• 締切済み

初心者マークは、パワハラで差別ですか?

初心者マークを初心者に付けさせることを、外国人で政治学を学んだ人が、パワハラと言われることに共感で、差別にあたると言いますが、私は全く意味がわからないです。私は、このマークはベテランの人などと区別する物ととらえています。どなたか外国人の感覚の分かる人、政治学が分かる人、易しい言葉で解説してくれませんか?

みんなの回答

回答No.4

そのがいこくじんあたまわるいね

  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2589/17102)
回答No.3

海外には「優先席」などというものはまずありません。高齢者や身体に障害を抱えている人が乗り込んだら譲るのが当然という文化の国ではそんなものはまず必要ないからです。一方、日本という国は「お上の言うことには従う」文化です。日本では民衆が革命を起こして政府を変えたという歴史はありません。「上が決めたことには従うが、そうでないのなら好きにさせてもらう」というのが多くの日本人の考えで、だからこそやたら細かい決まりが必要になるのです。

  • marukajiri
  • ベストアンサー率45% (504/1101)
回答No.2

日本の道路交通法では、普通自動車免許を受けてから通算して1年(免許の効力停止期間を除く)に満たない者は,普通自動車の運転に際して初心運転者標識(初心者マーク)を付けなければならないとされています。 さらに、初心者マーク表示義務がある者が運転する初心者マーク表示自動車に対しては,周囲の運転者に保護義務が課せられ,無理な幅寄せや割り込みが違反行為とされ、これに違反したものは取り締まりの対象となります。 つまり、初心者マークは義務を負うとともに、保護される権利を有しているので、ある意味特権を持っていると言ってもいいでしょう。ただし特権と言っても、無理な幅寄せや割り込みなどは、初心者マークをつけていない車同士でもするべきではありませんので、普通のドライバーは初心者マークを見たら近寄らないなどということは無く、普通に運転しています。 ということで、初心者マークが特に特権を持ってパワハラ状態になっているということはありません。ということで外国人の主張はこちらでは無いようです。 もう一つ別の見方をすると、道路交通法により、初心者マークを1年間つけなければならないのは警察の無茶ぶりで、何らつける必要は無い。初心者はそんなものをつけなくても保護されるというのがその外国人の主張かもしれません。 え?じゃあまわりのドライバーは、どうやって初心者を見分けるの?と聞けば、そんなもの運転の仕方を見ればすぐわかると答えるでしょう。道を右に左にフラフラしながら走っていたりすれば、見ただけでわかる。わざわざ法律で保護するようなことをしなくても、無理な幅寄せや、無理な割り込みは常識としてするべきではないわけです。 初心者だから保護されるのではなく、車を運転する者としてお互いに注意し合って、譲り合いの心で運転すれば何も問題は無いし、変に車間距離を詰めたり、何もない所でいきなり急停車したりしても、後ろの車がそれなりに車間距離をとっていれば、事故になることは無い。警察は過保護すぎるのではないか?取り締まりは厳しくすべきだが、もっとドライバーを信用してもいいのではないのか?初心者マークなどという無駄なものに金を使わせる必要は無いだろう。 結論として、初心者マークは、警察が国家権力を行使して、政治面においては法律を用いて、パワハラによりつけさせているものであるというのが、この外国人の感覚なのだと思います。

3691re
質問者

お礼

詳しい初心者マークの御説明をありがとうございます。

  • yumi0215
  • ベストアンサー率30% (1335/4411)
回答No.1

車の運転がまだ未熟なので周りの方は温かい目で見てください。 という意味も含まれています。 自分のためのものではなく未熟さを周知させるための物。パワハラと定義づける根拠は?共感で差別にあたるとは? 肝心な点が省かれているのでその方がどのような意味合いで発言されたのかはわかりません。その方の発言を正確に記載されていなければ、なぜそのようなとらえ方となるのか解くことはできません。 補足していただけないでしょうか。

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  • ”差別”という意識はどこから来ると思いますか?

     始めに断わっておきます。以下の文中には多数の現在「差別語」とされている言葉を多数用います。しかしこの場合の用い方は決して「誰かを貶める・貶したい」という用法ではなく『現在の社会において言語学上存在している認識記号・発音の集合体』といった非政治的意図で見ていただきたいです。もしそういったことに抵抗がある方は見ない方が精神衛生を害さずに済むと思われます。  差別・差別語という言葉を聞いたときに、漠然と民族や文化圏の違う人々の争いといったイメージを浮かべる方が多いと思われます(そのようにマスコミやメディアが謳う甲斐もあるのでしょうが)。 近年ですと韓国・中国との不和問題に端を発し、ネット上でもわざと融和意思を見せないという意図で「シナ人・チョウセンヒトモドキ・チョン・在日」などの語録を用いて反抗しようとする、いわゆる「ネトウヨ」の活動が目につきます。  少し前だと中国人の日本人の蔑称として「日本鬼子」(後に萌キャラ化されましたが)や、欧・米圏だと数えきれないくらいの差別文化がありますが例示するなら「白・黒・ニガ―・ジャップ・エスキモー・バイキング」などでしょうか?それ以外にも独英伊西仏はジョークの中に「○○するのは××人くらいのものだ」といった使い方で相手国人を貶めたりする文化が未だにあるように感じます。 また日本国内にも日本人同士を貶す意図で使われている語録が多数存在していますよね?「部落・穢多、非人・土方・キチガイ・池沼・障害(ガイジ)・レズ・ホモ」など、日常的に言う人も多いのに実は差別語認定されている言葉も有ったりします。  ここまではある程度の事実確認です。そしてここまで読んで感じた方が居られるか分かりませんが『差別の在り方・社会での使われ方』が変質してきているのではないか、と問いたいのです。  所謂昭和期など、現在の20~30歳までより上の方たちが使う「差別」というのは、「イケメン・優しい・ガサツだ・気が利く」といった表現の様に(1)『文字が(直接会ってもいない誰かの)印象を決定づけてしまう』意味を持っていたように感じます。これは今までにその人の存在・本質を見誤らせる悪しき物差しだとして随分社会的な粛清が与えられ、めっきり見なくなりました。  一方近年においては、上記のような「差別」の使われ方が残る一方で、(2)『コミュニケーション上の印象操作を目的とした、パフォーマンスの一種』としての意味が強いのではないかと感じます。子供が相手を罵りたいときに「バカ」「アホ」と言うように、その「罵りたい気持ちを相手により強く伝えるための手段」としてこういった語が用いられるのでは?と感じるのです。  そしてこれらとは別に、➂『同じ文化背景を持つ相手に意味を伝えさせるためだけに用いる』というのもあると感じます。田舎の祖母は「集落・地域」と同じ使い方で「部落」と言いますし(その地域が過去に部落認定されたことはないのに、です)、未だに外国人をTVで見ると「外人・黒んぼ」といった呼び方をします。  このように、差別という意識を何のために用いるのか・何に起因しているのかは、社会情勢によって変化していると言えないでしょうか?  (1)ならば多くの優位(とされていた)集団が少数の劣位(とされていた)集団を、恣意的にいたぶる事が認められていた中で、「差別をしてもいい」という感覚を植え付けられたのではと考えられます。  (2)では相手と自分、「マクロ対マクロ」や「ミクロ対ミクロ」、文化背景の共有が完全に同一ではない集団同士の衝突も想定されるという点で異なります。(1)の差別感覚を自分らが与える・受ける効果と、相手側のそれが同一か証明する手立てがないのですから。  ➂に関しては使用者が問題を自覚していないという点で「差別意識」発生を使用者意思に置くべきなのか、他者・評価者判断に置くべきなのかということで非常に難しくなりそうです。殺人を褒められることと教育された子供の判決をどう下すか、といった問いに似ているでしょうか。  長くなりましたがとりあえず包括的にまとめますと、「差別を絶対的悪とする社会と、差別することを善しとしていた社会、自ら進んで差別したがる社会、そして差別という意識から抜け出し単なる文字の集合体として語録を扱う社会」に我々は放り込まれている。そして時々自分も相手もどの立場に身を置いているのか分からなくなる・理解する前に話をするがために『差別語を使った』という事実だけを槍玉に挙げて、善か悪かの二元論だけでケリを付けようとしているのでは、ということです。  あなたがなぜ「その語は差別的だ」と思う、もしくは「この語には単なる区別機能しか有していない」と思うのか?それはどこから来た感覚で、もしそれが無かったとしたら今その語を見る目は変わっていただろうか?  何やら唯名論・実在論の話にもなりそうですが、ひとまず社会人・個人意識レベルで認識を見直す一助となればと思います。  なにか持論・解釈について語りたい方がいれば参考にしたいので書き込んでいただけると嬉しいです。返信は出来ないかもしれませんが...  膨大な長文・散文・いまいち纏まりがないと思われるかもしれませんがここまで読んでいただけたなら幸いです。