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願望から世界を考えるのは欺瞞ではないか?
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まず、神の存在は証明されていません。 哲学者ニーチェいわく、神とは「弱い人間が作ったもの」と言っている。 近代、現代となり、神の存在に頼らなくても 人間は以前の悲惨な生活はなくなり、それなりの 生活ができるようになりました(ヨーロッパ、アメリカ、日本など)。 だから「神は死んだ」とニーチェは言っている。 では、実際に神がいると仮定して、それを人間が証明できそうなのか? 現代の科学とこれからの科学では そもそも神の存在というのは証明できないでしょう。 すでに、「真理とは人間の知覚範囲」と哲学者のカントは言っています。 物理学では不確定性原理、 物理的にも観測できない(つまりわからない)という範囲が わかってしまいました。 数学ではゲーデルの不完全性定理のもと、数学的にも 証明できないものが存在するとわかっています。 つまり、人間が証明できる範囲が理論的に物理的にもすごく狭いんです。 これでは、(全能だと思われる)神の証明なんて、 人間にはムリでしょ。 となると、そもそも「神がいるかいないか」という議論も、 証明できないから意味がない。 だから、神がいるから社会が崩壊しないとか、 神の存在を証明できないので意味がない論理と願望だと思います。 つまり、「神がいて社会秩序が保たれる」ともいえるし、 「神がいなくて社会秩序が保たれる」とも言い切れる。
貴方が聞いた、もし神が存在しないとしたら、人々の倫理感は失われ、社会が崩壊する。だから、神は存在するや、私は死ぬことが不安だったが、神の存在を信じてから、心の平和を得た。だから、神は存在する。と言っている人が現実にいるならそれは、ただのこじつけでしょう。 神の存在の絶対性を表しているわけではないから。
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○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ イエスは 神の子キリストとして 自由勝手にハリツケになったのであるが――なぜなら おまえらのためにおれが自分の命に代えてその原罪をあがなってやる ありがたく思えなどと言うわけがない―― これをいけにえにされたのだと捉えて わざわざ後からその犠牲となったイエスを聖なるものとした。 これは 理論ないし思想としては ただのルサンチマンを煽る馬鹿げたものであり その欺瞞をただしいものとして押しつけるのは 或る種の犯罪行為である。そのオシツケに屈する人びとのよわさは やはり共犯である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この命題を問います。 《第三項排除――つまり第三項として犠牲を作り出すという内容――の理論》があります。 自分たちの集まりや社会の中から 《異質〔と見なした者〕を排除する》といううごめきについてです。 今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般経済序説』(1992)です。 この理論にもとづき イエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これを提出して問いの趣旨を説明します。 § 1 まづ人には《承認欲望》があると言う 人は 存在として人びととの関係において 社会的である。 しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ 自由な関係を希求する。 しかもその自由の実現を 特に社会集団としては まちがって追い求める傾向もあると言う。 簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむといった傾向であり むろん間違った道筋であるというものです。 一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は 社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ばしいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば うれしい。そのときややもすると この承認を 自分から 追い求めて行く傾向を持つ。たとえ誰か特定の一人の人をワルモノや除け者にしてでも。・・・ § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。 この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたらくと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つまり 承認されていると思うことがたやすくなる。 そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱》という情況だけではまだ 相互の承認が完成したとは見なさない。こういう気難しい一面もあると言う。 § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したのもつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。 そこで これなら安心だという一定の判定基準を持とうとする。 この誰れにとっても見やすい共通の基準となるものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と言えば早い。 除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。 § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである。 追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称される。 このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は たしかに《除け者》として扱われる。 つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人としての互いの承認が実現するというわけだと言います。そうしてこそ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり 《秩序》を楽しむと言うそうな。 このような傾向をじんるいは 悲しいかな 残念なことに持っているのだと。 § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していたように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いています。 それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして わたしたちは獲得することができるとも言います。 また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行や ファッション》の現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんなと違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてくれるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。 非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいという欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるという行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取れる。その道はのこされている。 § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであるとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のことであるとも論じていました。 第三項は それがいわば見事な排除であった場合には 排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》すると言います。 人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を 今度は排除の成功のあとにはぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。 それによって なお人びとは 安心するというその仕組みなのだと。 つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは一転して崇めるようになるのだと。 したがってつまり今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として みなであがめる。 このことを通して あらためて集団ないし社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。これで人びとは安心するということらしい。 たとえば菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかもワケもなく左遷されたらしく その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるという扱いに変わったという。そんなカラクリであるらしい。 § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まちがいであると考えられるのに かなり有力なかたちでその歴史が続く。 なぜならそこでは 死後にひるがえって評価を《聖なる者》と見なすようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら今度は あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがはたらくということらしい。 前からもうしろからも オモテからもウラからも 《第三項排除》の歴史は 完璧を期してつづけられる。 反動のチカラは 出る杭を打つとなって現われる。つまりその――今度は 聖化されたイエスを悪く言うかたちで――新たに現われた異端分子を やはり第三項と見なしてその排除にかかる。 異端分子が 人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり ひとつの勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間に合わなくなれば 明らかに迫害や戦争にまでも発展させる。 ときに社会はこぞって容易に その戦争に飛びつくことがありうる。そのよわさは 共犯を構成する。 § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか? ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会 これも じつは そのまま間違いである。 その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作ろうとしている。ただちに排除しようとして 異端分子の起きることを待ち構えている。 だから他方で《ひとと違っていたい》という欲望においては 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれは――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。 内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大なる聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこまでも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のなせるわざである。世に言う《宗教》なるものの為す何たる自己欺瞞 ! § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。 模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどころではない。承認されたいという欲望は かなり強いらしく 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかにさえ見える。 ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか? 話し合いによるしか道はないのではないか? 仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あくまで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主役である。あてにならないおのおのの主観が それでも 主役である。 ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があるときには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほど話し合う。 まづは ローマ教会の欺瞞について始めるのが 有効で有益ではないだろうか。
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