仏弟子の修行と研究は楽を欲す故の怠慢ばかりが目立つ

このQ&Aのポイント
  • 仏弟子の修行と研究は、楽を欲するために怠慢ばかりが目立つ。
  • 仏弟子の修行と研究は、楽を求める態度によって怠慢が目立っている。
  • 仏弟子の修行と研究は、楽を追求することにより怠慢が増えている。
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仏弟子の修行と研究は楽を欲す故の怠慢ばかりが目立つ。

仏弟子の修行と研究は楽を欲す故の怠慢ばかりが目立つ。 http://okwave.jp/qa/q5964141.html これに続きます。 哲学の多数派より胸糞悪い回答を得たので早々に締めましたが、気を改めて再投稿です。 お釈迦様の生きた時代とは、農耕が勃興し文明が開花しつつある時代です。 その時代に置いて生きる事すなわち耕す事とは、来年のために種を残すこと。 すなわち、自らが生きるために自然界と共生する事です。 無を離れ愛の感想を述べましょう。 地を耕し命をはぐくむことは、自らが生きるために他者おも生かす事です。収穫は共同体の中で平等に分配され、翌年を種がまかれ命をはぐくむための共生が行われます。 たったこれだけ。 ところが現代でも異論が挟まります。 利己心のみで、ただむさぼりたいだけ、地を耕すのだ。 そのようにいかさまを働いたのがお釈迦様の生きた時代のバラモン(聖職者であり内情は単なる寄生虫)の教えであり、お釈迦様は無の観想のみでそれに対抗し「そんなもんありゃしねー」と、吹っ飛ばしたのです。 それが無の観想です。 あえて言いましょう。 「そんなのかんけーねー」と、裸をどりをするお笑い芸人の姿がお釈迦様です。 なのに、そんな「無」の観想を回避して仏弟子を気取る畜生が現代の信仰をいまだに支えています。 観念研究とは、宗教的(仏教による)束縛を離れて、純粋な哲学としておこなってこそ成果がある事柄であり脈々と受け継がれる仏教の教えは初源の無の悟りから離れるばかりです。 人間として仏弟子を全うするには「無」を理解する事が避けがたいのです。 以上が哲学的たたき台です。 質問する場なのでそれなりの事を問うとしたら、信仰の内側から無に至ることは不可能ではないか? 故に極楽往生の研究のみが目立つ。このような意見に本当にそうですか?と言う質問です。 よろしくお願いします。

noname#117439
noname#117439

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

 こんにちは。  まず、何を言わんとしているのか、理解しておきたいことがあるのですが、質問文のお釈迦様の言葉、  「そんなもんありゃしねー」の「そんなもん」は極楽世界の存在と、極楽往生することを言っているのでしょうか。 また、はだか踊りをするお笑い芸人が言う「そんなのかんけーねー」の「そんなの」は何を示している(示唆していると考えている)のでしょうか。

noname#117439
質問者

お礼

有難う御座います。 > 「そんなもんありゃしねー」の「そんなもん」は極楽世界の存在と、極楽往生することを言っているのでしょうか。   極楽世界、これは信仰の有り方の例示でしょう。 要するにたとえ話であり、娑婆くさい世界観から離れた世界への接し方です。 「無」を前提にしたたとえ話なんですが、「無」を知らないで舞い上がると迷信に迷い込む一方です。 「そんなのカンケーねー」の方は「ありもしないことに憶測を及ばせるのはばかばかしいことでありかかわりを持つべきではない」このような裸踊りです。 やってることは同じです。

noname#117439
質問者

補足

主題を整理します。 観念研究といえば単に哲学のこと。 仏教的観念研究は迷信をこねくり回すこと。 かなーり乱暴な区別のつけ方ではありますが、そのように判断してしかるべき現状について議題にしています。

その他の回答 (3)

回答No.4

仏教に付いては素人ですが御釈迦様に付いては多少縁が有ると思っている者の一人です。お釈迦の原点は『一切皆苦』と思います、この事は『意識している間は苦しい、或いは意識をする事自体が苦しい』と言う想いで生きているという意味があると思っています。 この意識している事自体で辛い気持ちで生きている事には『心を病む』と言う意味があると思います。神経症で18年間を過ごした経験が在ります。その神経症の完治と言う事と、お釈迦の言う事が同じ事であった事で、貴方に書いてみたいと思いました。 今の精神医学では『内因性精神疾患の本態が今日までわかっていないのは精神医学の恥辱である。』としつつも薬を出しておきます、治療をすれば治ります。と言っていますが、実際に効果があるはずの薬も進歩しているにも拘らず『患者数は』増えています。おまけに薬によるのか、関係ないか分りませんが自殺する人は高い水準で推移しています。 精神疾患の原因は『心の矛盾』からです、その事を今の精神医学界では未だ承認していません。その事が心が苦しくなる事の原因が分かっていないという事になっています。心の矛盾と言う事は人間の脳内には二つの人格が存在していると言う意味になりますが、今言った研究成果を乗せてみます。ウイキペデアからです。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球がそれぞれ独立した意識を持っていることを実証した。” この右脳の意識と左脳の意識が『心の矛盾』の正体です。左脳の意識が自我意識です、機能は言葉に代表されますが、論理的に物事を割り切って計算する機能という事になります。割り切れる事がその機能という事になります。割り切れる事は『有限の世界』と言う意味になります。従って自我意識は如何逆立ちをしても『永遠』の意味を掴めないと言う事になります。 自我意識の能力から言うならば『有限の壁』を限界としている、永遠の意味は分からないと言う事になります。その事が人間の心に闇を見せていると言う事になります。 右脳の意識は『無意識界と潜在意識界と自分自身の命そのものを働かせる』という機能を持っています、すなわち言葉以外の方法を使って自分自身を働かせていると言う事になります。そうして矛盾した問題や永遠に属した問題を解決する機能が在るという事になります。 その二つの意識の矛盾を『悩みや苦しみや生き難い想い』として受け取ってしまう事が『精神疾患の原因』という事になります。 primeape さんが悩み深い人か、そうでない人か分りませんので私の答えは当たっていない事に為るかもしれませんが、お釈迦の仕事は精神疾患で苦しんでいる人の魂を救済するところに在ります。もっと言うならば『生き難くて、死を選ぶ人達の魂の救済』と言う意味も含んでいます。 本来が宗教の目的自体が『魂の救済』であると思います。今はその本来の目的から外れてしまい、日本のお寺はお釈迦の弟子と言っていますが、本来の目的が判らなくなっている様に見受けられます。その結果心が苦しくなった人達は精神科医のもとにいって、精神科医が繁盛しています。 精神科医達も国家権力の後押しがあって『原因はわからない』としながらも『薬を出して置きます、ちゃんと治療をすれば治ります』と言っています。何が原因かも判らないで、治るという事を言っています、治ると言う根拠がありません。何故ならば原因を特定できていないからです、その事が今の精神医療の限界『寛解』と言う現実になっています。 心が苦しくて、命を絶つ人や、生きがら地獄を見ている人達が大勢存在しています。その人達の魂の救済が貴方にとって『極楽往生の研究のみが目立つ』と言う言い方になっています。 本当にはお釈迦の仕事は、人々の魂を救うと言う事になります。貴方は『心を病んだ』事が少なかった人に見えます。心を病むという事は出口の無いくらいトンネルの中を彷徨っていることに相当します、或いは地獄の中で熱い釜の中で茹でられていると言う妄想の中で生きている事です。この苦しさからの開放を極楽と言っています。 死んでからの事ではありません、今現実に頭の中で地獄の苦しみを味わっていると言う意味が『一切皆苦』と言う言葉になっています。自殺する心理はその苦しみから逃げようとしている事に相当しています。 今の苦しみからの開放を宗教は担っています。死んでからではなくて『今此処でそのままで安楽に生きる』と言う教えが釈迦の教えです。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 病気は医者に任せるのが一番ですよ。 霊性とかかわる問題と受け取ると、保険が利かないその手のサービスでまかなうことになります。 病状をそのように進展させると冷静さすら失い、とても効率が悪い。

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.3

 仏教のことを勉強したことがないので良く解らないのですが、釈迦は地獄・極楽と因縁果とそれによる輪廻転生があると教えていたのではないでしょうか。  人間は死んだら、意識あるいは魂もなくなると考えてるのですか。

noname#117439
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.2

<<信仰の内側から無に至ることは不可能ではないか?>> 信仰という、前提条件の決め付け・固執の内から無を観ずることは困難なことと思います。 信仰した瞬間から、「己が正しい、己が持つ前提条件以外間違っている」と言う態度になるでしょうから、もう反証に値する根拠をいくら提示してもその内側にいる限り、再構築は不可能。 信仰した前提条件が真理であったなら、無を観ずることは、不可能とはいえないかもしれませんが、博打のようなものでしょう。 それでも最終的には信仰を捨てることになるでしょうから、厳密には「信仰の内にいては無を観ずることは出来ない」ともいえるかもしれません。 なので、(パーリ語で説かれる)御釈迦様自身は、根拠・論拠を大事にして、自己の見解を柔軟に再構築していくような、「信」パーリ語ではサッダーと言われる柔軟に、ある範囲の根拠に対する信頼・確信・納得を強くしていく方法を勧められているように感じます。(カーラーマ経にも詳しくありますね) 「師だからとて信じるなかれ」などもよく聞きます。 サッレーカスッタでは、44項目の最後の項目に「自分の主観にとらわれずしがみつくことなく簡単に捨てる」と説かれています。 主観なきとき信仰もないでしょうからね。 <<故に極楽往生の研究のみが目立つ。>> 無を観ずる事、悟りに至ることが不可能であるという「末法思想」などの信仰の中にいる方々が、その信仰の内側でそのような研究をしているのでしょう。 大乗仏教では「末法思想」などの信仰をとる宗派をよくみるので、大乗が多数派である日本で、末法思想信仰を基にした思想研究が多く行われるのかもしれませんね。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

noname#117439
質問者

お礼

有難う御座います。 質問の解釈はその通りです。 ちなみに無の悟りとは、有無の判断を機軸とした分別のみを養うことです。 ありもしない事柄についてはそれ以上悩まない不惑のことです。 経典に「無」と表したものの多くは、当時蔓延していた信仰のあり方を批判して、「その信仰は実現しない」と無の感想で吹っ飛ばしたモンです。 ところが現状の仏弟子さんたちは「無」を踏まえることを忘れ、信教にありもしない装飾を沢山つけています。

noname#117439
質問者

補足

あんたへのお礼の追加だよ。 お礼欄で私は独り言を言ったのみだが、あなたが媚を売るの姿勢こうしたかと勘違いすると面倒なんでね。 >信仰した前提条件が真理であったなら、無を観ずることは、不可能とはいえないかもしれませんが、博打のようなものでしょう。 こんな話が出てくるのは、宗教等に入信する事とは誰かの家畜となり一方的に服従することだと勘違いしているからだろうよ。あんたの宗教観で無く、あんたの信仰の姿勢そのものだ。 人間たるもの信じるとなればこの世のすべてを信じ切りたいと努めるもんだ。 私はあんたの事も信じているよ。 家畜人ヤプーであると信じている。 ヤプーは特定の誰かさんでは無いよ、ただ単に哲学における多数派だ。

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  • 仏教で言う無分別を解説してください。

    無の論理と哲学はかようである。 神を語っておらず、無根の信仰だ」(まるっきり無い) 「神を語る言葉は無い。」(ありを隠し無と語る) この二つの無を使い分けて、信仰とそれの報じる神について、無であり彼我の一切が無と言う説明で、自己の信仰を表現するお釈迦様独自の悟りと世術である。 コレは有無の分別であり、彼我の分別である。 まるっきりない事に関しては、実はそれもあり得るのではないかとくよくよ悩んだりしない事。 有りを隠し無と語る事に関しては、何か確かな証明でもしない限りは無いも同然で無いかと悩んだりしない事。 このようにすっぱりと、有無の分別を付けることである。 無の悟りとは、このような分別がつく事である。 ところがこれを仏教では、分別でなく無分別と言うらしい。 仏ではなく仮面ライダーの私にはこの点がなかなか納得できない。 誰か説明してくれ。

  • 捨ててこそ、無の境地である。

    ほとんど前回と同じ質問で、前回は↓ 無の悟りとは、そもそも無を捨てることだ。 http://okwave.jp/qa/q8527407.html 無を捨ててこそ無を悟れる。 この手の言い回しはありがたい本などによく出てくる解りにくい論理だ。 仏教ではこの手のばか丸出しがありがたい教えであり、哲学だと言う事になっているが、 よろしい。 私が教えてあげよう。 無である事こそ人として生きる全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。 これだけだと、望みではないのだよ。 誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。 ここで、他者の意思からではなく、自らの心として無を望めば、無の境地に至る。 すなわち、現在の教えられた無を望む心を捨て、、新たに自らが無を望むのだ。 その完成は、自らの信仰心にたどりつく事であり、他者からそそのかされて、教えを後生大事に携えることではない。 そのようにして、今の自分を捨てることで、本来の自分を自覚する。 これでなぞなぞみたいな、旧来の論理の解説は終わっているぞ。 仏教は哲学であるとうのぼれ、至高の教えで世界宗教であるとうのぼれ、それでいて従来はこんな単純な解釈も出来ていなかった。 全く哲学になっていなかった。 自称弥勒菩薩の私が今初めて解き明かしたのだ。 さて、感想文でいいから研究をさらに進めるため、意見してくれたまえ。

  • 我はあるは動かしがたい

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  • 無の悟りとは単純明快である。

    前回はこれ↓ 無の悟りはたやすい http://okwave.jp/qa/q7553127.html 私にとっては中古品リサイクルショップに売り飛ばしてしましたいほど、どうでもいい論理だが一部の人はこんなもんをいまだにありがたがるようだね。 言葉を整えてみたので、思考可能なつわものから意見が聞きたい。 お釈迦様は昔々のインド社会で、突如信仰に目覚めた。 その内訳は、信仰心こそが我が心そのものだと言う確信であった。 すなわちお釈迦様は神を受け入れたのだ。 信仰心に目覚める事も無いくせに信仰に思慮を巡らせる者どもはとかく噂話が好きだ。 そんなうわさ話に、「信仰心とはそうではない」すなわち君達は信仰のこころざしが無い虚空でありすなわち無だ。 そして、自らの信仰に土足で足を踏み入れようとする他者からの冒涜に対しては、「それは私の心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 そしてどの道無だから一切が無と言う説明のみが信仰に関しては成り立つ。 自らの信仰の道を歩むにあたって、その人生をこのような処世術で終始した。 ただそれだけの事だが、「有りを隠し無と語る」これと「まるっきりそんなもんありゃしねー」この二つが有無の分別となり交錯するのが、釈迦の悟った無の哲学の真骨頂だ。 2500年前の人類の歴史が創造されようとするころ、信仰のみに生きた釈迦の志は画期的であろう。 そのような哲学は十分現代でも通用するが、肝心の彼の言葉お受け継ぐ仏教徒たちは、所詮お釈迦様が「そんなもんありゃしねー」と言っただけの迷信にしがみつき、無と言わしめた本来の、「自らの信仰」これをおろそかにしているのではないか。 お釈迦様自らの信仰では「私は涅槃に赴く」そして君達のそんなもんありゃしねーは「六道輪廻に落ちる」そう言っているのだよ。 すなわち、私こと釈迦の信仰心は、君達にとって受け入れがたい無であると言った。 君達のそんなもんありゃしねーは、要するに当時のインドの土着習慣では輪廻がある。 お釈迦様が語った宗教観は彼に問いかける人々への洞察であり、当時のインド社会での神に対する煩悩や迷いを説明したものである。 すなわち現代日本において仏教的世界観とは、遠い過去の遠い外国の迷信が主体であり、自らの信仰とは違う、それを理解すると仏道とはただ通り抜けるだけの、遊園地のお化け屋敷のようなモノで、自らの信仰心に目覚めたなら捨て去るだけである。 そうして捨て去る迷信が、仏教であり、解脱、悟れば何も語らない、こういう現象となる。 自信満々に言うがね、伝承上の弥勒菩薩たる実力を私は備えておるよ。 しかしそれはくだらないことだ。

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