタントのクリスチャンです。 新改訳聖書・注解・索引・チェーン式引証付(いのちのことば社)の索引から、自殺の根拠となる箇所。 ●からだの神聖さ‥第一コリント6章19節 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。 ●殺人の禁止‥出エジプト20章13節 殺してはならない。 ●信仰によるのぞみがある‥第二テモテ4章6節から8節と18節(と書いてありますが、ここでの引用は7、8節のみとします。)私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。 これだけ読んでも、信者でない人にはわかりにくいとは思います。キリスト教の罪は、法律や道徳違反以前に、神を無視した自分勝手な生き方をしていくことです。自分のいのち、人生は自分自身のものではなく、神のものなのです。自分の思い描いた人生にならなくても、それを受け入れて生きていくことが信仰です。ですから、人の死の時は神が決めることであり、自殺は、神様の計画を無視して壊してしまう大きな罪です。信仰を持っても、長い人生の中でさまざまな苦しみにあって、信仰を最後まで守り通すのは、難しいことです。私も、最後まで守れるか心配に思うこともありますが、神さまに助けれながら、最後まで、神に忠実でありたいと願ってます。 長くなりますが、私が選んだ聖書箇所、ソロモン王の伝道者の書3章1~4節及び11節から。 天の下では、何事にも定まった時期があり、 すべての営みには時がある。 生まれるのに時があり、 死ぬのに時がある。 植えるのに時があり、 植えたものを引き抜くのに、時がある。 殺すのに時があり、 いやすのに時がある。 (中略) 神のなさることは、 すべて時にかなって美しい。 神はまた、人の心に 永遠の思いを与えられた。 しかし、人は、神が行われるみわざを、 初めから終わりまでみきわめることができない。  

sunline1
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほど。とても参考になりました。 「第一コリント6章19節」が一番しっくりきました。 一神教であるところのキリスト教は、「自分の体は自分の物でなく、神の物である」という概念が基本になっているのですか。 だから、体を傷つけることが神への反逆になると・・・。 すべて神に繋げるというのは、ちょっと強引かなぁ・・・という気もするのですが、シンプルです。 そういう意味では、一神教はとてもわかりやすいですね。

  • syokizou
  • ベストアンサー率17% (5/29)
回答No.3

現在私は伝統宗教ではなく、幸福の科学といういわゆる世間一般では新興宗教といわれる宗教に入っています。その立場から言わせてもらうと、まあおそらく伝統宗教と共通する部分はありますが、まず人間というのは本来霊的存在であり、この世とあの世の間を転生輪廻しながら霊的進歩をめざしている、というのが第一の立脚点にあります、いろいろな国、いろいろな時代、いろいろな職業を経験しながらロールプレイングゲームのようですが経験値を深めていくわけです。ですから自殺をするということはゲームの途中でリセットボタンを押してしまうに等しいことになってしまいます。自殺をする人で死んでも霊としての存在は消滅しないという事実を知っていて自殺する人は確立としてかなり少ないと思います。おそらく唯物論者が大半でしょう。私たちの教義では人間は生まれる前は厳然とした大人の霊であり地上に生まれる前にある程度の目的や目標をもって生まれてくるということを教わっています。自殺をすることはそれを放棄することなので自殺を否定しているのです。まあこれは他の宗派の方からみれば異論もあるでしょうがかつて救世主や聖人といわれた方もそこの部分が言いたかったのでしょう。ほとんどの方は自殺すると地縛霊となり自分が自殺した場所にとどまり、さまようようです。自殺の名所といわれる所はそういった霊が自殺をしたそうな人に憑依し同じことを体現させているのが真実のようです。そうでなければ家族や親類のところにきてさまよっているようです。つまりあの世にストレートに移行できない、浄土真宗的に言えば成仏できないわけです。

sunline1
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほど。とても参考になりました。 仏教的概念から言えば、自殺は「輪廻転生」の環から外れてしまうという位置付けなのですか。 ただ、「どうして自殺をすることがリセットボタンに繋がるのか?」という部分を飛び越えた解釈になっていると思います。 教義にそういう教えがある! 親鸞や日蓮や道元などの偉いお方がそう言った! というのなら有無を言わせないところがあって良いと思うのですが、おそらく近代化以降に作った部分なのではないかなぁと想像します。 自殺も自然死も、同じリセットボタン(又はゲームオーバー)であって、次の転生に繋がっていくのではないですか? いつから、自殺と自然死が分けて考えられるようになったのですか? また、自殺と自然死を分けたのは、誰のご指導または教義によるところなのでしょうか? そこのところが、とても知りたいです。 また「現象的に自縛霊が存在する」ために「自殺は次の世に転生できない」とすることは、そもそも前提条件である自縛霊を否定する人もいるわけですし、万人向けに理解される説明ではありませんし、いささか無理がある説明かと思われます。

  • 1katyan
  • ベストアンサー率18% (147/800)
回答No.2

「愛せよ」 この言葉で理解できると思います。 死ねば愛することは出来ません。 直接的な言葉ではありませんが 待つこと、信じること 多くの聖書の箇所によって 書かれていると思います

sunline1
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >この言葉で理解できると思います。 あまりに飛躍しすぎな感があります。その言葉だけで教義の自殺否定の根拠とするのは、到底およびもつきません。愛するがため死を選んだり、愛するがため敵を殺戮したりすることも、人間ならたくさんありました。 もっとも聖書の言葉として提示してくれたので、「勝手に捏造した根拠」を提示されたのではないですから、お答えくださって本当に感謝します。

  • ipa222
  • ベストアンサー率20% (903/4455)
回答No.1

浄土真宗では、自殺すると成仏できないということだったと思います。 親鸞が生きていた頃は、社会が混乱し、そこの最貧の人たちを救済することが使命でした。 自殺というと、武士の切腹程度だったと思います。 現在は、救済すべき大きな問題ですから、今親鸞がいたら、何らかの救済をしようと努力していたと思います。

sunline1
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 親鸞が「自殺はダメだ」と本人が言ったのですか? また浄土真宗の教義に、それに関連した教義はありますか? 実際には後世の人が、勝手に言ったことではないのですか?

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