自分の中の差別意識について

このQ&Aのポイント
  • 差別意識についての相談があります。福祉を受けることに甘んじて助けられるだけが甘えだと感じてしまいます。劣っていると感じる場面もありますが、努力は必要だと思っています。自己申告による判断よりも医師の判断が公正だと考えます。生活を向上させる努力が大切で、金銭的な乱用や嫌悪感情は差別なのか迷っています。
  • 自分の中の差別意識についての相談です。福祉依存が甘えだと感じ、劣っている場面もあります。医師の判断が公正だと思いますが、本当に具合悪くて動けないかどうかの判断は難しいです。生活を向上させる努力が大切だと思いますが、金銭的な乱用や嫌悪感情は差別なのか迷っています。
  • 自分の中の差別意識についての相談です。福祉を甘えだと感じてしまい、劣っていると感じる場面もあります。医師の判断が公正であると考えますが、自己申告では判断しづらいです。生活を向上させる努力が重要だと思いますが、金銭的な乱用や嫌悪感情は差別なのでしょうか悩んでいます。
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自分の中の差別意識について

自分の中の差別意識について相談があります。 自分は、精神障害者で障害者雇用で働いています。 自分を含め障害者や老人や生活保護受給者などが 福祉を受けることに甘んじて何もしないで助けられるだけどいうのは 甘えだと感じてしまいます。 この考えは間違っているでしょうか? 老人や障害者などで自分が若くて元気だったころのように 出来てていた基準よりも出来ないというのはやはり劣っているような気もします。 ただ、劣っているとしてもそれは鳥は空を飛べるが人間は飛べないのように 出来ないことを出来るようにしろというのであれば問題ですが 例えば老人で足腰が弱ってきた人がリハビリなどをして歩けるようにする努力は 必要な努力だと思います。 これをすぐに車いすにして休ませていたら寝たきりになってしまいます。 障害者や老人のわがまま放題を許すのとは違うと考えています。 また、精神の病にしてもなんでもかんでも病気のせいにして怠惰に暮らしている人をみると?マークが湧いてしまいます。 自分の経験を思い返してみると、何も手につかないという状態は確かにあり 何もできないということも本当にあったのは事実ですが、これを 例えば、ある人がそれほど大変じゃないけど('A`)ダリーから 具合が悪いことにしようとさぼったとするのと 本当に具合悪い動けないというのをどう判断すればいいのでしょうか? こういうのは自己申告なのでどうしようもないのです? 医師の判断で判断するのが一番公正で標準となる判断と考えるべきでしょうか? その判断をした上で、出来る努力をして 当事者が生活を向上させていくことが大切だと私は思います。 それが出来ない人を自分は差別というかダメなやつだなぁと思ったりしてしまいます。 金銭的にだらしなく生活保護をもらったお金を全部もらった日に使ってしまうとか 借金で全額パチンコやガチャでスっちゃうとかそういうのはダメだとおもいます。 そういう自分に不利益が被る実害がありそうな人や態度に対しての嫌悪感情というのは差別なのでしょうか? アドバイス頂けると幸いです。(`・ω・´)

質問者が選んだベストアンサー

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  • sutorama
  • ベストアンサー率35% (1704/4762)
回答No.2

要は、共感ができるかできないか?だと思います 当事者でもなければ、友人でも家族でもないわけですから、共感は難しいことです しかし、家族であってもはやり、怠けについては共感は難しい部分ではあります 私の父が積極的にリハビリをしてくれなかったことへ、私たち家族は当時、最後まで共感できず、介護疲れの典型のように怒りさえ感じていました 楽しく生きる 明るく生きる それぞれ、その人の目的や思考があり、同じ目的があれば共感できますが、共感ができないと「怠け」については、嫌悪感が芽生えるのは仕方のないことだと思います 家族の場合は、新たに楽しい前向きな目的を一緒に考える・与えることができたとしても、他人なら難しいことでしょう それはやはり差別ではなく、違和感や嫌悪感を共感できない相手・異質物(人)に対して感じるのは、当たり前の思考なのだと思います ※共感できない・・から、差別が生まれることはもちろんあります

tasukete2018
質問者

お礼

回答ありがとうございます。勉強になりました。 共感できないもの違和感を感じるものがあるのは当たり前なのですね。 共感できないことを存在することを念頭にどう対処していったらいいか 考えていこうと思います。(・´з`・)

その他の回答 (1)

  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1118/8870)
回答No.1

見かけは同じように見えても自分はちょっと違うという意識があるのでは。

tasukete2018
質問者

お礼

回答ありがとうございます。勉強になりました。

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  • ”差別”という意識はどこから来ると思いますか?

     始めに断わっておきます。以下の文中には多数の現在「差別語」とされている言葉を多数用います。しかしこの場合の用い方は決して「誰かを貶める・貶したい」という用法ではなく『現在の社会において言語学上存在している認識記号・発音の集合体』といった非政治的意図で見ていただきたいです。もしそういったことに抵抗がある方は見ない方が精神衛生を害さずに済むと思われます。  差別・差別語という言葉を聞いたときに、漠然と民族や文化圏の違う人々の争いといったイメージを浮かべる方が多いと思われます(そのようにマスコミやメディアが謳う甲斐もあるのでしょうが)。 近年ですと韓国・中国との不和問題に端を発し、ネット上でもわざと融和意思を見せないという意図で「シナ人・チョウセンヒトモドキ・チョン・在日」などの語録を用いて反抗しようとする、いわゆる「ネトウヨ」の活動が目につきます。  少し前だと中国人の日本人の蔑称として「日本鬼子」(後に萌キャラ化されましたが)や、欧・米圏だと数えきれないくらいの差別文化がありますが例示するなら「白・黒・ニガ―・ジャップ・エスキモー・バイキング」などでしょうか?それ以外にも独英伊西仏はジョークの中に「○○するのは××人くらいのものだ」といった使い方で相手国人を貶めたりする文化が未だにあるように感じます。 また日本国内にも日本人同士を貶す意図で使われている語録が多数存在していますよね?「部落・穢多、非人・土方・キチガイ・池沼・障害(ガイジ)・レズ・ホモ」など、日常的に言う人も多いのに実は差別語認定されている言葉も有ったりします。  ここまではある程度の事実確認です。そしてここまで読んで感じた方が居られるか分かりませんが『差別の在り方・社会での使われ方』が変質してきているのではないか、と問いたいのです。  所謂昭和期など、現在の20~30歳までより上の方たちが使う「差別」というのは、「イケメン・優しい・ガサツだ・気が利く」といった表現の様に(1)『文字が(直接会ってもいない誰かの)印象を決定づけてしまう』意味を持っていたように感じます。これは今までにその人の存在・本質を見誤らせる悪しき物差しだとして随分社会的な粛清が与えられ、めっきり見なくなりました。  一方近年においては、上記のような「差別」の使われ方が残る一方で、(2)『コミュニケーション上の印象操作を目的とした、パフォーマンスの一種』としての意味が強いのではないかと感じます。子供が相手を罵りたいときに「バカ」「アホ」と言うように、その「罵りたい気持ちを相手により強く伝えるための手段」としてこういった語が用いられるのでは?と感じるのです。  そしてこれらとは別に、➂『同じ文化背景を持つ相手に意味を伝えさせるためだけに用いる』というのもあると感じます。田舎の祖母は「集落・地域」と同じ使い方で「部落」と言いますし(その地域が過去に部落認定されたことはないのに、です)、未だに外国人をTVで見ると「外人・黒んぼ」といった呼び方をします。  このように、差別という意識を何のために用いるのか・何に起因しているのかは、社会情勢によって変化していると言えないでしょうか?  (1)ならば多くの優位(とされていた)集団が少数の劣位(とされていた)集団を、恣意的にいたぶる事が認められていた中で、「差別をしてもいい」という感覚を植え付けられたのではと考えられます。  (2)では相手と自分、「マクロ対マクロ」や「ミクロ対ミクロ」、文化背景の共有が完全に同一ではない集団同士の衝突も想定されるという点で異なります。(1)の差別感覚を自分らが与える・受ける効果と、相手側のそれが同一か証明する手立てがないのですから。  ➂に関しては使用者が問題を自覚していないという点で「差別意識」発生を使用者意思に置くべきなのか、他者・評価者判断に置くべきなのかということで非常に難しくなりそうです。殺人を褒められることと教育された子供の判決をどう下すか、といった問いに似ているでしょうか。  長くなりましたがとりあえず包括的にまとめますと、「差別を絶対的悪とする社会と、差別することを善しとしていた社会、自ら進んで差別したがる社会、そして差別という意識から抜け出し単なる文字の集合体として語録を扱う社会」に我々は放り込まれている。そして時々自分も相手もどの立場に身を置いているのか分からなくなる・理解する前に話をするがために『差別語を使った』という事実だけを槍玉に挙げて、善か悪かの二元論だけでケリを付けようとしているのでは、ということです。  あなたがなぜ「その語は差別的だ」と思う、もしくは「この語には単なる区別機能しか有していない」と思うのか?それはどこから来た感覚で、もしそれが無かったとしたら今その語を見る目は変わっていただろうか?  何やら唯名論・実在論の話にもなりそうですが、ひとまず社会人・個人意識レベルで認識を見直す一助となればと思います。  なにか持論・解釈について語りたい方がいれば参考にしたいので書き込んでいただけると嬉しいです。返信は出来ないかもしれませんが...  膨大な長文・散文・いまいち纏まりがないと思われるかもしれませんがここまで読んでいただけたなら幸いです。

  • 日本の差別意識はどれだけ深いんですか?

    日本の病気や障害者に対する差別意識って他の国と比べてどれくらい高いんですか? ボーダーで今までどうにか一般で働いてきて、ここに来て初めて失業保険貰いながら障害者枠で職探ししていますが、自分の生きづらさや働き方の質問をすると必ずボーダーへの差別めいた回答や『あなただって迷惑かけてる』的回答が多くて気が滅入ってしまいます。 確かにボーダーの私ですら他のボーダーの人から振り回された経験が何度かありましたから嫌われる病気なのは分かります。 だけど割り切らなきゃ普通に接して貰えない辛さを経験しているだけに頭から理解しないで区分されるのは嫌です。 日本はそんな社会なんですか?

  • あなたの差別の定義を教えてください。

    「差別」という言葉は頻繁に使われますが、その定義の説明はあまり聞いたことがありません。 例えば ・ルックスの良し悪しで人の対応が変わるのは差別だと思いますか?大企業の受付窓口は綺麗な女性がほとんどですよね。就職率も当然差があるでしょう。また日常生活でルックスが良い人は、悪い人より承認欲求が満たされる機会が多いです。一方、綺麗なルックスを欲するのは人間の本能であり、ある程度は仕方がないという考え方もあるかと思います。 ・男性はスカートをはく風潮がないとか、女性は丸坊主にする風潮がないとか、、、こういうのは差別だと思いますか?数でいうとスカートをはきたい男性も丸坊主にしたい女性も少数派でしょう。でも少ないとしても存在はすると思います。少数派だから差別ではないのでしょうか?だとすれば、障害者は健常者に比べれば少数派だから、障害者が阻害されることは差別ではないということになるのでしょうか? ・災害時に人種で助ける助けないを判断することは差別でしょうか?あるいは同じ国の人かどうかで判断することはどうでしょうか?または親族かどうか、家族かどうかではどうでしょうか?一般的には人種では差別だけど、家族では当然であるという考え方だと思いますが、その線引きはどこなのでしょうか? などなど、「差別」とは何かという難しい問題について、皆さんの考えをお聞かせください。