仏弟子とは生きながらに畜生道に落ちた人々を指しているのではないか。

このQ&Aのポイント
  • 仏弟子とは生きながらに畜生道に落ちた人々を指しているのではないか。
  • お釈迦様の生きた時代とは、農耕が勃興し文明が開花しつつある時代です。その時代に置いて生きる事すなわち耕す事とは、来年のために種を残すこと。すなわち、自らが生きるために自然界と共生する事です。無を離れ愛の感想を述べましょう。
  • 地を耕し命をはぐくむことは、自らが生きるために他者おも生かす事です。収穫は共同体の中で平等に分配され、翌年を種がまかれ命をはぐくむための共生が行われます。
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仏弟子とは生きながらに畜生道に落ちた人々を指しているのではないか。

仏弟子とは生きながらに畜生道に落ちた人々を指しているのではないか。 お釈迦様の生きた時代とは、農耕が勃興し文明が開花しつつある時代です。 その時代に置いて生きる事すなわち耕す事とは、来年のために種を残すこと。 すなわち、自らが生きるために自然界と共生する事です。 無を離れ愛の感想を述べましょう。 地を耕し命をはぐくむことは、自らが生きるために他者おも生かす事です。収穫は共同体の中で平等に分配され、翌年を種がまかれ命をはぐくむための共生が行われます。 たったこれだけ。 ところが現代でも異論が挟まります。 利己心のみで、ただむさぼりたいだけ、地を耕すのだ。 そのようにいかさまを働いたのがお釈迦様の生きた時代のバラモン(聖職者であり内情は単なる寄生虫)の教えであり、お釈迦様は無の観想のみでそれに対抗し「そんなもんありゃしねー」と、吹っ飛ばしたのです。 それが無の観想です。 あえて言いましょう。 「そんなのかんけーねー」と、裸をどりをするお笑い芸人の姿がお釈迦様です。 なのに、そんな「無」の観想を回避して仏弟子を気取る畜生が現代の信仰をいまだに支えています。 人間として仏弟子を全うするには「無」を理解する事が避けがたいのです。 哲学的に持論を表明しました。 答えをお聞かせください。

noname#117439
noname#117439

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  • magga
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回答No.1

僕なりに思ったことを書いてみますね^^ 中部経典21「ノコギリのたとえ」にて 極悪人に手足を切られても怒らないようにしなくてはならない 機嫌を悪くしたり、怒ることは仏弟子としてふさわしくない 日々怒りの制御・慈しみの育成に励まねば仏弟子とはいえない。 ととれる、箇所があると思います。 この実践にはヴィパッサナー(観)修習が付き添っていくものと思います。 不放逸の一つでもいいと言うこともあった気もします^^ 当時のバラモンの定義を、こういうことをバラモンと言うのだと示したものと思われるものの一つに 「慈経」もありますね。 常にいつくしみの心でいること、→悟りまで語るものですね^^ これもヴィパッサナーが付き添うものと思います。 なので僕もありのままにみる(ヴィパッサナー)修習なくして、 仏弟子にふさわしくなることは出来ないとおもいます。 ほんとの意味での出家は、怒りがなくなる不還果からと思ってます。 比丘も在家もそこを目指してこそ・・・ なんて思ってます。 怒りを制御しない・慈しみを育まない・気付きを育まない人は 仏弟子・仏教徒とはいえないように思います。 ちょっと気になったのはたとえ話でしょうかw お笑いのつもりでもなく(←これ重要^^)、裸で踊るお笑芸人(ボケ)は悟っていない生命でしょう。 お釈迦様はどちらかと言うとその本人無意識のボケに「何でやねん!~やろ!」 と突っ込むツッコミだと思いますw

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  • 無の悟りとは単純明快である。

    前回はこれ↓ 無の悟りはたやすい http://okwave.jp/qa/q7553127.html 私にとっては中古品リサイクルショップに売り飛ばしてしましたいほど、どうでもいい論理だが一部の人はこんなもんをいまだにありがたがるようだね。 言葉を整えてみたので、思考可能なつわものから意見が聞きたい。 お釈迦様は昔々のインド社会で、突如信仰に目覚めた。 その内訳は、信仰心こそが我が心そのものだと言う確信であった。 すなわちお釈迦様は神を受け入れたのだ。 信仰心に目覚める事も無いくせに信仰に思慮を巡らせる者どもはとかく噂話が好きだ。 そんなうわさ話に、「信仰心とはそうではない」すなわち君達は信仰のこころざしが無い虚空でありすなわち無だ。 そして、自らの信仰に土足で足を踏み入れようとする他者からの冒涜に対しては、「それは私の心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 そしてどの道無だから一切が無と言う説明のみが信仰に関しては成り立つ。 自らの信仰の道を歩むにあたって、その人生をこのような処世術で終始した。 ただそれだけの事だが、「有りを隠し無と語る」これと「まるっきりそんなもんありゃしねー」この二つが有無の分別となり交錯するのが、釈迦の悟った無の哲学の真骨頂だ。 2500年前の人類の歴史が創造されようとするころ、信仰のみに生きた釈迦の志は画期的であろう。 そのような哲学は十分現代でも通用するが、肝心の彼の言葉お受け継ぐ仏教徒たちは、所詮お釈迦様が「そんなもんありゃしねー」と言っただけの迷信にしがみつき、無と言わしめた本来の、「自らの信仰」これをおろそかにしているのではないか。 お釈迦様自らの信仰では「私は涅槃に赴く」そして君達のそんなもんありゃしねーは「六道輪廻に落ちる」そう言っているのだよ。 すなわち、私こと釈迦の信仰心は、君達にとって受け入れがたい無であると言った。 君達のそんなもんありゃしねーは、要するに当時のインドの土着習慣では輪廻がある。 お釈迦様が語った宗教観は彼に問いかける人々への洞察であり、当時のインド社会での神に対する煩悩や迷いを説明したものである。 すなわち現代日本において仏教的世界観とは、遠い過去の遠い外国の迷信が主体であり、自らの信仰とは違う、それを理解すると仏道とはただ通り抜けるだけの、遊園地のお化け屋敷のようなモノで、自らの信仰心に目覚めたなら捨て去るだけである。 そうして捨て去る迷信が、仏教であり、解脱、悟れば何も語らない、こういう現象となる。 自信満々に言うがね、伝承上の弥勒菩薩たる実力を私は備えておるよ。 しかしそれはくだらないことだ。

  • 仏や神の力で平和を

    紀元前世紀・2500年前、インド(ネパール)のシャークヤ国 シャーキャ族(釈迦国)の小さな国(カピラワット王宮)の王子 (お釈迦さま)が出家して修行をした。お釈迦さまの死後、弟子 の500羅漢が纏めた教範を布教するため、世界へと旅だった。 「細部は略して有ります。」 日本は徳川幕府が終わり、戦争も敗戦し終わり、平和な日本の法 治国家が(紛争も内戦も無い)安定しています。 それに対して、 アフガニスタン紛争、シリア内戦、クルド対トルコ紛争、リビア 内戦、イエメン内戦が治まっていません。 仏の力・神の力及ばず、僧侶が神主が戦地に赴いても平和を説く 布教は怖いだろうと思う。銃殺されるかもの思いで行かないと、 そんな勇気は無い、日本で優雅に生活して居たい。誰でもが思 うことです。自衛隊は海外派遣で、正に世界の平和のために命 を懸けています。仏より神より立派だと思います。私は思いま す。皆様のご意見をお待ちしています。

  • 無の悟りは、このくらいわかりやすく説明すればいい

    いつものやつの続きで、本気で出版を考えて整えたモノ。 まあ、このくらい説明すればわかりやすいだろう。 論理について何か思うところを書いてください。 参考にします。 > お釈迦さまが生きて駆け抜けた時代である、約2500年前、人が自らを自覚して歴史を刻もうとするさなかのインド社会では、荒々しい自然界の生存原理との折り合いをつけて、人と人が共生する文明の芽吹きがあった。 そのようなさなか、人と人の社会生活と、個人が動物のように利己的に生きたそれまでの自然本性から発展させて共生を目指す、人間同士としてのお互いに共通認識をもった、文明に根ざした新しい生き方を歩むにあたって、その理想を仲介する事は文明社会では神への信仰に集約され、人の理性的資質の所在をめぐり人々は様々な自説を述べ、神の案内する人間としての社会性の構築の理想像について、お互いに意見を交わした。 人と人を結ぶ神を道標に、人はお互いに解り合い自己の社会性を理解して人間になろうとした。 それは自らを知る行いが神を知る行いと一致した文明の発祥期の事柄だ。 神の案内する共存が人間同士の社会生活の発祥であろう。 宗教と言う社会活動はそのような意味がある。 神の発見が、人に自己であるという自覚をもたらし、社会性を備える人間としての存在に進化させたのだ。 そこにお互いに人としてどのように信じるかがあり、そんな当時の風潮のさなかに、お釈迦様は生きてそして自身の信仰に目覚めた。 いわゆる仏陀の悟りである。 2500年前のインドの風土でヒンズー教の源流を司る修行僧たちは、語る人によってさまざまであった神の姿を明白に定義しようと努めていた。 このような神を知る行いは、僧によって現在も続いている。 世界中見渡しても、同じことをしている。 その神を知る行為の実際は、自らの信仰を通して神の証明を試みる事であり、自己を完成させ、それを認知されることが、インドにおいては目覚めたものとして仏陀になる事であった。 お釈迦様はそれを成し遂げて自己完結し自らの信仰を打ち立てた。 彼が聖人であったからには、信仰により語る人によって様々であった神の姿の全てを受け入れたのだろう。 それは、神を語る言葉はないという、釈迦独自の無の信仰であった 無の信仰を持って神を受け入れ、他者の信仰心の不備も、無であると指摘した。 他者の信仰を無として許し、自らも無であるという共通項に、慈悲心の原点がある。 お釈迦様のように信仰心に目覚める事が出来ないで、信仰を語ることが権力闘争と化した当時の僧は、現代の生臭坊主と同じく、我が神はかくの如しという噂話が好きだ。 彼らには僧として、それが社会的に求められたからこそ神を語るのだが、そんな神はかくの如し、と言う噂話に、お釈迦様の無の悟りでは「正しい信仰心とはそうではない」とばかりに、神を理解するゆえに、過ちの多い当時の僧の言葉に批判した、神を損なわず僧の信仰のあり方のみを咎めたのだ。 それは、当時の修行僧の大半には、当時生殖やとして重要だった、仏陀の境地に行きついていなく、自らに信仰のこころざしが空疎であり、むしろ神を損なう負の信仰であるので、それは無であると否定する慈悲心であった。 そして、ならばと、目覚めぬ者が、神を信仰しつつも無と語る、お釈迦さま独自の神への志を改めて問いかけ、その信仰に土足で足を踏み入れようとする冒涜を犯し、その答えは「それは私の心そのものであり、他者に語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 お釈迦様の、無の悟りとはこのようである。 そして慈悲心とは、無の共通項によって、お釈迦さまに理解されていたからこその行いだ。 等しく無を信じるならば、他社の信仰心の不備は、批判するものではなく、慰め、釈迦の心理足る無の悟りを持って知らしめるものである。 すなわち、他者をとらえて、「その信仰は神を語っていない」(全く無い) 自らをとらえて、「神を語る言葉はない」(実はある) この二つの無を使い分けて、信仰とそれの報じる神について、無であり彼我の一切が無と言う説明で、自己の信仰を表現するお釈迦様独自の悟りと処世術である。 無の悟りと自覚は、語る言葉に関しては一切ないという話で、実は心には留められているという、我には信仰が有るということである。 それがお釈迦様の仏陀の悟りなのだ。 そもそも仏陀の語源の一つである「目覚めた者」とは、さらに言葉を膨らませると、自らの信仰に目覚めそれによって自らを自覚した者のことだ。 仏陀は当時も今もインド社会に数多く居た。 お釈迦様の場合には、自らの信仰を自覚したからには、私は無ではなく神と共に確かに存在する。 しかし、世界に向けてそれを語る言葉は無い。 そういう意味である。

  • 無の悟り、無の境地とはなんですか。

    基本的な事を確認しておきます。 無の悟りとは、あなたにとって何ですか。 何故無を悟ろうと志すのですか。 無の境地とはあなたにとって何ですか。 何故無の境地にいたろうと志すのですか。 私が考えるにそれがいいことだと誰かから教わったからじゃないですか。 ちなみに私は無の悟りに至った自称仮面ライダーです。世の中に対しては自称弥勒菩薩と言った方が受けがいい。 そんな私が元々願っていたことは人間になる事でした、無を悟る事でも仏になる事でも無かった。 でもそれが正解で、自己を自覚してこそ仏なのです。 お釈迦様を見習ってまねをすることは、自分らしくないのです。 それはともかく「無の望み」とはどのような経緯であなた方の場合望んでいるのでしょうか。

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    勉強を続けなければいけないんでね。 猿回し再開だよ 前回はコレ↓ 無の境地について考察しました。添削してください。 http://okwave.jp/qa/q8286466_3.html#answer 解釈しやすいように修正したうえで抜粋してみるよ。 > そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないし、そもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは成しえず、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、独自の悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚は、自らは存在すると言う確信を伴い、滅却を伴う仏教の無の教えとは違う。 ただな、この空の方が本来の無の悟りに近いことは確かなんだ。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされている。 私の分別は自らの基ずいて迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も静寂の中にたたずむ。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 仏陀に自覚とは、自らを自覚することであり、お釈迦様を理解することではない。 この点でどこか君達は倒錯していて、お釈迦様を理解すれば、お釈迦様を自覚できる。 それでこそ仏陀だと言う間違った解釈をしている。 神と一体になることは可能だが、人であるお釈迦様と一体になることは不可能だよ。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 何度か続けた問いかけで、君達は空に関しては理解した自信を持てるであろう。 その信仰の安らぎは、釈迦に報じて、倒錯ゆえに釈迦の心が判らない者にとっては正解だ。 無の境地とは違うが、空であると言う悟りであり、心は涅槃に入ることも可能だろう。 仏教が編み出した境地として肯定しよう。 しかし哲学者として、仏教を理解しきりたいと言うのならば、「無の悟り」に関する一連の研究から、果たして無の境地に至れるかどうか自問したまえ。 まあ今回はこのような論理を提案してみた。 研究途上の事柄で、自由に無駄な抵抗を投稿したまえ。

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