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生まれてもすぐに死んでしまう命は何故生まれてくるのでしょうか?

生まれてもすぐに死んでしまう命は何故生まれる必要があるのでしょうか? 川や海では、魚が産卵した数え切れないほどの卵やアフリカの草原などでは鳥の卵がチーターなどの肉食動物に食べられてしまいます。それは食物連鎖の一部で無駄なことはありません。 でも人間の場合、流産や堕胎、また母胎で自然に消滅してしまう場合、また最近社会問題となっている親から子への虐待などで、「そうされるのならば生まれてこなくてよいはず」の命が、生を感じる間もなくいともあっけなくすぐに死んで(殺されて)しまう現象は、哲学や宗教的な見方では一体どういう意味があるのでしょう? 輪廻転生では、今世は前世のカルマを解消するためにあるということですが、その使命をやり遂げるために、一旦母胎に居場所を与えられ、産み落とされます。その後幾年かで死ぬことになる運命であっても与えられただけのカルマは解消された結果だと思います。 でもまだ他人の支援がなくては生き続けることもできない赤ん坊、この世に生まれいずることもない命は一体なぜ一応生命体となって現れるのでしょうか?? 魂がエネルギー体ならば、エネルギーを与えるためのエネルギー(個人的な考えですが、それは神様が使うエネルギー)とエネルギーを一度包括する受容物(母胎)が使うエネルギー、どれも無駄なことではないか?と思うからです。 また哲学的、宗教的な見解、また学問的なことではなくても、率直な感想でもよいです。皆さんのご意見をお伺いしたいです。

  • frau
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みんなの回答

noname#7414
noname#7414
回答No.6

 私は、あらゆる生命は例外なく「生まれてもすぐに死んでしまう」存在と考えてよいと思います。生まれて数時間で死ぬ蜉蝣も、100歳を越えた人も、地球的歴史の規模に照らして見れば、一瞬で死ぬ存在であることに変りはありません。そのように見れば、生まれてすぐ死ぬ赤ん坊も同じでしょう。  地球に生命が生まれて36億年このかた、あらゆる生命は生まれ変わり、死に変わりして生命をリレーのように引き継いできたわけで、現在の地球上のあらゆる生命は、その最先端でバトンを握って走っているランナーです。自分の命は自分ひとりのものではないというのは、客観的に見ても真実だと思います。  そのようなリレーを間違いなく続かせるバトンにあたるのが「遺伝子」です。数十億年の規模でランナーを走らせ続け、間違いなく遺伝子を引き継ぐために一つの健康で正常な生命を生み出すためには、ものすごい数の予備軍が必要とされます。男性が一回に射精する精子は約5億個であり、女性の体内に準備されている卵子は500万個です。気の遠くなるような生命予備軍の犠牲の上に、生物的個体として地上に生きるあらゆる生命は維持されているのであって、それらなしには我々は無論あらゆる生命は存在し得ません。生まれてすぐ死ぬ生命も、生まれないままに闇に葬られる生命も、生きてある生命を支える上で不可欠の存在であるという意味で、誠に重要な意義を担っていると思います。  質問者は、哲学や宗教の観点からの答えをお求めなのかもしれませんが、率直な感想でもよいということですので、異なる観点からですが、思いを述べさせていただきました。私の考えは、柳澤桂子氏の著作から得たもので、もしご興味がおありならご一読をお勧めします。

frau
質問者

お礼

こんにちは。 広大な宇宙を考えると、無駄になっているような命も行き場のない激しい命のエネルギーの力、衝動ゆえか?と思っていました。 またそれがなぜ?と、多少苦々しい思いでおりましたが、様々な皆様のご意見をいただいて、無駄なことは一切ない、ということでした。 たぶんこれが人としての神様への回答に共通する答えだと私は思いました。唯一ムダな命をもつ私という認識をもっておりましたが、とても勇気づけられました。 貴重なご意見ありがとうございました。

noname#7335
noname#7335
回答No.5

こんばんは。 立場として・・・・キリスト教徒です。(経験者とも言えるかもしれませんが。)」 なので、輪廻転生説につぃては、お答えできるほどはよくわかりません。 1. 自然流産や病気などで 生まれてもすぐに死んでしまう命の意味について キリスト教でその意味をどう考えるかについては不勉強でわかりません。ただ、キリスト教、特にカトリックでは、生命誕生の瞬間を受胎のときと認めています。 それらの命は、まっすぐに天国に召されますと教えてもらいました。 2. 実の父母に殺されて生をまっとうできなかった魂(現代風にいうと、「虐待」もそうですし、キリスト教では「中絶」も「殺人」とみなします)については 知り合いのフランス人聖職者が、 つぎのように解説してくれたことがあります。 「その幼い魂に罪はないから  魂は天にまします父なる神のもとにまっすぐにのぼる。  彼ら(その魂たち)はそこで、  彼らを殺した父母の罪がゆるされるように祈っている。」 3. 魂がエネルギーならば、エネルギーを与えるためのエネルギーとエネルギーを一度包括する受容物(母胎)が使うエネルギー、どれも無駄なことではないか・・・・・というお尋ねについて。 無駄ではないと思います。 わたしもかつて子どもがいましたが、亡くしました。 生まれて生きて成長し続ける子ども達に比べれば、 ほんの短い間一緒にいただけでしたが、 それでも、その子を見た喜び、その子からもらった喜びはいまでも忘れることはありません。 悲しかったばかりの時は なぜ死ぬはずなのに生まれたのだろうと考えて 死んだということから目をそむけたかったときもありましたが 今は無駄ではなかったと思っています 4 旧約聖書には、 「たとえ母がその子を忘れても  わたし(神)はあなた(その子)を忘れない。  今日、わたしはあなたを、わたしのたなごころに刻ん だ」 という1節があります。 人の目からみれば、母親に忘れ去られ、もしかすると殺されてしまう子どもでも 神の目から見れば、忘れ去られることはないということです。 何か、質問者さまの助けになればと思い書き込みました こちらのサイトのルールの許す範囲でしたら 追って再質問していただいても結構です (論争は避けたいのですが)

frau
質問者

補足

こんばんは! どなたかの言葉かわかりませんが、私の好きな言葉のひとつに「人は誰かの死によって生かされている」という言葉があります。例えば交通事故で年間何万人と死んでいる中で、生きる確立は少ないのにそれでも生きていられるのは、誰かの死によって自分は生かされているということで、素晴らしい言葉だなと思いました。 お子様は、死に代えて、ご相談者様に「子を持つ喜び」を教えられたのかもしれませんね。私は愛する喜びことさえ与えられず死へ追いやられてしまう命を思っていましたが、それでも神様は全ての人を愛しているのですよね。 ご回答者様のお答えによって、「存在の有無」はわからない、でも「存在」としての神を思うとき、少しばかり私は救われます。私はそういう意味で誰の中にも神様は存在するし、またそこに宗教の形は必要ないとも思います(もちろんキリスト教も含めた○○教を否定しているわけではありません。むしろ私は以前教会に行っていたし、哲学としてもキリスト教を勉強しています)。 ご質問を受け付けてくださるそうで、ありがとうございます。このあたりのことについてはいかがお考えでしょうか? またこれはテーマからずれてしまうのですが、聖書にもでてくる「悪魔」のことです。私の考えでは、サタンは神と同様、人の心の中に存在していて、人生は善と悪との戦いでもあると思っているます。また悪魔の正体はミカエル大天使であるという説があります(聖書にはのっていないことである意味タブーかもしれませんが)。なぜ天使は悪魔になったのか?!という問いは、神や人の存在はもともと善であるのか悪であるのかという問題にもリンクすると思います。元々神の使い=天使であった悪魔が、相反するものとして人の心に共存するということは、突き詰めるところ、善と善の戦いということになるのか?という疑問があります。 ご回答者様のお考えはいかがでしょうか?

  • jjjiiiooo
  • ベストアンサー率28% (42/146)
回答No.4

人の誕生や生物の誕生に意味なんて無い気がします。 意味はひとが決め付けているだけの満足論。常識規定論。 神様が居るとしたら、人はどーでもいいモルモットに過ぎない どう進化し、どう増殖し、どう変化するかを、客観的データとして扱ってるんじゃないかな 善悪などの判断も、違うでしょうし・・ 宇宙の空間の広さ、経過した膨大な時間を考えると、人間は宇宙という実験物のなかでは、ノミのような存在なのでしょう ただ、個人個人はそれがすべてだから それを精一杯生きれば良いのでしょうね。 エネルギーを無駄とか考えるなら宇宙系の本を読んでみましょう。地球上の、地殻上の、生物の消費するエネルギーなど「神」云々で語るなら余りに矮小なので気にする次元ではないはずです。

frau
質問者

お礼

こんにちは。 >神様が居るとしたら、人はどーでもいいモルモット 私もホント、同感です。私のよーな人生を想うと(笑)。私的には「人生はチェスで、人は駒。チェスゲームに興じるのは神々」と思っています。 >客観的データ とは面白いですね。データを記してまた進化させるのでしょうか?! 確かに宇宙時間の中では人間は無のような存在ですよね。でもすっごい凝縮された「有」な存在だとも思っています。人間の存在だけに知能があるのはある意味使命かもしれないですよね。神様がお造りになった「有意義」な宇宙や存在の意味などを考えてくれる生き物として。客観的データを取らせるのは=体験させる、考えされるという行為に現れているのかもしれません。 そんなこと思うとき、飼い主に可愛がられるだけで生きる意味があるような、可愛い動物に生まれてくればラクだったのになーと思います。 貴重なご意見ありがとうございました。

  • kuro804
  • ベストアンサー率29% (522/1761)
回答No.3

 私は「人間はサルの突然変異」、おそらくサルから見れば狂った動物と考えています。多分に脳に狂いが生じたと。 人を含め動物は自身が思うほど完全ではない! これが哲学か宗教的かは知りませんがそう信じています。

frau
質問者

お礼

こんにちは。 ユニークなご回答ですね。 ネアンデルタール人の次の進化の形がホモサピエンスといわれていますが、この間の進化の過程はみあたらないそうです。ホモサピエンスのDNAはある時期に一気に増え、すごい勢いで増殖していった、だからサルの進化の過程上にあるのが人間ではなく、突然現れたという仮説があります。またネアンデルタール人とホモサピエンスは同時期に共存していたのではないか?という仮説も。 「7人のイヴたち」という本に、五大陸それぞれの女性のDNAの遺伝配列を調べると、すべての人種が、かつてアフリカに生活していた一集団の女性に行き着く、という仮説も、ホモサピエンスは進化の過程ではないといわれているゆえんです。 だから「人間はサルの突然変異」というご見解はとておも興味深いです。 貴重なご意見ありがとうございました。

回答No.2

赤ちゃんのお母さんのために生まれてくるのかもしれませんよ。例えば、タレントさんの件のように、お母さんに病気を知らせるために生まれてきたということもあるかもしれません。また、子供を亡くすということは母親にとって最大の試練と言っても良い出来事ですから、そのような試練を母親が与えられたのかもしれません。

frau
質問者

補足

お返事おそくなってすみません。 なるほど!試練を与えられる、それが自分の子どもから教わるのならば納得して試練を乗り越えられますよね。 ところでそのタレントさんとはどなたのことでしょうか?

  • adam01
  • ベストアンサー率0% (0/0)
回答No.1

あまりこれは宗教的・哲学的に問われるものではないのではないでしょうか? これは運命という言葉一つで片付けられる問題でもありませんし、流産や堕胎は別にこれは自然です。 別に動物も同じようなことになっていますね。 ファインディングニモみました(笑)?これでは、夫婦が卵を育てていたのですが、すぐさま卵一つを残して、数十の卵が食われてしまうのです。ちょっと違いますが、でもある意味で、流産や堕胎のようなものと変わりません。 あえて哲学的にいいましょうか。 そもそもあなたの思想は、あなたが人間であるということに依拠しすぎています。もう少し目を離してみると、10日の寿命しか持たない生物がうじゃうじゃいます。たいてい哺乳類以外は1年以下でしょう?たぶん。 つまり、それそのものが自然の摂理であり、それぞれの法則なのです。あなたは人間の法則により、だいたい100年ぐらいまでは可能性により、生きられる動物として生まれましたが、それで短き人生を哀れむことは少し人間的すぎます。 もちろん100生きれる人間が交通事故に!とかいうのはあります。しかし、それ自体が避けられない自然の法則とはいいませんが、今の人間の法則なのです。つまり、社会学あたりの領域が多大にからんできます。 猫が鳩を食いころす。これは哀れむべきことでしょうか?確かにはとをみればなんと憐れでしょうね。しかし、自然の摂理からすれば、それはやむ終えないともいえます。そうでなければ、すべてが破壊されてしまうのです。

frau
質問者

お礼

お返事遅くなってすみません。 ファイティングニモ見ましたよ。最初のシーンですよね。でもその生き残れなかった卵たちはある意味で神様が殺したと思うのですが、それは何故というそもそもの疑問なのです。 でも「人間であるということに依拠しすぎる」ということ、なるほどなと思いました。星の数ほどの生物のなかにはそのような生物もいるのですね。 また気の遠くなるような長い宇宙時間を思うとき、一瞬で消えてしまうような人間(哺乳類のような)も、それ以上に一瞬で消えてしまうような生物でも、また殺されてゆく生物も、皆懸命に生きたということですよね。 ありがとうございました。

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