恐怖政治:権威主義の効果は?

このQ&Aのポイント
  • 恐怖政治は権威主義を纏めるのに効果的か? コロナウイルスの影響下でも北朝鮮がミサイル発射を行うという現実から考えると、恐怖政治は統制に効果的な手段である可能性がある。
  • 個人の生い立ちや家庭環境によって、恐怖政治的な組織に対する統制が行われることがある。例えば、暴力的な家庭環境で育った人は、暴力的な組織に属することで自身の暴走を抑えることができるという感覚があるかもしれない。
  • しかし、一律に恐怖政治が効果的であるとは言えない。個人の性格や経験によって反応が異なり、非行や反抗心を持たない生徒に対しても同じように恐怖政治的な教育を行うことは適切ではない。未成年の教育においては、個々の状況を考慮し、最善の手段を選ぶ必要がある。
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恐怖政治 権威主義は纏めるのに効果的である?

恐怖政治 権威主義は纏めるのに効果的である? 世界的にコロナウイルスが蔓延しているのにも関わらず、 北朝鮮等はミサイル発射等を行っている事からも解る様に、 恐怖政治は纏めて行くのには効果的なのでしょうか? その様な事からも私が中学時代(1980年頃)に居た、 怖い体育教師の言動も正しくはないが似た様なものだったのでしょうか? そして、絶対に正しくはないが家庭も恐怖政治的な躾をされた人も居ります。 「いじめはいけない」「暴力も駄目」最もな意見ですが、 彼等の生い立ちを否定される事に成る、彼等を結局統制できるのは 「恐怖政治的な組織」なのでしょうか? 例えば、運動部の暴力がニュースに成ります。 人によっては、家庭も暴力的で育ち、誰か怖い存在(顧問 先輩等) にこの人には叶わないと思い枠組みに入る、そこで弱い者苛め等もするが、未だ彼等を暴れさせないで止めて置く事が出来るという感覚なのでしょうか?(これは全てがそうだとはいえませんし、誉められた話ではありませんが、相撲の力士や野球選手等にもこうせざる得ない様な人が居るのでそうかとも思えます。) (1989年に起こったコンクリート殺人事件の主犯格Aもその様な生い立ちで中高と柔道部に身を置く事で暴走を止めれていたそうである (部内校内では暴力 いじめをしていたそうだが、これが未だ彼等の 暴走を最大限に抑えられる方法なのかもしれません) 私が居た中学の部活動の話ですが、 その様な生い立ちで暴力の強弱(それだけでなく愛情や競技に対する指導力もあると思いますが)で始めて枠組みに入る生徒が居りました、その生徒にはそれで良かったのかもしれませんが、 特に非行とかの問題も無く反抗的で無い生徒にも顧問の教師は 同じ様に接し、「根性がない」の一言で片付けておりましたが、 彼等暴れる生徒に基準を併せるとこうなるのでしょうか? そして、小中と云う未成年義務教育と云う処では此方は彼等の為を 思い我慢しなければいけなかったのでしょうか? ご回答お願いいたします。

noname#250543
noname#250543

質問者が選んだベストアンサー

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noname#247479
noname#247479
回答No.6

一時的に纏まるのかもしれませんが、根本的な解決になりませんし、やはり倫理上問題があると思います。 学校での教育に関して、集団を纏めるには権威主義が手っ取り早いのかもしれませんが、それに慣れた生徒は恐怖でしか動かされず、自分の頭で判断する能力が身につきません。 また、独裁的な統率は倫理的に問題がありますし、生徒の人権を否定するものです。 恐怖政治でしか纏めることができないほど暴力的な生徒に対しては、専門的機関での教育などの配慮が必要かと思います。 日本の教育は何でも教員に押し付け過ぎのためこの様な細かい配慮ができず、恐怖政治に頼る教員が出てきてしまうのではと思います。 恐怖政治は、労力と時間をかけず、一部の人が得をするだけの安易な手段でしかないと思います。 人を恐怖で支配するには限界があり、信頼や尊敬などを原動力としたほうが集団は栄えると思います。

noname#250543
質問者

お礼

ご回答有難うございました。 》学校での教育に関して、集団を纏めるには権威主義が手っ取り早いのかもしれませんが、それに慣れた生徒は恐怖でしか動かされず、自分の頭で判断する能力が身につきません。 表向きはまとまるが、陰湿ないじめ等も起こっている事は 多いと聞きます。 》恐怖政治でしか纏めることができないほど暴力的な生徒に対しては、専門的機関での教育などの配慮が必要かと思います。 日本の教育は何でも教員に押し付け過ぎのためこの様な細かい配慮ができず、恐怖政治に頼る教員が出てきてしまうのではと思います。 その様な事は昔から云われてましたが、「問題生徒を見捨てる」と云うので、その方法が適応され、(そうせざる人には仕方が無いが)そうしなくても良い生徒にもその方法を押し付けられたので、「体罰」等も問題に成ったのだと 思います。 》恐怖政治は、労力と時間をかけず、一部の人が得をするだけの安易な手段でしかないと思います。 仰る通り学校だけでなく、広い立場から「問題生徒」を法律や別の処で教育できる体制があれば「恐怖政治的」なものも 減っていくと思います

その他の回答 (5)

noname#247529
noname#247529
回答No.5

人間の社会はまだまだ直すべきところはいっぱいあります。教え導く技術についても未熟なのでしょう。 >我慢しなければいけなかったのでしょうか? それはわかりませんよ。もっといいやり方がその場ではあった場合も考えられます。ブラック企業がまだまだたくさんあるように、大人が全て人格者ではありません。世の中には、犯罪者、力不足の人間、勘違い人間、などなどたくさんいるのです。人間ってそんな単純ではありません。 単純にしか考えられない人間が無理に単純化しているだけです。

noname#250543
質問者

お礼

ご回答有難うございました。 》人間の社会はまだまだ直すべきところはいっぱいあります。教え導く技術についても未熟なのでしょう。 確かに、その時で反省していく人間、自分が絶対で 付いて来れない人を認めない的な人も居られると思います。 》ブラック企業がまだまだたくさんあるように、大人が全て人格者ではありません。世の中には、犯罪者、力不足の人間、勘違い人間、などなどたくさんいるのです。人間ってそんな単純ではありません。 単純にしか考えられない人間が無理に単純化しているだけです。 多分正しくはないが単純に「力による統制」で無理やり 統制しようとしているのかとも思えますが、現在ではそれでは通用しなくなりつつあると思いますので、見つめ直す必要があると思います。

  • yaasan
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回答No.4

纏めるってのは結局なんでしょう?アメリカでも日本でも思想をある程度自由にしていますが、刑法があり、それに抵触すると捕まって罰を受けます。中国や北朝鮮もそれは同じですが、許される行動の範囲が狭くなって罰則も厳しいものとなっています。要は見た目、同じような思想、同じような行動をしていないと、まともに生きていられないような国家であるということ。日本はもっと自由に色んな思想、いろんな行動が許されていて、一部の問題思想、行動だけが取り締まられる。アメリカも同様。しかも刑罰は北朝鮮に比べれば軽い。だけど、国として纏まってないか、と言えば、どうお考えでしょうか。 国家と中高を絡めて一つの纏まりと考えると恐怖政治だから、という面はとても薄いことだと思いますよ。

noname#250543
質問者

お礼

ご回答有難うございました。 》アメリカでも日本でも思想をある程度自由にしていますが、刑法があり、それに抵触すると捕まって罰を受けます。 これはその通りです。これが緩く甘いのが日本の未成年なので、学校の体罰云々問題などがあるのだと思います。 》中国や北朝鮮もそれは同じですが、許される行動の範囲が狭くなって罰則も厳しいものとなっています。要は見た目、同じような思想、同じような行動をしていないと、まともに生きていられないような国家であるということ。  確かに、その辺りが厳しいので纏まらる得ないということなのでしょうか?お上を批判すると処罰の対象となる。 》日本はもっと自由に色んな思想、いろんな行動が許されていて、一部の問題思想、行動だけが取り締まられる。アメリカも同様。しかも刑罰は北朝鮮に比べれば軽い。だけど、国として纏まってないか、と言えば、どうお考えでしょうか。 》国家と中高を絡めて一つの纏まりと考えると恐怖政治だから、という面はとても薄いことだと思いますよ。 多分、国の力や民度は日本が高いので日本の方が世界に誇れる国かと思いますが、未成年の刑罰が甘いので学校もどう対応すれば良いかという事なのだと思います?

  • staratras
  • ベストアンサー率41% (1443/3519)
回答No.3

「上に政策あれば下に対策あり」(上有政策下有对策)という有名な言葉が中国にあります。中央政府がどんな政策を遂行しようとしても、民衆や地方政府はそれに対応した抜け道(対策)を考案して実質的に骨抜きにしてしまう、という意味です。 一見「恐怖政治 権威主義は纏めるのに効果的である」ように感じますが、実は人々もしたたかで、表立って反対する人がいなくなるだけで、何でも指導者の思い通りになるわけではありません。 逆に指導者(職場の管理職でも基本的には同様)の立場で考えると、自分が間違った判断を下そうとしているとき、その誤りを指摘してくれる部下を育てられるかどうかが、その指導者の真価が問われるところです。周囲に自分に逆らわないイエスマンだけしか寄り付かないようになったのでは、リーダー失格です。

noname#250543
質問者

お礼

ご回答有難うございました。 》「上に政策あれば下に対策あり」(上有政策下有对策)という有名な言葉が中国にあります。中央政府がどんな政策を遂行しようとしても、民衆や地方政府はそれに対応した抜け道(対策)を考案して実質的に骨抜きにしてしまう、という意味です。 成程、唯、従うだけでなく、中国や北朝鮮等はその様にして甘い汁を吸っている人も居る(収賄等)し、骨抜きにして自分だけが得をしようとするという様な事もあるということかとおもいます。 一見「恐怖政治 権威主義は纏めるのに効果的である」ように感じますが、実は人々もしたたかで、表立って反対する人がいなくなるだけで、何でも指導者の思い通りになるわけではありません。 批判はせず、したたかに生きる事もあるが、それはその人が良いだけで、国の発展や民度は妨げていくと思います。

  • okok456
  • ベストアンサー率43% (2567/5917)
回答No.2

「恐怖政治的な組織」 代表的なのは「やくざ(反社会的集団)」「軍隊」でしょうか。 暴力的若者、規則を守れない若者が 反社会的集団 では何故 組織の規則を守るのか考えたことがあります。 ・自分の気持ちを理解してくれる。 ・仲間がいる。 アメリカに同じ人種の集まり「リトル・東京」「チャイナ・タウン」「 リトル・イタリー」などが出来たも 同じような要因でしょうか。 暴力と運動 運動部は暴力的能力を生かせる、認めてくれる、同類が集まっている。 運動部の教師・指導者の高圧的指導 多くの教師・指導者も高圧的指導、軍隊的指導を受けたからでしょう。 映画を見るとアメリカでも同じようです。 息子がスポーツ少年団で野球をし、手伝いに行きましたが 高圧的指導監督でした。

noname#250543
質問者

補足

ご回答有難うございました。 「恐怖政治的な組織」 代表的なのは「やくざ(反社会的集団)」「軍隊」でしょうか。 暴力的若者、規則を守れない若者が 反社会的集団 では何故 組織の規則を守るのか考えたことがあります。 ・自分の気持ちを理解してくれる。 ・仲間がいる。 アメリカに同じ人種の集まり「リトル・東京」「チャイナ・タウン」「 リトル・イタリー」などが出来たも 同じような要因でしょうか。 成程頷ける話です。 暴力と運動 運動部は暴力的能力を生かせる、認めてくれる、同類が集まっている。 指導者(教師)も彼らの気持ちを理解し、把握しているので、その思いが発揮できるのでしょうか? 運動部の教師・指導者の高圧的指導 多くの教師・指導者も高圧的指導、軍隊的指導を受けたからでしょう。 映画を見るとアメリカでも同じようです。 息子がスポーツ少年団で野球をし、手伝いに行きましたが 高圧的指導監督でした。 それが順送りされると云うものかとも思えます。 唯馴染めない人も居るので野球なども指導方法も変わってきているのかと思えます。

  • tuyosik
  • ベストアンサー率4% (130/2728)
回答No.1

不正行為を恐れる。生命を慈しむ、哀れむ、ほめる、放っておく。今ここに気づく、集中する、確信する。武器を使わない。客観的に、普遍的に。正しい言動する。いじめない、暴力ふるわない、助ける、優しく、害さない。殺生しない。愛さない、競わない、欲ばらない、与える。妄想しない。理性で、片付ける。無我、耐える、怒らない。と思います。

noname#250543
質問者

お礼

ご回答有難うございました。 》不正行為を恐れる。生命を慈しむ、哀れむ、ほめる、放っておく。今ここに気づく、集中する、確信する。武器を使わない。客観的に、普遍的に。正しい言動する。いじめない、暴力ふるわない、助ける、優しく、害さない。殺生しない。愛さない、競わない、欲ばらない、与える。妄想しない。理性で、片付ける。無我、耐える、怒らない。と思います。 私自身こう出来ませんが、諦めるのでは無く、この心を心に置いて参りたいと思います。

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  • 正しくは無いが権威主義は纏まる?

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    1980年頃の怖い教師はヤクザ社会と気質が近い? 怖い教師も必要で 適材適所であると思います。 が、1980年頃に中学生でした私はこの教師の言動に矛盾を感じるところがありました。 この教師は大学の寮や部活動で相手と喧嘩し勝ったとか締め上げたとかその様な 武勇伝を絶対と思っておりました。 そして、学校の生徒全員にその様な気質を持ち込もうとしておりました。 「気分で暴れる」同級生もいたのでその様な生徒はそれで良かったのかもしれませんが、  別に非道せず 学校の枠組みを守り、唯この教師の理不尽な言動  「気合を入れると殴る」「白でも黒と云え」と云うのが従えない人間を  「根性無し」と云い嫌っておりました。  結局この教師が顧問を務める部活動で最後まで続けたのは、  普通に云っても云う事を聞かず、怖い教師に叶わないと思い枠組みに入り、  怖い教師の理不尽さも受け容れ(「気合を入れると殴られる」等)  弱い者いじめをするが、この教師がいるので大荒れに成らずにまとまると  云う事で彼らにはそれで良かったのかもしれません。  又この教師も、非行やいじめをなくすよりも、「超えられる強い精神」を  作る事を第一に置いており、それに対応できる生徒は不良生徒で  私の様な生徒は超えられない軟弱者と云う事らしいです。    この様な社会でしかやっていけない者もいるので必要悪とも思えますが、  この教師は真面目な生徒を「偽善者」「根性無し」と嫌っていたようでした。  この辺りの事をご回答いただければと思います  

  • 日本の部活動は治外法権的な感覚なのでしょうか?

     40代後半男性です。  学生時代、私は不器用で運動神経がありませんでしたので、  その様な組織は  ついていけないと思い入りませんでした。    学生の時も生徒会やボランティア 運動会の応援団に入り、  その様な早朝の掃除や練習等に行く事はさほど嫌ではありませんで  したし、学校でも当時丸刈りなどの校則はありましたが、その様な 事はそう苦にする事はありませんでした。  数年前に大阪桜宮高校のバスケットボール部で部員が自殺  日本大学アメリカンフットボール部悪質タックルの指示、  監督からコーチへの暴力が行われていたという問題等を見て、  なれ合いでは駄目、時には「モチベーションを上げる」と云う事  も必要かとも思えますが、部活動とは治外法権的なものが  あるのでしょうか?  例えば、私の中学時代強豪部活動の顧問だった先生は  新入部員に此処は厳しい事を示す為   士気を高める為に体罰(暴力)  見学や仮入部で辞退する生徒にも中々退部を認めてくれず、  体罰(暴力)  その様な感覚でついて行ける人は良いがついていけない人も  多数生み出していたと思いますが、この世代の人達がこの様なやり 方しか知らなかったという事が弊害を生み出しているのかとも思えます。  多分、大半の教員の人も顧問や部長を割り当てられても時間外であっても、普通に立ち合い、練習して、引率してと云う位ならば出来ると思いますが、「強くさせたい」故に「厳しく」「モチベーションを上げる」「その結果が認められる」という土壌が生まれ、それに付いていけない人は「根性がない」と云うのがあるのだと思いますが、 それで大成したいという人はその様なやり方が望ましいのでしょうか?(高校の強豪校等に行くとある程度実力者でそのレベルの者が入るという形で、専属の指導者が居る、これはその通りですが、 公立の中学等で「強くしたい」「部活命」の教師がおり、たまたまその地域に居て、その中学校に入る、その教師の思いを押し付けられ、 応えられない副顧問の教師や 部員は犠牲に成ると云う事なのでしょうか?)  上記の教師 テスト1週間前の部活中止に文句を云ったり、  それで来ない部員の家に無理矢理迎えに行かせ、連れて行って  いたそうです。それが部を強くする為に自分は良くやっていると  思って居たそうです。この教師自分の親族が亡くなった時も  部を休まなかったそうです。が、この教師から見れば、この様に  出来ない人は「やる気が無い」と云う事に成るのでしょうか?  そうして、部員(全てがそうではありませんが)が苛めや暴力を  行っても、強く主力ならば加害者でも庇うという様な感覚でした。  当時から授業やクラスそして部活動とバランス良くやる教師や生徒にはこの様なやり方は引いてしまいますし、可笑しいとも思えたのですが、(現在ではこの様なやり方は見直されつつありますが) 「勝つ」「強豪」と云うのではこの様な形の部活動が主で、顧問も この様なタイプが多かったのでしょうか? 先述の顧問である教師も「部を強くしたい」それだけで居た様でした。その為には苛めも暴力よりも「超えられる精神」を要する生徒が可愛く、そうでない生徒は非道をしていなくても「嫌う」という感じでした。(偶然にも前述の生徒が部の主力メンバーだったので) 他の教師は違いますが、この教師は部活をやる為に教師に成り、 強豪にしたい、それが意義があるということでそれはそれで良いのですが、この教師の言動がどうしても此方の考えとは矛盾を起こしているとも思え、他の教員も「ついていけない」と思う人は多かったと思います。がやはり強豪にすると云うとこの教師の様なモチベーションにしないといけないという処があるのでしょうか? (実際実力もみえていて勉強する時間もないと退部した生徒にも 暴力、一切口を聞かないという態度を取ったそうです。)     

  • 権威主義は統制が取れるし、思うままに動かせる?

     どれが正しいか間違っているかとは申しませんが、  現在の米国トランプ大統領やブッシュ大統領やロシアのプーチン大統領に  見られる様に、権威主義的な生き方を好む人も多く、強さで圧倒し、統制が取れ、  纏まっていくという事なのでしょうか?  その強さ故、上に立つ人は多少横暴に振舞っても良いという事なのでしょうか?  故に教師や指導者的な立場の人も「いじめ肯定」を説く人もその様な考えなので しょうか?  例えば、戸塚ヨットスクール等はコーチ陣に従えば、新入りや立場の弱い者の  苛めを「相手を鍛える」と肯定し、「いじめをなくしてはならない」「必要」  「嫌なら強くなれ」という事ですが、この考えならそこで苛められている人は  結局いなくならないということだと思います。   だから 「苛めを無くすのではなく」「苛めを内に囲い、御上に従えば、  その中で(弱い立場の者に対する)苛めも横暴さも認めて貰える」という事なのでしょうか?(戸塚ヨットスクールも恐喝等の起こらない範囲のいじめや暴力は良いと 認められておりました)  だから、御上にとって服従する事が目的であり、その中では傍若無人に振舞っても 良い、その様な人種の者の方が好まれるという事なのでしょうか?  ご回答お願い致します。