恐怖と権威主義の効果的な組み合わせ

このQ&Aのポイント
  • 恐怖と権威主義は、纏まりを作るための効果的な手段であると言えます。
  • 一部の人々は恐怖と権威主義を信奉し、それが社会の安定をもたらすと考えています。
  • しかし、恐怖と権威主義が持つ強さに盲目的に従うことは、個人の自由や平等を侵害する可能性もあります。
回答を見る
  • ベストアンサー

恐怖と権威主義は纏めるのに効果的である?

 恐怖と権威主義は纏めるのに効果的である?  所謂、発展途上国の北朝鮮が崩壊ぜず、経済的にも劣っているが表面上は  纏まり、国家の首脳陣は安泰であるというのは、恐怖と権威主義を信奉しているか らなのでしょうか?  1 1980年代 中学校で 怖い教師がおり、この教師は不良を暴れさせないと  いう事では良かったのですが、恐怖的な手法を全生徒に行い、不良の為になら  普通の生徒は犠牲に成っても厭わない(俺が居ないと不良が好き放題する)と  いう感覚でした。  2 が、学校でこの教師達が「気合いを入れる」「最近たるんどる」等と言う理由   で、生徒に体罰を行うと。生徒の中には  「嗚呼、俺を鍛えて下さって何と有難いお方何だろう」  「あの先生は怒ってくれる有難い人」と受け取っておりました。  3 それで、その怖い教師を信奉する反面、普通の教師や大人しい生徒に矛先が  向けられ、その人達が大して非道していないのに、その人達に鬱憤をぶつけるが、  怖い教師が居るので表面上は纏まるとこの様な感覚でした。  4 だから 強く成る事が第一。    いじめが悪いのではなく、お上に従い、お上に逆らわなければ、    いじめでもなんでもあり、ということなのでしょうか?    (この様な手法を信奉している田母神俊雄氏や戸塚宏氏等はその様なタイプ     なのでしょうか?)    例えば、与党の批判をさせないために野党を叩いたり、    韓国が批判をかわす為に日本を叩くという手法で、    強ければ通り、強い立場の者に従えば、何をやっても良いという考えなので    しょうか?    この辺りの事をご回答戴ければと思います。    (唯、同級生で父親始め暴力で支配され育った者がおりました、     彼は怖い教師の元で、怖い教師には逆らわず、その枠組みで暴れる     (弱い者苛めする等)事で、社会性を身に付けている感じでしたが、     彼等の事を考えると、私は組織の為と思い、我慢するべきだったのでしょう    か?)     (この怖い教師は前述の彼の様なタイプが好きで、特に暴れない、誰の言う   事も聞く、唯幾ら怖くてもここは可笑しいという生徒を嫌っておりました、    特に非道はしないが、自分の意を邪魔する目障りな存在となるのでしょう     か?) 

noname#250543
noname#250543

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • habataki6
  • ベストアンサー率12% (1183/9772)
回答No.1

国家というのは武力有るのが大前提になります、なぜなら 弱い国が何いおうが誰も興味無いです、でも強い国が何か 発言すれば、それは弱い国からしてみると、国家の存続 に影響してきます、ですから無関心ではいられません。 日本は弱い国だという事は既に歴史が証明されています、 弱いから他国に領土を勝手に専有されたままなのです <強ければ通り、強い立場の者に従えば、何をやっても良いという考えなので < しょうか? 国際ルールを守らない国が有るとすれば、常識は通用しません、

noname#250543
質問者

お礼

ご回答有難うございました

関連するQ&A

  • 恐怖政治 権威主義は纏めるのに効果的である?

    恐怖政治 権威主義は纏めるのに効果的である? 世界的にコロナウイルスが蔓延しているのにも関わらず、 北朝鮮等はミサイル発射等を行っている事からも解る様に、 恐怖政治は纏めて行くのには効果的なのでしょうか? その様な事からも私が中学時代(1980年頃)に居た、 怖い体育教師の言動も正しくはないが似た様なものだったのでしょうか? そして、絶対に正しくはないが家庭も恐怖政治的な躾をされた人も居ります。 「いじめはいけない」「暴力も駄目」最もな意見ですが、 彼等の生い立ちを否定される事に成る、彼等を結局統制できるのは 「恐怖政治的な組織」なのでしょうか? 例えば、運動部の暴力がニュースに成ります。 人によっては、家庭も暴力的で育ち、誰か怖い存在(顧問 先輩等) にこの人には叶わないと思い枠組みに入る、そこで弱い者苛め等もするが、未だ彼等を暴れさせないで止めて置く事が出来るという感覚なのでしょうか?(これは全てがそうだとはいえませんし、誉められた話ではありませんが、相撲の力士や野球選手等にもこうせざる得ない様な人が居るのでそうかとも思えます。) (1989年に起こったコンクリート殺人事件の主犯格Aもその様な生い立ちで中高と柔道部に身を置く事で暴走を止めれていたそうである (部内校内では暴力 いじめをしていたそうだが、これが未だ彼等の 暴走を最大限に抑えられる方法なのかもしれません) 私が居た中学の部活動の話ですが、 その様な生い立ちで暴力の強弱(それだけでなく愛情や競技に対する指導力もあると思いますが)で始めて枠組みに入る生徒が居りました、その生徒にはそれで良かったのかもしれませんが、 特に非行とかの問題も無く反抗的で無い生徒にも顧問の教師は 同じ様に接し、「根性がない」の一言で片付けておりましたが、 彼等暴れる生徒に基準を併せるとこうなるのでしょうか? そして、小中と云う未成年義務教育と云う処では此方は彼等の為を 思い我慢しなければいけなかったのでしょうか? ご回答お願いいたします。

  • 権威主義と民主主義の違い

    強い政治や強い人物を好む人が居ります。 その様な人に限って、政治の野党や強い人物でない者の 「大した事無い言動や行動」を批判非難し、彼等は「強くないから駄目」であり、 私達はその強い国家(政党 組織 人物)によって、今の私達の繁栄はあって、 それを邪魔するのは、弱い組織(政党 組織 人物)であるという事なのでしょうか? 又、強い者には逆らえないので、批判を弱い処へ向け、それでまとめていくという お上の政策なのでしょうか? (強い人物もそれなりにある時期までは業績を上げたり、政治的手腕を発揮したり しております。(例 ドイツナチスのヒットラー 中国の革命の時の毛沢東 ソ連のスターリンから現在のプーチン トランプ等) が、この人達やそれを支持する人はその強大な力故、改革を行い、力を発揮したので、国民は従い、駄目に成ったのはそうなれない弱い奴らが悪いという風に解釈 しているのだと思います。)  もっと、それを小さくした会社や学校等もその様な事かと思います。 (神戸の小学校の教員苛めが問題になりましたが、あれは正しくこのような体制を 象徴していると思います。)  が、権威主義はまとまり、お上に批判はせず、動かせるので上にとっては 都合が良い理屈になるのでしょうか?  (私自身は自民党の政策も必要ですが、時には民主党の助言も必要と思う時も  あります。(緊急時の対応等は永年政権を取って来ただけあって自民党の対応が  早いのですが、そこに癒着収賄の問題があったのだと思います。そこが批判され、  野党が政権を取った時期も有りましたが、その当りが上手く行かなかったと思いま す。)  唯、極端に権威主義を信奉する人は、何か知らないけれど野党を嫌い、弱いから嫌い。 国力が強く成ればいい、それで貧しかったり、病気の人は甲斐性がなく、 弱いからいけないとこの様な理屈になるのでしょうか?  又、正しいからではなく強いから信奉され、強いからそれで多少犯罪まがいの事を 起こしても、目をつぶっていて欲しいとこの様な感覚なのでしょうか?  ご回答お願い致します。

  • 権威主義は苛めを肯定する?

     今、神戸の小学校で教員による 苛めが問題に成っております。  が、権威主義(この人に力があるから従えという感覚 悪い意味で使っております。申し訳ありません。)を信奉する人は、苛めが悪いのでは無く、  縦社会の権力(例えば国家 会社 学校という組織)に従えば、  苛めを行っても良い、という考えの人もおります。  恐喝や殺人は国家による犯罪の領域に入るので、罪を犯し、罰せられるが、  その様な事をせず、お上に従えば、その枠内では苛めはあっても良いと思って  いる感覚の人もおります。  スパルタ教育や権威主義 恐怖政治は統制がとれ纏まりますが、  そうすると、弱い処にその鬱憤をぶつけます。   しかし、この様な教育を信奉する人は  「お前が強く成れ」「いじめはなくならない」という事で、「弱いから悪い」と  いう事なんだと思います。  この様な感覚の人は 「苛め 暴力嫌い」「以上でも以下でも無い感覚」を  「超えられない軟弱者」と忌み嫌い、「怖いから従い、怖い存在に従っていれば  苛めでも何でもあり」という人間の方を好む傾向にあります。  「苛め 暴力嫌い」「以上でも以下でも無い感覚」というのはその縦社会を潰す  目障りな存在となるという事なんでしょうか?ご回答お願いいたします。  (例えば、自分の意思で行おうにも、規制がないと出来ない事   (例 交通信号 夏休みの宿題 仕事のレポート等) ある程度のノルマや規制  は必要だと思っております。   が、やることをやった上で上述の人物は「以上でも以下でも無いのが気に食わない」「喧嘩して勝つか負けるかや」等といい、因縁を付けられた事があるので  矛盾に思い質問させて戴きました。  

  • 権威主義は統制が取れるし、思うままに動かせる?

     どれが正しいか間違っているかとは申しませんが、  現在の米国トランプ大統領やブッシュ大統領やロシアのプーチン大統領に  見られる様に、権威主義的な生き方を好む人も多く、強さで圧倒し、統制が取れ、  纏まっていくという事なのでしょうか?  その強さ故、上に立つ人は多少横暴に振舞っても良いという事なのでしょうか?  故に教師や指導者的な立場の人も「いじめ肯定」を説く人もその様な考えなので しょうか?  例えば、戸塚ヨットスクール等はコーチ陣に従えば、新入りや立場の弱い者の  苛めを「相手を鍛える」と肯定し、「いじめをなくしてはならない」「必要」  「嫌なら強くなれ」という事ですが、この考えならそこで苛められている人は  結局いなくならないということだと思います。   だから 「苛めを無くすのではなく」「苛めを内に囲い、御上に従えば、  その中で(弱い立場の者に対する)苛めも横暴さも認めて貰える」という事なのでしょうか?(戸塚ヨットスクールも恐喝等の起こらない範囲のいじめや暴力は良いと 認められておりました)  だから、御上にとって服従する事が目的であり、その中では傍若無人に振舞っても 良い、その様な人種の者の方が好まれるという事なのでしょうか?  ご回答お願い致します。

  • 権威主義は纏めるのに良い?

    教育は強制であり、体罰を含む罰則も完全に否定しない事を認めた上で 権威主義的な傾向を好む人と民主主義的な傾向の人に別れているのでしょうか? 私の中学時代の事ですが、 A先生 子どもの頃から運動一筋で、 運動能力も高く、腕力は滅法強く、 学生時代に学校を占めたとか、その様な武勇伝を語っておりました。 そしてその競技に対する能力も高く、それなりの成果を上げておりました。 唯、部活動などで意見を云うと体罰、意見も云えない雰囲気がありました。 又、学校の全員が自身の大学の運動部の人間関係の様に成らないといけないと思っている節がありました。 そして、その気質に付いていけない者は、特に非道せず他で頑張っても、「認めないし関係ない」と云う態度を取られました。 (私もそうでした) (それでも生徒に体罰を行使する時は未だ手加減して行っているそうで、不良10人以上と喧嘩をして勝ったそうです。) それで、その部を強くする、気質的にはまっている人も居り、 (それは私も評価しますが) そこにはそこの愛情もあるのだとは思いますが、 私は「手放しで受け容れる」事は出来ませんでした。 B先生 授業も部活動顧問も平均的に行い、  相談にも乗っていただいたり、叱る時には叱り、  極普通の先生でした。 が、A先生にはまっている生徒で、B先生が私語を注意した。 夏休みの宿題の催促をした。と云う様な理由で、B先生に反抗し、 A先生が「最近たるんどるぞ」と殴っても「叱ってくれる有り難い人」と受け容れていく様な処がありました。 その生徒の基準は、B先生はA先生に比べ弱いので反抗できるから駄目な人、A先生は逆らうと何をされるか解らないので叱ってくれる有り難い人と云う基準でした。 暴走する生徒もA先生によって枠に入り、その鬱憤晴らしをB先生はじめ、弱い処に行うが(A先生の力により私等に行う苛めも等も彼等からすれば未だ手加減していると云う事に成るそうですが)、A先生によって大荒れに成らず、そのエネルギーをその競技に向けれると云う事なのでしょうか? 私はA先生でもB先生でも基本的な事は聞いておりました。 (A先生の方が無意識の緊張感はあると思いますが) B先生も欠点はあり、それは認められますが、A先生もここは認めるがこれはおかしいと云う風に思っておりましたが、人によっては A先生に服従して、無条件に受け入れていく事で、心が安堵していく人も居るのでしょうか? 正しさとは別にして(人権も無視すると)、唯纏めていくのは A先生のやり方なのでしょうか? 軍隊等はA先生のやり方で統制を取っているのでしょうか? 軍隊も内部で苛めはあるが、軍部と云う絶対者の統治下の元認めてもらえるので、御上に従えば、その枠組みでの苛めは認めてもらえると云う縮図なのでしょうか? この様な体制に身を置く事で感情がコントロールされていくと云う人も結構居り、A先生の強さを信奉し、従う事で良しとする人も居るのでしょうか? 別に校則や体罰は完全否定しなくても、私は元々民主主義的な感覚なのでしょうか?

  • 怖い教師は真面目な生徒には用がない?

     別に怖い教師を批判非難するつもりは無い事を断っておきます  風貌や言動がヤクザ的な教師がおり、その様な教師は治安維持の為に必要である事は  頷ける話でありますが (教師に限らず 警察 自衛隊 刑務所等もその様な処はあると思いますが)  この様な教師は  1 どの教師の云う事も平均的に聞く教師よりも    普通に云っても云う事を聞かず、強いから怖いからと云う事で云う事を    聞く生徒を好んであるのでしょうか?  2 不良生徒に合わせる為にこの様な言動をしているのでしょうか?    それとも自分自身も不良生徒と同じ様な心理だったのでしょうか?     私の中学(昭和時代 結構荒れていた)の頃  怖い教師は顧問をする部で見学に来たり、入部を断っただけで  体罰を加えたり、部員にもいきなり気合をいれる 従わせる為に体罰をしておりました。  結局最後まで続けたのは、不良や血の気の多い人間で   彼らは「あの先生はどの子にも同じ様に接するから良い」と云い怖い強いだけでなく  そこには愛情もあると思いますが、拳で語り序列を造り鍛えられ強く成り、顧問から見れば  叶うべき生徒と成るのだと思います。  が、別にいじめや反抗もしない、基本的な事はどの教師の云う事も聞くと云う生徒も  この教師から「気合を入れる」事や「入部を断る」事で同じ様に体罰を加えられないといけないのでしょうか?  この教師は私も含め後述の生徒を非道はしなくても「鍛えられない弱い奴」と思っている様でした。    1強く鍛える為には不良生徒を服従させる方が良い  2この教師にはまっていたものは服従し、この教師を批判せず、   文化部の生徒等大人しい生徒等に適度に弱い者苛めをしていたが、   やり過ぎると顧問から殴られ、適度な弱い者苛めは容認して貰っている様でした。  やはり、非道はしなくても大人しい人間は怖い教師から見ると「鍛えられない軟弱者」で  用のない人間と成るのでしょうか?  ご回答おねがい致します  

  • 正しくは無いが権威主義は纏まる?

    現代社会 それも先進国等では技術や経済 政治が等複雑に入り、 単純なものではありませんが、国民の民度が低く(悪い意味ではありません)唯纏まっていく、「強さ」を求めると云うのは権威主義と云う事に成るのでしょうか? 中学時代の話ですが、 A先生 学生時代に競技で活躍し、その指導力には一定の評価はあり     それは認めましたが、     大学の寮(1年奴隷 4年神様という人間関係や     大学で学生同士が喧嘩し、自分は番長に成ったという事)の     人間関係を全生徒に押し付けたり、     「超えられる強い精神」を創る事を第一に置いており、     その為には体罰も厭わないという考えでした。     「超えられる強い精神」を創る事も時には大事ですが、     この先生はこれが出来ると、他に歪みがあっても良く、     特に非道していなくても、これが出来ない    (ついていけない)生徒を嫌うという感じでした。  B先生 平凡な教師、当時でも私から見れば普通に授業を行い、      クラブの顧問もされるという感じで、      叱る時は叱り、そんなに非道はしておりませんでした。  が、A先生にはまっていた生徒は、B先生に「意味の無い反抗」  をしておりました。  B先生が「宿題の催促」をした事や「私語の注意」に反抗する。  が、やり過ぎるとA先生に止められると、大荒れに成らずに  纏まっていくという縮図でした。  私は当時からA先生もB先生も基本的な事は聞いておりました。  が同級生でA先生が「気合いを入れる」「最近たるんどる」と  殴られる事も「有難い」と受け容れ、B先生が「私語を注意した」  「宿題の提出を催促した」と云って反抗するという生徒も居ります。  正しくはないが、この様な人種の者も居るのでしょうか?  公立の学校に行くと色々な人が居ります、同級生の彼は  強い人の云う事は聞き、弱い(と自分が判断した人)と思うと、  当たり前の事も反抗し暴れるという感覚でした。  私もA先生の(技術の指導や体罰という名の中に愛情)は伺う事は  あったのかとも思えるのですが、体罰が今ほど問題に成らなかった  1980年頃でも、私はA先生でもB先生でも基本的な事は聞く、  がA先生の事も100%は受け容れられないという感じでした。  唯この様な生徒をA先生は「超えられない軟弱者」と見ておりました。    だから、B先生に反抗していた同級生はA先生に「殴られ」  「叶わない」と枠組に入り、暴れるがA先生という存在があるので  大荒れに成れず纏まっていくと云う感覚でした。  当時から私はその様な体制はあわないと思い、距離を置いておりましたが、「暴れる」人は思想云々よりも「強さ」を信奉し、 そこに身を置く事で感情がコントロールされていくという人種の者もおり、その役割を果たしてくれるのが、A先生が居た大学の寮や A先生が顧問を勤めた部活動で、私の様なタイプが入ると目障りと 云う事に成るのでしょうか? (老害 脳筋と云われたが島根の開星高校の監督野々村直通氏や  大阪桜宮高校の小村氏 等はその様な事を言いたかったのかとも  思います) 

  • 権威主義と民主主義の違い

    学校教育は生徒を社会的存在にするものだと云われておりますが、 「社会的存在」と云うものはどのようなものなのでしょうか? 例えば、水谷修氏や尾木直樹氏等は 「決まりは守る」「苛めはいけない」と云う事を云います。 (私も完全に体罰否定派ではありませんし、その様な中で守れないと つい手が出て、それまでも問題にするのはどうかと思いますが?) 多分学園ドラマの金八先生からGTOの理念もこうだと思います。 (金八先生や鬼塚先生もつい手が出る事もあるが) 反面、戸塚宏氏や田母神俊雄氏は 「苛めにより成長する」「悔しかったら強く成れ」と云う理念で、 現在問題に成っているのは、御上の権限が弱くなったからであり、 御上の権限が強いと、御上に従い、御上の目の届く範囲では苛めも 認めて貰え、苛められたくないと強く成れという理念なのでしょうか? つまり、前者の教育は「競争は行っても良いが、勝っても奢らず、 負けても居場所がない事は無い」「例えば集団の中の一人で自分の領分が守ればそれで良い」と云う方法に対し、 後者の教育は「奪い取って、強く成れ、そうしないと食われる」的な 方法なのでしょうか? 唯社会で「勝つ」「強く成る」「纏まる」と云う事を考えると 後者の教育や躾が良いのでしょうか? ご回答お願い致します。

  • 権威主義者にはいじめ肯定論は都合が良い?

    権威主義者にはいじめ肯定論は都合が良い? 「いじめ肯定論」を説く人がおります。(戸塚宏氏 田母神俊雄氏等) 彼等の主張としては、 1 弱いから苛められる(鈍臭い 不器用等)  その弱点を見いだし、鍛えられるので苛めは善である。 2 その苛められた人が苛められ無く成っても、不器用な者や鈍臭い者がいる  だから苛めは無く成らないし、無くしてはならない。 3 国家(若しくは学校会社等)に背く事は秩序を乱すので厳しく罰せられるが、 枠組みの中では苛めも暴力もなんでもあり、悔しかったら強く成れという考えである。 4 道徳(譲り合う精神や公共心)は二の次で、集団でも支配すべく 闘わないといけない。 とこの様な感覚なのでしょうか? 唯、一般社会ではこの様な単純なものではなく、仕事に関する知識技術や人脈等も ものをいう処があると思いますが、 戸塚氏や田母神氏の求める事は「軍隊的な強さ」なのでしょうか? 例えば、戦争をするという事は、皆の意見を聞くと纏まらない、 だから、絶対者の命令で動き、それに従い、弱い者は沙汰されていくと この様な感覚なのでしょうか? だから、戸塚氏や田母神氏には「以上でも以下でも無い感覚で学校や組織に居る」 人間が理解できないという事だと思います。 そして、「罰則や法律」では「超えられる強い精神は育たない」 「いじめ 体罰」によりそれが育てられると言っておられます。 だから、暴走族や教員に対する暴力はお上に背くので悪であり、 その暴力を内に囲い込み、立場が下の者への暴力は「鍛えている」ので善。 これが正常であり、以上でも以下でも無い人間は目障りな存在となるということ なのでしょうか?

  • 怖い教師は治外法権なんでしょうか2?

     保守的な感覚では (野々村直通氏等)部活動等体罰でやる気を出させ、ここ一番と云う事で  強くさせる、強豪校ではこのようなギリギリの処で行っている、教育で体罰はいけないと云う事であるが 体罰を肯定される方の感覚も踏まえて上で私が矛盾に感じた事を質問させて戴きます  私の中学時代 とある部活動の顧問は仮入部で断った生徒にも体罰  入部して勉強する時間がないと退部する生徒にも体罰を行っておりました  強くさせる と云う事で続けた部員は鍛えられ強くなったのかもしれませんが、  彼等の素行の悪さ(顧問 先輩からの体罰を鍛えてやっていると部外者に苛めまがいの事を  行う)を見て、「強く成る事も鍛える事も良いが 他で失礼な事をしてまで特定の人間に  服従するのは、異常」と私は思いました、  が、彼等は「いじめ」も相手に大怪我をさせたりすると、顧問から殴られておりました、  だから、顧問からすると彼らの方が「自分の思いで強く鍛えられ」「いじめ非行も度を越えない程度に抑えられ」「目指す処には叶っている」生徒に成るのでしょうか?  この様な体制が御上の批判は行わず、鍛えられ強くさせ、そのはけ口として度を越えない  弱い者苛めを容認される、これで日本が伸び調子の時代は上手くいっていたのでしょうか?  又この様な人間の方がエネルギーがあるので使えると云う事なのでしょうか?  某体育大学で別に非道はせず、やることはやるが、暴力的な雰囲気についていけず  退学別の大学に入り直した者も居りました。  この顧問も自分の大学の寮の武勇伝等を語っておりましたが、  この方達は非道はしていなくても「暴力嫌い」な人間を「鍛えられない弱い奴」と思い  嫌っている様でした、  いじめの問題もここの部員が部外者や仮入部の者に苛めを行っても  この顧問は「お前の気持ちはわかるだけどやり過ぎると俺が許さない」と云い体罰を加えており部員はこれで感情がコントロールされている様でした。  又この顧問は「拳」を抑えないといけない事が難しい、だからそれを合法的に出来る  警察か刑務官か体育教師を選んだとも云って居りました  私は完全に体罰を否定しませんが、別に暴れて見たい気持ちは無く、  基本的な処は聞いておりましたが、その様な人間を軟弱者と云う風にに見られます  この顧問と部員にはそこで鍛える強く成る又優しさもあると思いますが、  非道はしていなくても「暴力 いじめ 嫌い」と云う人間を駄目な奴と云い  切り捨てていく処がありました  彼等は私達を非道はしていなくても認めたくないようでした。  それで強く成る、ある人にはこのやり方も良いのかもしれませんが、  その反面素行の悪さやついてこれない人間を見下し、馬鹿にしてる節がありましたが、  この様な教師は不良や血の気の多い人間にとって必要で治外法権なんでしょうか?  ご回答お願いいたします。