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ローマ教会の欺瞞

 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  イエスは 神の子キリストとして 自由勝手にハリツケになったのであるが――なぜなら おまえらのためにおれが自分の命に代えてその原罪をあがなってやる ありがたく思えなどと言うわけがない―― これをいけにえにされたのだと捉えて わざわざ後からその犠牲となったイエスを聖なるものとした。  これは 理論ないし思想としては ただのルサンチマンを煽る馬鹿げたものであり その欺瞞をただしいものとして押しつけるのは 或る種の犯罪行為である。そのオシツケに屈する人びとのよわさは やはり共犯である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この命題を問います。  《第三項排除――つまり第三項として犠牲を作り出すという内容――の理論》があります。  自分たちの集まりや社会の中から 《異質〔と見なした​者〕を排除する》といううごめきについてです。  今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般​経済序説』(1992)です。    この理論にもとづき イエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これを提出して問いの趣旨を説明します。    § 1 まづ人には《承認欲望》があると言う  人は 存在として人びととの関係において 社会​的である。  しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ ​自由な関係を希求する。  しかもその自由の実現を 特に社​会集団としては まちがって追い求める傾向もあると言う。  簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除​け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむ​といった傾向であり むろん間違った道筋であるというも​のです。  一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は ​社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ば​しいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば う​れしい。そのときややもすると この承認を 自分から ​追い求めて行く傾向を持つ。たとえ誰か特定の一人の人をワルモノや除け​者にしてでも。・・・  § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。  この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたら​くと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を​持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つま​り 承認されていると思うことがたやすくなる。  そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段​階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱​》という情況だけではまだ 相互の承認が完成したとは見​なさない。こういう気難しい一面もあると言う。  § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したの​もつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。  そこで これなら安心だという一定の判定基準を持​とうとする。  この誰れにとっても見やすい共通の基準とな​るものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と​言えば早い。  除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。  § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである​。  追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称​される。  このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他​の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は た​しかに《除け者》として扱われる。  つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人​としての互いの承認が実現するというわけだと言います。そうしてこそ​ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり 《秩​序》を楽しむと言うそうな。  このような傾向をじんるいは 悲しいかな 残念なことに持​っているのだと。  § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していた​ように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いて​います。  それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして​ わたしたちは獲得することができるとも言います。  また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行や ファッション》​の現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんな​と違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてく​れるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。  非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいとい​う欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるとい​う行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取​れる。その道はのこされている。  § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであ​るとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のこと​であるとも論じていました。  第三項は それがいわば見事な排除であった場合には ​排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》す​ると言います。  人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を​ 今度は排除の成功のあとにはぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。  それに​よって なお人びとは 安心するというその仕組みなのだと​。  つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは一転して崇めるようになるのだと。  したがってつまり今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として み​なであがめる。  このことを通して あらためて集団ないし​社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。これで人びとは安心するということらしい。  たとえば菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかもワケもなく左遷されたらしく  その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるという扱いに変わったという。そんなカラクリであるらしい。    § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《​聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まち​がいであると考えられるのに かなり有力なかたちでその歴史が続く。  なぜならそこでは 死後にひるがえって評価を《聖なる者》と見なすようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら今度は​ あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがは​たらくということらしい。  前からもうしろからも オモテからもウラからも 《第三項排除》の歴史は 完璧を期してつづけられる。  反動のチカラは 出る​杭を打つとなって現われる。つまりその――今度は 聖化されたイエスを悪く言うかたちで――新たに現われた異端分子を やはり第三項​と見なしてその排除にかかる。  異端分子が 人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり ひとつの勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間​に合わなくなれば 明らかに迫害や戦争にまでも発展させる。  ​ときに社会はこぞって容易に その戦争に飛びつくことがありうる。そのよわさは 共犯を構成する。  § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか?  ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会​ これも じつは そのまま間違いである。  その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作ろうとしている。ただちに排除しようとして 異端分子の起きることを待ち構えている。  だから他方で《ひとと違っていたい》という欲望においては 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれ​は――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には​迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。  内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大な​る聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこま​でも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のな​せるわざである。世に言う《宗教》なるものの為す何たる自己欺瞞 !  § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。  模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどこ​ろではない。承認されたいという欲望は かなり強いらしく 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかにさえ見える。  ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか​?  話し合いによるしか道はないのではないか?  仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あく​まで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主​役である。あてにならないおのおのの主観が それでも 主役である。  ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。​いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があると​きには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様​子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う​。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほ​ど話し合う。  まづは ローマ教会の欺瞞について始めるのが 有効で有益ではないだろうか。

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回答No.1

こんにちは。 第三項という用語は難しいです。 なので、 第三項→黒い羊(black sheep)→やっかい者、つらよごし、やくざ者 と置き換えた方がわかりやすいようです。 羊は生贄にも使われますので。 ですが、 黒い羊(black sheep)は「頭痛のタネ」くらいの意味にとった方がさらにわかりやすいのかもしれません。 イエスは、当時のユダヤ人指導層にとって、やっかい者、《頭痛のタネ・黒い羊》であったから、排除の論理にしたがって、生贄にされた。 この《頭痛のタネ》であったイエスが尊敬されるようになった。 しかし、このイエスの存在自体が、なんとも理不尽で、再び《頭痛のタネ》となった。 「そうだ、イエスを俺らとは毛色の異なる《黒い羊》にしちまえばいいんだ。これですべてが丸くおさまる!!」 ベクトルの向きは違うけれど、このイエスなる不条理極まりない《頭痛のタネ・黒い羊》をのけ者にした、神棚に祭った。 ───「神棚に祭る」はいい言葉だなぁ~。神棚に祭り上げられたものについては、その正体を問うてはいけない。祭り上げられるものがたとえ亀の甲羅であろうが、イワシの頭であろうが、ひたすら拝まれる対象と化す。その正体は永遠に「???」─── イエス、二度目の受難!! イエス、二度目の生贄体験!! イエス、二度目の十字架刑!! この二度目の十字架によって、イエスは、本当に死んじまったのかもしれない・・・。 ローマ・カトリックは、二度目の十字架で死んじまったイエスのナキガラを墓から引っ張り出し、三度目の十字架にかけたのかもしれませんね~。 そして、人は、これまでに何度も何度も《頭痛のタネ・黒い羊》のイエスを生贄にし、その都度、十字架にかけつづけてきたのかもしれませんね~。 《観念の神》としてのイエスを、殺しては、また、新たに復活させ、新しい《観念の神》としてのイエスを作りあげて、ふたたび、神棚に祭り続けてきたのかもしれませんね。

bragelonne
質問者

お礼

 ぢゃあ 自己欺瞞でいいですね。  ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ◇ ───「神棚に祭る」はいい言葉だなぁ~。神棚に祭り上げられたものについては、その正体を問うてはいけない。祭り上げられるものがたとえ亀の甲羅であろうが、イワシの頭であろうが、ひたすら拝まれる対象と化す。その正体は永遠に「???」───  ☆ ぶらじゅろんぬ語としては アマテラスの抽象名詞化としての アマテラシテ( amatérasité; amaterasity; Amaterasität )の生成ですかね。または アマテラシゼイション。ブッダターならぬアマテラシターの誕生。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  第三項という用語は難しいです。  なので、  第三項→黒い羊(black sheep)→やっかい者、つらよごし、やくざ者  と置き換えた方がわかりやすいようです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん 元の用語としての《第三項》も 特には周縁へと追いやられたノケモノとしての意味で・またそのマージナル・マンが 人びとの共通の合言葉としてコミュニケーションにおいて或る種の《貨幣》の役割りを演じるという意味で 捨て去ることなく残しておくとよいと思いました。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・二度目の十字架によって、イエスは、本当に死んじまったのかもしれない・・・。  ローマ・カトリックは、二度目の十字架で死んじまったイエスのナキガラを墓から引っ張り出し、三度目の十字架にかけたのかもしれませんね~。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ キリストの地上における代理者(それは 単なる自称ですが)のほうが 本人よりもでっかい顔をして 人びとの《救い主》になりすましているといった事態や情況のことを言っているのでしょうか?  いまひとつ 具体的にはわかりにくかったです。  ◇ 《観念の神》としてのイエスを、殺しては、また、新たに復活させ、新しい《観念の神》としてのイエスを作りあげて、ふたたび、神棚に祭り続けてきたのかもしれませんね。  ☆ そう言えば 神は死んだと言われてからも また起き上がって来た感がありますね。ゾンビみたいに。

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noname#195588
noname#195588
回答No.8

わからないなあ。 わからないことはわかった。 ~~~~~~~~~~~~~~~ パーリの古い偈文のみに出て来る -a 語基男性複数主格語尾 -āse も、ヴェーダ語の -āsas = -āsoがマガダ語化したものと見られる。 『パーリ語文法』第10版  水野弘元 山喜房佛書林 26ページ ~~~~~~~~~~~~~~~ これが問題なんですよね。 念のため、手元にパーリ語文法がある人は確認してもらいたいです。 マガダ語については批判もありましたが 確かにスッタニパータでāseが使用されていても、新しいだろうという箇所もあります。 古い言葉を使っているからといって、使用者が古いわけではない ただ、持っている方は、岩波文庫のスッタニパータの詩句803の中村元の註を確認して欲しいのですが (私が持っているのワイド版) ~~~~~~~~~~~~~~~ [ちなみに、ここでpaṭicchitāseというのは、『リグ・ヴェーダ』の語法が残っているのであり、この詩句が非常に古いことを示している。 pi(=Skrt. api)は、「すべてひっくるめて、いずれも」の意味である]。 ~~~~~~~~~~~~~~~ 中村元によれば、803の詩句は非常に古い。 しかし、古いからといって、それがブッダのことばとは限らない。 それにここまでやってもブッダのことばがわからないのなら もはやそれはスッタニパータにはブッダのことばがあるはずだと信じている という信仰の話になってくるのではないでしょうか。 いくら思想史をやっても言語学的な観点もないと、決め手に欠けるなら 確かなことはいえないこともわかった。 思考停止して、坐禅でもして議論を放棄するか わからないことを認めて、浄土門に帰依でもするか 好きにすればいいと思います。 以前いただいた回答に ~~~~~~~~~~~~~~~~ 経典の中においては、長部、中部、相応部経典に共通する文章に n’atthi atta-kāre n’atthi para-kāre n’atthi purisa-kāre 自作なく、他作なく、人作なく とあって、「keāre」の部分は本来のパーリ語の活用変換だと「kāro」にならないとおかしいですし、また同経には、 sukhe dukkhe jīva-sattame 苦と楽と第七の命と とあり、ここも「sukhe」はパーリ語の活用変換だと「sukhaḿ」、「dukkhe」は「dukkhaḿ」、「jīva-sattame」は 「jīva-sattamo」となっていなければおかしいのですが、これらはマガダ語的変換のままになっています。 http://okwave.jp/qa/q8185342.html ~~~~~~~~~~~~~~~ というのがあり、共通箇所を探してみようかと思ったのですが http://suttacentral.net/dn/ 探し方がイマイチなのか、正直わからなかったので 諦めました。 案外、そっちにあるのかもしれないけど 結局マガダ語はなんなの?という話になってそれがはっきりしないからなんともいえません。 言語学の発展に期待します。以上。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  古い語形を使っているから 古い時代の人が使ったものだとは一概に言えない。つまり  ★ しかし、古いからといって、それがブッダのことばとは限らない。  ☆ ということではあるのでしょうね。  研究成果としては よほどしっかりとした反論がなければ それはそれとして信頼してもよいとは思うのですが。  つまりパーリ語において マガダ語のものと見られる語形変化として -a 語基の名詞に複数形・主格語尾を -ā ではなく -āse につくるものがある。つまり 後者の -āse がその古形であると考えられるのだと。  たとえば  ▲ ( buddha (m.):ブッダ) ~~~~~    sg.nom.: buddho    pl.nom.: buddā / buddāse  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  これについての解説として 次のような研究成果があるのだと。   ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~  パーリの古い偈文のみに出て来る -a 語基男性複数主格語尾 -āse も、ヴェーダ語の -āsas = -āsoがマガダ語化したものと見られる。  (『パーリ語文法』第10版  水野弘元 山喜房佛書林 26ページ  ▽ ~~~~~~~~~~~~~~~  ・岩波文庫のスッタニパータの詩句803の中村元の註(私が持っているのワイド版)  ちなみに、ここで paṭicchitāse というのは、『リグ・ヴェーダ』の語法が残っているのであり、この詩句が非常に古いことを示している。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ほかにも 事例・語例が挙がって来てはいますね。  参照の質疑応答のなかから 次の事例も載せておきましょうか。  ◆ (マガダ語) ~~~~~~~~~~~~~~~   http://okwave.jp/qa/q8185342.html  さらに言えば、パーリ語の経典の中において、お釈迦様が弟子たちを呼ぶときパーリ語では「bhikkhavo(比丘達よ)」とパーリ語の活用で呼びかけているのですが、よく見るとちょいちょい「bhikkhave」というマガダ語系の活用で呼んでいるところもあります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 話し言葉そのものなので じっさいに話した語形が残っているかとも思われます。  さらに進展が得られるとよいのですが。

noname#195588
noname#195588
回答No.7

ウィキペディアのスッタニパータの項目を読みました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 成立[編集] 最初期に編纂された最古の仏典のひとつとされ、対応する漢訳は一部を除いて存在しない。(第4章『八つの詩句』/支謙訳:仏説義足経)現代では日本語訳として『南伝大蔵経』の中におさめられている。ただし、『スッタニパータ』の中にも、新旧の編纂のあとが見られ、パーリ語の文法に対応しない東部マガダ語とみられる用語が含まれていることから仏典の中でも最古層に位置づけられている。 また『スッタニパータ』の注釈書として『ニッデーサ』(義釈)が伝えられている。『スッタニパータ』の第4章と第5章のそれぞれに大義釈と小義釈が存在することから、この部分がもっとも古く、元は独立した経典だったと考えられている。 『ニッデーサ』は文献学的に『スッタニパータ』と同時代に成立したと考えられている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF ~~~~~~~~~~~~~~~~~ それからニッデーサで検索したときに見つけたこちらのサイト http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/buddha-mate.htm ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ニッデーサに注解されている詩句とされていない詩句があって されていれば古いだろうという前提があったので 前回の回答で、モーガラージャを調べてみたのでした。 しかし、ここでまたふと思いついて じゃあ、ニッデーサをāseで検索したらどうなるのか? それで 組み合わせというわけではないのですが āseでニッデーサを検索してみました。 いくつかありましたので、ここではそのうちの一つから。 [BJT Page 156] [\x 156/] Na kappayanti na purekkharonti Dhammāpi tesaṃ na paṭicchitāse, Na brāhmaṇo sīlavatena neyyo Pāraṃ gato na pacceti tādī. http://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sltp/Nidd_I_utf8.html Na kappayanti na purekkharonti, Dhammāpi tesaṃ na paṭicchitāse; Na brāhmaṇo sīlavatena neyyo, Pāraṅgato na pacceti tādīti. 803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ もしもāseが古いなら、何の問題も無かったのですが、 どうもそうではない、古くないみたいだ というのは今までやってきましたので、 困ったことになりました。 ニッデーサには古くない詩句も注解されていることになります。 これでは、ニッデーサでスッタニパータ第四章と第五章が古いはずだという前提すら なくなってしまうのではないでしょうか? どう思いますか? 私の疑問。 スッタニパータは本当に古いのか? ちなみに以前話題にした法華経の箇所ですが漢文は SAT大正新脩大藏經テキストデータベース2012版 (SAT 2012) のリンクがうまく張れないので 法華部から妙法蓮華經:0262 (鳩摩羅什譯)を選択して探してみてください。 http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-bdk-sat2.php サンスクリットのほうだと ニルヴリタとニルヴァーナの使い分けが気になります。 vimucya tā dṛṣṭikṛtāni sarvaśaḥ śūnyāṁśca dharmānahu sparśayitvā| tato vijānāmyahu nirvṛto'smi na cāpi nirvāṇamidaṁ pravucyati||12|| http://www.dsbcproject.org/node/4257 ~~~~~~~~~~~~~~ nirvṛto'smi nirvāṇamidaṁ これです。 それにしても難しい話ですね。

bragelonne
質問者

お礼

 かざみどり365さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  まとめということで ここにもご自身の質問ですがそのリンクを張っておきます。  ○ 【Q:「nibbuta」と「nibbāna」の違いとは?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8123179.html  ○ 【Q:ニルヴァーナを否定する思想】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7792422.html  スッタニパータとニッデーサとを 或る程度まとまった量において読み解く。その上で――言語からの研究をも合わせて―― どういうことが言えるか。これをしらべて行かなければならないかと思います。  専門の人たちに いまは任せると言いますか まづはこれまでに得られた視野をもって あらたに見渡してすすめることになりましょうか。  よくは分からないですが。  ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  803 (あ) かれらは、妄想分別をなすことなく、   (いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。  (い) かれらは、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。  (う) バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。  (え) このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (う)は おもしろいと思いました。実存思想ですね。  しかも (え)では ええっ? とうたがうほど やはり面白いことを言っていると思います。  いわゆる無住処涅槃のボディサトワの実存から言えば――この娑婆世界に戻って来て シガラミの中で生きることをその立ち場とするのですから―― 《もはや還って来ない》というのは マチガイである。しかも それが必ずしもそうではないと思われるには その《もはや還って来ない》という中核をもって現実世界に帰って来て実践するということもあり得る。かも知れない。と思ったからです。  つまり 無住処涅槃の立ち場と同じでありうると。

  • kurinal
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回答No.6

>「互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。​いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があると​きには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様​子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う​。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほ​ど話し合う」 B様、こんばんは。 日本はB様を生んで、B様あっての日本だったでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん。言い過ぎですよ。  こんばんは。ご回答をありがとうございます。  No.5のかざみどりさんのように 話し合いに疲れた人のお話もあるようですし。  それにわたしは いつも瞬間湯沸かし器で けんか腰ですし。  くりなるさんは みなさんに対して公平に接しておられる。

noname#195588
noname#195588
回答No.5

話しあいとはいっても もう仏教について語ることないなあ。 ネタが無いなあ。と思ってすっかり気楽に日々を過ごしていました。 そんな中 もしかしてニッデーサをモーガラージャで検索してみたらなにか分かるかも。 と思いついて、検索してみましたよ。 そしたらありました。おめでとう。 たぶん、古い? でも、ニッデーサは意味わかりません。 正直、これ以上探求する気力が私にはありません。 興味ある方はがんばってください。 Buddhism Downloads Niddesa 2のpdf186ページ 右上の番号437 https://mywebspace.wisc.edu/jrblack/web/BU/DL/niddesa.html Vuttampi hetaṃ bhagavatā: 1. "Suññato [PTS Page 438] [\q 438/] lokaṃ avekkhassu Mogharāja sadā sato, Attānudiṭṭhiṃ ūhacca Evaṃ maccutaro siyā. Evaṃ lokaṃ avekkhantaṃ Maccurājā na passatī"ti[a] Nidd I_utf8 http://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sltp/Nidd_I_utf8.html XV. ATTADAṆḌA SUTTA http://pathpress.files.wordpress.com/2012/06/ppts1-atthakavagga2.pdf 小部経典 翻訳目次 http://tipitaka.cocolog-nifty.com/ Suttanipata (Pali Text) https://mywebspace.wisc.edu/jrblack/web/BU/DL/suttanipata.html http://suttacentral.net/ 疑問1 なんでモーガラージャ経の空の詩句の前に アッタカヴァッガの15、武器を執ることの詩句があるのか。 XV. ATTADAṆḌA SUTTA 17. yassa natthi idaṁ meti paresaṁ vāpi kiñcanaṁ mamattaṁ so asaṁvindaṁ natthi meti na socati 951 「これはわがものである」また「これは他人のものである」というような思いが何も存在しない人、──かれは(このような)<わがものという観念>が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。 疑問2 結局、何が書いてあるのか。 めんどう。 だれか教えてくれる人いないかなあ。 そんなわけで、話し合いに疲れた人の話でした。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  よく分からないので まづは 原文をかかげます。  ▼ (スッタニパータ 1119 とその注解:ニッデーサ) ~~~~~~~  § スッタニパータ 1119  Vuttampi hetaṃ bhagavatā:  1. "Suññato [PTS Page 438] [\q 438/] lokaṃ avekkhassu  Mogharāja sadā sato,  Attānudiṭṭhiṃ ūhacca  Evaṃ maccutaro siyā.  Evaṃ lokaṃ avekkhantaṃ  Maccurājā na passatī"ti[a]  § ニッデーサの注解  Evampi - yassa natthi idaṃ meti paresaṃ vāpi kiñcanaṃ.  Vuttampi hetaṃ bhagavatā: "yaṃ bhikkhave na tumhākaṃ, taṃ pajahatha. Taṃ vo pahīnaṃ dīgharattaṃ hitāya sukhāya bhavissati1 kiñca bhikkhave na tumhākaṃ? Rūpaṃ bhikkhave na tumhākaṃ, taṃ pajahatha, taṃ vo pahīnaṃ dīgharattaṃ hitāya sukhāya bhavissati.  Vedanā - saññā - saṅkhārā - viññāṇaṃ na tumhākaṃ, taṃ pajahatha, taṃ vo pahīnaṃ dīgharattaṃ hitāya sukhāya bhavissati. Taṃ kiṃ maññatha bhikkhave yaṃ imasmiṃ jetavane tiṇakaṭṭhasākhāpalāsaṃ taṃ jano hareyya vā, daheyya vā, yathā paccayaṃ vā kareyya; api nu tumhākaṃ evamassa: ' amhe jano harati vā, dahati vā, yathā paccayaṃ vā karotī'ti?  No hetaṃ bhante. Taṃ kissa hetu? Na hi no etaṃ bhante attā vā attaniyaṃ vā'ti. Evameva kho bhikkhave yaṃ na tumhākaṃ, taṃ pajahatha. Taṃ vo pahīnaṃ dīgharattaṃ hitāya sukhāya bhavissati1.  Kiñca bhikkhave na tumhākaṃ? Rūpaṃ bhikkhave na tumhākaṃ, taṃ pajahatha; taṃ vo pahīnaṃ dīgharattaṃ hitāya sukhāya bhavissati. Vedanā saññā - saṅkhārā - viññāṇaṃ na tumhākaṃ, taṃ pajahatha; taṃ vo pahīnaṃ dīgharattaṃ hitāya sukhāya bhavissatī"ti[b] evampi - yassa natthi idaṃ meti paresaṃ vāpi kiñcanaṃ.  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 0fool0
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回答No.4

貴方は誰の音頭で踊る?

bragelonne
質問者

お礼

 もしいれば 愛する人か子どもの音頭で踊る。  0ふーる0さん ご回答をありがとうございました。

回答No.3

こんばんは。 第三項という言葉をはじめて目にしましたので、ちょっとネットで検索をかけまして、  第三項排除、スケープゴート http://www.geocities.jp/toku2501/scapegoat.html を見つけました。 そこで、 「警察右翼の言論活動の植民地体制の維持のために、第三項の《黒い羊》が見世物化され絶対的に排除される」 という文章がありまして、 《黒い羊・black sheep》というコトバを用いました。 こちらの方が理解しやすいので。 ほら、わたし、理系人だから、 《第三項》という言葉を目にすると、 本能的に関数の三番目の独立変数をイメージしてしまうんですよ。 たとえば、  t = f(x,y,z) の三番目の変数である《z》が《第三項》であるように考えてしまう。 も~、これ、思考のクセなんで・・・。 ───数学で言う《三項関係》でもいいんですけれど、数学でいう関係は関数みたいなものですから(ポリポリ)。─── そして、 《第三項の排除》という言葉を目にすると、  zはxとyの関数φでz=φ(x,y)と表現できるの意味??? となってしまうですよ。 脳ミソがあらぬ方向に暴走をはじめてしまう(笑い)。 そして、「生贄と全然、関係がないだろう」となってしまう。 ☆ ・・・二度目の十字架によって、イエスは、本当に死んじまったのかもしれない・・・。 ◇例によって、思いつきです。 特に誰か特定の人をイメージして書いたのではないですけれども、 「二度目の十字架」と書いた時、 《パウロ》の名が浮かびました。 「《十字架の神学》を作るときに、《パウロ》はイエスを磔にしたのかもしれないな~」と漠然と考えました。 イエスという存在を人々から遠ざけてしまったのかもしれない。人間と縁遠い存在にしてしまったのかもしれない・・・ なんて、すこし思ったりもしました。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ▲ 引用改造  ☆ さんの中で 《黒い羊》が現われた・持たれたということですね。  今村は たぶん黒い羊とは書いていなかった。(いや これは自信がありませんが)。  ○ 第三項  ☆ というのは われの第一となれの第二のあとの かれのことを指しています。そして いまの場合は 当事者の二者が 仲間となってその輪を閉じようとしているからには 第三者のかれは よそ者ということになります。  というより よそ者扱いをする。つまり 除け者とする。――でしょうか。  そんな数学にかかわっていたとは 困りましたね。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  「二度目の十字架」と書いた時、  《パウロ》の名が浮かびました。  「《十字架の神学》を作るときに、《パウロ》はイエスを磔にしたのかもしれないな~」と漠然と考えました。  イエスという存在を人々から遠ざけてしまったのかもしれない。人間と縁遠い存在にしてしまったのかもしれない・・・  なんて、すこし思ったりもしました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これには 真っ向から反論します。  パウロが《イエス・キリストを ふたたびハリツケにしたかに見えたり 聖化し人間とは縁遠い存在にしてしまったかに見えたりする》のは キリストをイエスと分けて捉えなければ理解できないと考えます。  つまりは 何のことはなく キリストは初めから神の子でありみづからも神であるのですから イエスなる人間の中で同時にハリツケになったのですし もともと《人間とは縁遠い存在 つまり 非経験の場なるむしろ非存在》であった。そのことを パウロは描いているに過ぎません。二番煎じでも何でもなく もともとそういうものです。そのように説明してしかるべきキリストです。

回答No.2

《黒い羊》という言葉は、キリスト教由来の言葉ですよね。 《黒い羊》と《白い羊》という言葉、 聖書に出ているんですか? ちょっとした疑問です。 ちょっとねっとで調べてみたら、 放蕩息子のたとえがどうたらこうたら、 創世記のカインとアベルがどうたらという話は見つけたんですけれども・・・。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてご回答をありがとうございます。  いやぁ よくは知りません。  羊と山羊との区別は ありますね。はっきりと。  ちょっと調べただけでは 出ませんね。検索。

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  • ローマ教会の低俗性

     組織宗教への批難をつづけます。  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  イエスは 神の子キリストとして 自由勝手にハリツケになったのであるが――なぜなら おまえらのためにおれが自分の命に代えてその原罪をあがなってやる ありがたく思えなどと言うわけがない―― これをいけにえにされたのだと捉えて わざわざ後からその犠牲となったイエスを聖なるものとした。  これは 理論ないし思想としては ただのルサンチマンを煽る馬鹿げたものであり その欺瞞をただしいものとして押しつけるのは 或る種の犯罪行為である。そのオシツケに屈する人びとのよわさは やはり共犯である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この命題を問います。  《第三項排除――つまり第三項として犠牲を作り出すという内容――の理論》があります。  自分たちの集まりや社会の中から 《異質〔と見なした​者〕を排除する》といううごめきについてです。  今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般​経済序説』(1992)です。    この理論にもとづき イエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これを提出して問いの趣旨を説明します。    § 1 まづ人には《承認欲望》があると言う  人は 存在として人びととの関係において 社会​的である。  しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ ​自由な関係を希求する。  しかもその自由の実現を 特に社​会集団としては まちがって追い求める傾向もあると言う。  簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除​け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむ​といった傾向であり むろんこれは 間違った道筋であるというも​のです。  一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は ​社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ば​しいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば う​れしい。そのときややもすると この承認を 自分から ​追い求めて行く傾向を持つ。たとえ誰か特定の一人の人をワルモノや除け​者にしてでも。・・・  § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。  この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたら​くと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を​持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つま​り 承認されていると思うことがたやすくなる。  そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段​階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱​》という情況だけではまだ 相互の承認が完成したとは見​なさない。こういう気難しい一面もあると言う。  § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したの​もつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。  そこで これなら安心だという一定の判定基準を持​とうとする。  この誰れにとっても見やすい共通の基準とな​るものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と​言えば早い。  除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。  § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである​。  追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称​される。  このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他​の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は た​しかに《除け者》として扱われる。  つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人​としての互いの承認が実現するというわけだと言います。そうしてこそ​ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり 《秩​序》を楽しむと言うのだそうな。  このような傾向をじんるいは 悲しいかな 残念なことに持​っているのだと。  § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していた​ように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いて​います。  それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして​ わたしたちは獲得することができるとも言います。  また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行や ファッション》​の現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんな​と違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてく​れるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。  非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいとい​う欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるとい​う行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取​れる。その道はのこされている。  § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであ​るとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のこと​であるとも論じていました。  第三項は それがいわば見事な排除であった場合には ​排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》す​ると言います。  人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を​ 今度は排除の成功のあとにはぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。  それに​よって なお人びとは 安心するというその仕組みなのだと​。  つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは一転して崇めるようになるのだと。  したがってつまり今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として み​なであがめる。  このことを通して あらためて集団ないし​社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。これで人びとは安心するということらしい。  たとえば菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかもワケもなく左遷されたらしく  その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるという扱いに変わったという。そんなカラクリであるらしい。    § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《​聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まち​がいであると考えられるのに かなり有力なかたちでその歴史が続く。  なぜならそこでは 死後にひるがえって評価を《聖なる者》と見なすようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら今度は​ あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがは​たらくということらしい。  前からもうしろからも オモテからもウラからも 《第三項排除》の歴史は 完璧を期してつづけられる。  反動のチカラは 出る​杭を打つとなって現われる。つまりその――今度は 聖化されたイエスを悪く言うかたちで――新たに現われた異端分子を やはり第三項​と見なしてその排除にかかる。  異端分子が 人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり ひとつの勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間​に合わなくなれば 明らかに迫害や戦争にまでも発展させる。  ​ときに社会はこぞって容易に その戦争に飛びつくことがありうる。そのよわさは 共犯を構成する。  § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか?  ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会​ これも じつは そのまま間違いである。  その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作ろうとしている。ただちに排除しようとして 異端分子の起きることを待ち構えている。  だから他方で《ひとと違っていたい》という欲望においては 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれ​は――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には​迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。  内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大な​る聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこま​でも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のな​せるわざである。世に言う《宗教》なるものの為す何たる自己欺瞞 !  § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。  模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどこ​ろではない。承認されたいという欲望は かなり強いらしく 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかにさえ見える。  ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか​?  話し合いによるしか道はないのではないか?  仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あく​まで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主​役である。あてにならないおのおのの主観が それでも 主役である。  ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。​いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があると​きには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様​子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う​。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほ​ど話し合う。  まづは ローマ教会の欺瞞について始めるのが 有効で有益ではないだろうか。

  • ローマ教会の欺瞞は 信者の共犯。人類の連帯責任。

     組織宗教への批難です。  (α) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  イエスは 神の子キリストとして 自由勝手にハリツケになったのであるが――なぜなら おまえらのためにおれが自分の命に代えてその原罪をあがなってやる ありがたく思えなどと言うわけがない―― これをいけにえにされたのだと捉えて わざわざ後からその犠牲となったイエスを聖なるものとした。  これは 理論ないし思想としては ただのルサンチマンを煽る馬鹿げたものであり その欺瞞をただしいものとして押しつけるのは 或る種の犯罪行為である。そのオシツケに屈する人びとのよわさは やはり共犯である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この命題を問います。  《第三項排除――つまり第三項として犠牲を作り出すという内容――の理論》があります。  自分たちの集まりや社会の中から 《異質〔と見なした​者〕を排除する》といううごめきについてです。  今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般​経済序説』(1992)です。    この理論にもとづき イエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これを提出して問いの趣旨を説明します。    § 1 まづ人には《承認欲望》があると言う  人は 存在として人びととの関係において 社会​的である。  しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ ​自由な関係を希求する。  しかもその自由の実現を 特に社​会集団としては まちがって追い求める傾向もあると言う。  簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除​け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむ​といった傾向であり むろんこれは 間違った道筋であるというも​のです。  一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は ​社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ば​しいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば う​れしい。そのときややもすると この承認を 自分から ​追い求めて行く傾向を持つ。たとえ誰か特定の一人の人をそうではないにもかかわらずワルモノや除け​者にしてでも。・・・  § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。  この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたら​くと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を​持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つま​り 承認されていると思うことがたやすくなる。  そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段​階でも その一様性・画一性つまりは《全員による同じ歌の大合唱​》という情況だけではまだ 相互の承認が完成したとは見​なさない。こういう気難しい一面もあると言う。  § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したの​もつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。  そこで これなら安心だという一定の判定基準を持​とうとする。  この誰れにとっても見やすい共通の基準とな​るものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と​言えば早い。  除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。  § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである​。  追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称​される。  このときその社会は 《一》対《他​の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は た​しかに《除け者》として扱われる。  つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人​としての互いの承認が実現するというわけだと言います。そうしてこそ​ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり 《秩​序》を楽しむと言うのだそうな。  このような傾向をじんるいは 悲しいかな 持​っているのだと。  § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していた​ように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いて​います。  それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして​ わたしたちは獲得することができるとも言います。  また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行や ファッション》​の現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんな​と違いたい願望》が じつは同時に はたらくのではないかと。  反模倣つまり みんなと違っていたいとい​う欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるとい​う行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取​れる。その道はのこされている。  § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであ​るとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のこと​であるとも論じていました。  第三項は それがいわば見事な排除であった場合には ​排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》す​ると言います。  人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を​ 今度は排除の成功のあとにはぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。  それに​よって なお人びとは 安心するというその仕組みなのだと​。  つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは一転して崇めるようになるのだと。  したがってつまり今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として み​なであがめる。  このことを通して あらためて集団ないし​社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。これで人びとは安心するということらしい。  たとえば菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかもワケもなく左遷されたらしく  その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるという扱いに変わったという。そんなカラクリであるらしい。    § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《​聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まち​がいであると考えられるのに かなり有力なかたちでその歴史が続く。つまり シュウキョウの問題である。  なぜならそこでは 死後にひるがえって評価を《聖なる者》と見なすようになったあとでは この《聖化》――つまりは 聖俗の二項対立をつくりこれを煽るそういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら今度は​ あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがは​たらくということらしい。聖なるキリストを冒涜するとは! というこびりついた聖性の観念による条件反射。  前からもうしろからも オモテからもウラからも 《第三項排除》の歴史は 完璧を期してつづけられる。  反動のチカラは 出る​杭を打つとなって現われる。つまりその――今度は 聖化されたイエスを悪く言うかたちで――新たに現われた異端分子を やはり第三項​と見なしてその排除にかかる。  異端分子が 人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり ひとつの勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間​に合わなくなれば 明らかに迫害や戦争にまでも発展させる。  ​ときに社会はこぞって容易に その戦争に飛びつくことがありうる。そのよわさは 広く共犯をも構成する。  § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか?  ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会​ これも じつは そのまま間違いである。  その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作ろうとしている。ただちに排除しようとして 異端分子の起きることを待ち構えている。  だから他方で《ひとと違っていたい》という欲望においては 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれ​は――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には​迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。  内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大な​る聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこま​でも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のな​せるわざである。世に言う《宗教》なるものの為す自己欺瞞の最たるもの !  § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。  模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどこ​ろではない。承認されたいという欲望は かなり強いらしく 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかにさえ見える。  ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか​?  話し合いによるしか道はないのではないか?  仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あく​まで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主​役である。あてにならないおのおのの主観が それでも 主役である。  ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。​いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があると​きには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様​子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う​。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほ​ど話し合う。  まづは ローマ教会の欺瞞について始めるのが 有効で有益ではないだろうか。

  • ローマ教会の欺瞞は 信者の共犯。人類の連帯責任。

     組織宗教への批難です。  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  イエスは 神の子キリストとして 自由勝手にハリツケになったのであるが――なぜなら おまえらのためにおれが自分の命に代えてその原罪をあがなってやる ありがたく思えなどと言うわけがない―― これをいけにえにされたのだと捉えて わざわざ後からその犠牲となったイエスを聖なるものとした。  これは 理論ないし思想としては ただのルサンチマンを煽る馬鹿げたものであり その欺瞞をただしいものとして押しつけるのは 或る種の犯罪行為である。そのオシツケに屈する人びとのよわさは やはり共犯である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この命題を問います。  《第三項排除――つまり第三項として犠牲を作り出すという内容――の理論》があります。  自分たちの集まりや社会の中から 《異質〔と見なした​者〕を排除する》といううごめきについてです。  今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般​経済序説』(1992)です。    この理論にもとづき イエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これを提出して問いの趣旨を説明します。    § 1 まづ人には《承認欲望》があると言う  人は 存在として人びととの関係において 社会​的である。  しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ ​自由な関係を希求する。  しかもその自由の実現を 特に社​会集団としては まちがって追い求める傾向もあると言う。  簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除​け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむ​といった傾向であり むろんこれは 間違った道筋であるというも​のです。  一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は ​社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ば​しいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば う​れしい。そのときややもすると この承認を 自分から ​追い求めて行く傾向を持つ。たとえ誰か特定の一人の人をワルモノや除け​者にしてでも。・・・  § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。  この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたら​くと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を​持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つま​り 承認されていると思うことがたやすくなる。  そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段​階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱​》という情況だけではまだ 相互の承認が完成したとは見​なさない。こういう気難しい一面もあると言う。  § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したの​もつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。  そこで これなら安心だという一定の判定基準を持​とうとする。  この誰れにとっても見やすい共通の基準とな​るものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と​言えば早い。  除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。  § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである​。  追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称​される。  このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他​の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は た​しかに《除け者》として扱われる。  つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人​としての互いの承認が実現するというわけだと言います。そうしてこそ​ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり 《秩​序》を楽しむと言うのだそうな。  このような傾向をじんるいは 悲しいかな 残念なことに持​っているのだと。  § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していた​ように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いて​います。  それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして​ わたしたちは獲得することができるとも言います。  また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行や ファッション》​の現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんな​と違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてく​れるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。  非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいとい​う欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるとい​う行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取​れる。その道はのこされている。  § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであ​るとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のこと​であるとも論じていました。  第三項は それがいわば見事な排除であった場合には ​排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》す​ると言います。  人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を​ 今度は排除の成功のあとにはぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。  それに​よって なお人びとは 安心するというその仕組みなのだと​。  つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは一転して崇めるようになるのだと。  したがってつまり今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として み​なであがめる。  このことを通して あらためて集団ないし​社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。これで人びとは安心するということらしい。  たとえば菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかもワケもなく左遷されたらしく  その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるという扱いに変わったという。そんなカラクリであるらしい。    § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《​聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まち​がいであると考えられるのに かなり有力なかたちでその歴史が続く。  なぜならそこでは 死後にひるがえって評価を《聖なる者》と見なすようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら今度は​ あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがは​たらくということらしい。  前からもうしろからも オモテからもウラからも 《第三項排除》の歴史は 完璧を期してつづけられる。  反動のチカラは 出る​杭を打つとなって現われる。つまりその――今度は 聖化されたイエスを悪く言うかたちで――新たに現われた異端分子を やはり第三項​と見なしてその排除にかかる。  異端分子が 人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり ひとつの勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間​に合わなくなれば 明らかに迫害や戦争にまでも発展させる。  ​ときに社会はこぞって容易に その戦争に飛びつくことがありうる。そのよわさは 共犯を構成する。  § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか?  ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会​ これも じつは そのまま間違いである。  その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作ろうとしている。ただちに排除しようとして 異端分子の起きることを待ち構えている。  だから他方で《ひとと違っていたい》という欲望においては 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれ​は――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には​迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。  内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大な​る聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこま​でも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のな​せるわざである。世に言う《宗教》なるものの為す何たる自己欺瞞 !  § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。  模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどこ​ろではない。承認されたいという欲望は かなり強いらしく 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかにさえ見える。  ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか​?  話し合いによるしか道はないのではないか?  仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あく​まで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主​役である。あてにならないおのおのの主観が それでも 主役である。  ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。​いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があると​きには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様​子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う​。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほ​ど話し合う。  まづは ローマ教会の欺瞞について始めるのが 有効で有益ではないだろうか。

  • イエスは 排除された《第三項》か?

     《第三項(犠牲)排除の理論》があります。  自分たちの集まりの中から 《異質〔と勝手に見なした​者〕を排除する》といううごめきについてです。  今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般​経済序説』(1992)です。    この理論とそして その中でイエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これらについて問います。    § 1 まづ人には《承認欲望》があると言います。  人は 存在としてまたその人びととの関係として 社会​的である。しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ ​自由な関係を希求する。しかもその自由の実現を 特に社​会集団としては まちがって追い求める傾向があると。  簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除​け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむ​といった傾向であり むろん間違った道筋であるというも​のです。  一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は ​社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ば​しいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば う​れしい。そのときややもすると この承認を 自分から ​追い求めて行く傾向を持つ。たとえ一定の一人の人を除け​者にしてでも。・・・  § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。  この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたら​くと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を​持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つま​り 承認されていると思うことがたやすくなる。  そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段​階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱​》という情況だけでは まだ相互の承認が完成したとは見​なさない。こういう気難しい一面もあると言う。  § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したの​もつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。  そこで これなら安心しうるという一定の判定基準を持​とうとする。この誰れにとっても見やすい共通の基準とな​るものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と​言えば早い。除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。  § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである​。  追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称​される。  このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他​の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は た​しかに《除け者》として扱われる。  つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人​としての互いの承認が実現すると言います。そうしてこそ​ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり《秩​序》を楽しむと言うのだそうです。  このような傾向を人類は 悲しいかな 残念なことに持​っているのだと。  § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していた​ように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いて​います。  それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして​ わたしたちは獲得することができるとも言います。  また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行》​現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんな​と違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてく​れるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。  非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいとい​う欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるとい​う行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取​れるであろうと。  § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであ​るとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のこと​であるとも論じていました。  第三項は それがいわば見事な排除であった場合には ​排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》す​ると言います。  人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を​ 今度はぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。それに​よって なお人びとは 安心するというその仕組みとして​。つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは崇めるようになるのだと。  したがって今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》をとして み​なであがめる。つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として 崇めるようになるのだと。  このことを通して あらためて集団ないし​社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。人びとは安心するということらしい。  (菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかも左遷されたらしく  その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるというからくりであるらしい。)    § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《​聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まち​がいであると考えられるのに かなり有力なかたちで続けられる。  なぜならそこでは 死後に一たん評価がひるがえって《聖なる者》と見なされるようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら​ あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがは​たらくということらしい。からである。  反動のチカラは 出る​杭を打つとなって現われる。つまりその新たに現われた異端分子を やはり第三項​と見なしてその排除にかかる。  一たん聖化され人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり その勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間​に合わなくなれば 明らかに戦争にまでも発展させる。​ときに社会はこぞって容易に 戦争に飛びつくことができる。  § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか?  ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会​ これも じつは そのまま間違いである。  その《聖なる者》といただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作っていることになって​いる。  だから 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれ​は――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には​迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。  内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大な​る聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこま​でも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のな​せるわざである。  § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。  模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどこ​ろではない。承認されたいという欲望は おそらく強いの​であって 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかも分か​らない。  ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか​?  仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あく​まで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主​役である。  ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。​いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があると​きには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様​子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う​。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほ​ど話し合う。  自由なご批判をあおぎます。

  • イエスは 犠牲にされたあと聖なるものとされたか

     《第三項排除――犠牲を作り出す――の理論》があります。  自分たちの集まりの中から 《異質〔と見なした​者〕を排除する》といううごめきについてです。  今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般​経済序説』(1992)です。    この理論とそして その中でイエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これらについて問います。合わせて 話し合いの断たれる場合とはどういうことか それについてどうすればよいのかをも問います。    § 1 まづ人には《承認欲望》があると言います。  人は 個々の存在としてすでに 社会​的である。しかも主観は 最後に意思決定するのは独立した歴史知性であるゆえ ​自由な関係を希求する。しかもその自由の実現を 特に社​会集団としては時に まちがって追い求める傾向があると。  簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除​け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむ​といった傾向であり むろん間違った道筋であるというも​のです。  一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は ​社会関係的な存在であるからには(独立した存在であるというコトはすでに他者の存在を前提している) 互いによる承認を喜ば​しいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば う​れしい。そのときややもすると この承認を 自分から ​追い求めて行く傾向を持つと言う。たとえ誰か嫌いな者あるいは誰でもよい者一人の人を除け​者にしてでも。・・・  § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。  この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたら​くと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を​持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つま​り 承認されていると思うことがたやすくなる。  そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段​階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱​》という情況だけではまだ 相互の承認が完成したとは見​なさない。こういう気難しい一面もあると言う。隠し味がないと納得しない。  § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したの​もつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。  そこで これなら安心しうるという一定の判定基準を持​とうとする。  この誰れにとっても見やすい共通の基準とな​るものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と​言えば早い。被差別者でもある。  除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら・そしてその基準がはっきりしているなら もう何が来ても安心だということであるらしい。  〔ちなみに先走って言うなら 《貨幣》は 或る意味でこの《第三項》でもあるらしい。そっくりそのままかどうかは別として その《共通の基準によってのけ者とされたお金》の所有は それなりの安心をもたらすものであるらしい〕。  § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである​。  追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称​される。  このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他​の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は た​しかに《除け者》として扱われる。《一定の基準》が出来た。  つまりははっきりとシルシづけられた第三項を皆で共有しつつ排除する構造が出来て初めて 人​としての互いの承認が実現するというわけだと言います。そうしてこそ​ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり 《秩​序》を楽しむと言うのだそうです。  このような傾向を人類は 悲しいかな 残念なことに持​っているのだと。  § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していた​ように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いて​います。  それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして​ わたしたちは獲得することができるとも言います。  また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行や ファッション》​の現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんな​と違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてく​れるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。  非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいとい​う欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるとい​う行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取​れる道はのこされると。  § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであ​るとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のこと​であるとも論じていました。  第三項は それがいわば見事な排除であった場合には ​排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》す​ると言います。  人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を​ 今度は排除の成功のあとにはぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。  それに​よって なお人びとは 安心するというその仕組みなのだと​。  つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは一転して崇めるようになるのだと。  したがってつまり今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として み​なであがめる。  このことを通して あらためて集団ないし​社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。人びとは安心するということらしい。  たとえば菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかもワケもなく左遷されたらしく  その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるというからくりであるらしい。    § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《​聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まち​がいであると考えられるのに かなり有力なかたちで続けられる。  なぜならそこでは 死後に一たん評価がひるがえって《聖なる者》と見なされるようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら今度は​ あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがは​たらくということらしい。  前からもうしろからも オモテからもウラからも 《第三項排除》の歴史は 完璧を期してつづけられるというのである。  反動のチカラ――つまり一般にオシエを説くシュウキョウである――は 出る​杭を打つとなって現われる。つまりその――今度は 聖化されたイエスを悪く言うかたちで――新たに現われた異端分子を やはり第三項​と見なしてその排除にかかる。ゴータマ〔は第三者ではなかったが 王子のときにひょっとしたらのけ者になった(ちょっとしたことでも拗ねた)かも知らない〕にたいする批判には 一斉に本能によってのごとくに反批判が集まる。  異端分子が 人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり ひとつの勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間​に合わなくなれば 明らかに迫害や戦争にまでも発展させる。​ときに社会はこぞって容易に その戦争に飛びつくことが起こる。  § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか?  ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会​ これも じつは そのまま間違いである。  その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作ろうとしている。ただちに排除しようとして 異端分子の起きることを待ち構えている。  だから他方で《他人と違っていたい》という欲望においては 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれ​は――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には​迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。  内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大な​る聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこま​でも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のな​せるわざである。世に言うシュウキョウなるものの何たる自己欺瞞 !  § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。  模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどこ​ろではない。承認されたいという欲望は おそらく強いの​であって 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかも分か​らない。  ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか​?  話し合いによるしか道はないのではないか?  仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あく​まで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主​役である。あてにならないおのおのの主観が それでも 主役である。  ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。​いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があると​きには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様​子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う​。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほ​ど話し合う。  ところがこの話し合いが途切れるだけではなく断たれる場合があると思います。それは どうしてなのか また どう対処すればよいか。これをお尋ねします。  自由なご批判をあおぎつつ。

  • イエスは 犠牲にされたあと 聖なるものとされたか

     《第三項排除――犠牲を作り出す――の理論》があります。  自分たちの集まりの中から 《異質〔と見なした​者〕を排除する》といううごめきについてです。  今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般​経済序説』(1992)です。    この理論とそして その中でイエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これらについて問います。    § 1 まづ人には《承認欲望》があると言います。  人は 存在としてまたその人びととの関係として 社会​的である。しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ ​自由な関係を希求する。しかもその自由の実現を 特に社​会集団としては まちがって追い求める傾向があると。  簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除​け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむ​といった傾向であり むろん間違った道筋であるというも​のです。  一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は ​社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ば​しいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば う​れしい。そのときややもすると この承認を 自分から ​追い求めて行く傾向を持つ。たとえ一定の一人の人を除け​者にしてでも。・・・  § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。  この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたら​くと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を​持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つま​り 承認されていると思うことがたやすくなる。  そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段​階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱​》という情況だけではまだ 相互の承認が完成したとは見​なさない。こういう気難しい一面もあると言う。  § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したの​もつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。  そこで これなら安心しうるという一定の判定基準を持​とうとする。  この誰れにとっても見やすい共通の基準とな​るものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と​言えば早い。  除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。  § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである​。  追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称​される。  このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他​の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は た​しかに《除け者》として扱われる。  つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人​としての互いの承認が実現するというわけだと言います。そうしてこそ​ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり 《秩​序》を楽しむと言うのだそうです。  このような傾向を人類は 悲しいかな 残念なことに持​っているのだと。  § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していた​ように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いて​います。  それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして​ わたしたちは獲得することができるとも言います。  また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行や ファッション》​の現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんな​と違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてく​れるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。  非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいとい​う欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるとい​う行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取​れる道はのこされると。  § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであ​るとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のこと​であるとも論じていました。  第三項は それがいわば見事な排除であった場合には ​排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》す​ると言います。  人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を​ 今度は排除の成功のあとにはぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。  それに​よって なお人びとは 安心するというその仕組みなのだと​。  つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは一転して崇めるようになるのだと。  したがってつまり今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として み​なであがめる。  このことを通して あらためて集団ないし​社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。人びとは安心するということらしい。  たとえば菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかもワケもなく左遷されたらしく  その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるというからくりであるらしい。    § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《​聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まち​がいであると考えられるのに かなり有力なかたちで続けられる。  なぜならそこでは 死後に一たん評価がひるがえって《聖なる者》と見なされるようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら今度は​ あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがは​たらくということらしい。  前からもうしろからも オモテからもウラからも 《第三項排除》の歴史は 完璧を期してつづけられる。  反動のチカラは 出る​杭を打つとなって現われる。つまりその――今度は 聖化されたイエスを悪く言うかたちで――新たに現われた異端分子を やはり第三項​と見なしてその排除にかかる。  異端分子が 人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり ひとつの勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間​に合わなくなれば 明らかに迫害や戦争にまでも発展させる。​ときに社会はこぞって容易に その戦争に飛びつくことができる。  § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか?  ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会​ これも じつは そのまま間違いである。  その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作ろうとしている。ただちに排除しようとして 異端分子の起きることを待ち構えている。  だから他方で《ひとと違っていたい》という欲望においては 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれ​は――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には​迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。  内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大な​る聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこま​でも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のな​せるわざである。世に言う《宗教》なるものの何たる自己欺瞞 !  § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。  模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどこ​ろではない。承認されたいという欲望は おそらく強いの​であって 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかも分か​らない。  ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか​?  話し合いによるしか道はないのではないか?  仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あく​まで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主​役である。あてにならないおのおのの主観が それでも 主役である。  ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。​いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があると​きには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様​子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う​。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほ​ど話し合う。  自由なご批判をあおぎます。

  • 「ローマの白い羽」物語第四章

    歴史という流転の中、久しく全てを見失ったあなた方は、自らの心にともしびを与えた幼子の名を知らない。 そして、自らの心も死に絶えようとしている。 実在する男子プリキュア。 キュアミカエルだ。 イエスは古代にローマ帝国の非道を、人間性復活の努力で癒していき、非道は彼のつつましい真心さえも蹂躙した。 彼は処刑された。 そうしたローマであるからこそ、彼の志で目を覚ました人たちは、ローマ国内に浸透していった。 残された意志とともに。 曲折し新たなる荒廃を生み、新約聖書編纂で農奴達は歓喜する。 ローマへの反抗が実を結び、ローマがイエスの意志を認めたと錯覚した。 実態はローマ教会という形で現在も絶対的な、治安維持のための抑圧のレトリックである。 原始キリスト教の祭礼は古代王と王を慕う虐げられた人々が自由な人間であった時代に祈りをささげる、紀元前を何らかの形で踏襲した葬送から復活をイエスが神と伴い復活する交霊術として祭壇は形成されただろう。 ローマは祭壇に処刑台を突き刺した。 新約聖書でイエスの予言は終わる ローマ教会神官の始祖たちは、自らの宗教がいかに巧妙に組み立てられているか、ローマ人として満足の笑みをこぼしたであろう。 愚かな農奴立は、偽りの自由に気付かない。 歓喜し、イエスに祈るほどに、祭礼の形態は「神よ、くたばりやがれ!」という猛烈な殺意となり天界を蹂躙する。 新約聖書という偽りの予言の時代2000年。 イエスの意志はかろうじて、痕跡をとどめる。 最後の審判である。 それがキリスト教徒の祈りの中心であり、イエスから受け継いだ遺訓の成れの果てだ。 内容は、「ローマ滅亡」「キリスト教根絶」 そして、野党八衆の意志が中心になり、19世紀にキリスト教は宗教としての健全性の全てを喪失した。 さて、シリーズ化している哲学カテゴリーの質問で、文学的に仕上げています。 この拷問装置に挑戦して、あなたの知恵に挑戦してください。 そういう質問でして、哲学は既存の命題に取り組むほかに、自分で命題を作るという手法もあります。 読書感想文で結構ですよ。 余談ですが、バカにさせていただきます。 あなたがキリスト教徒で、この拷問装置の直撃を受けたとしましょう。 あなたは世界一自分が不幸だと思うかもしれません。 おめでとう、それが最高です。 あなたが世界一不幸なおかげで、そこら中にいくらでもいるボチボチ不幸な人たちはあなたよりも幸せなのです。 それは、イエスを今のキリスト教徒たちが蹴落とし続けた奈落です。 したがって、あなた方は不幸であるほどに信仰心が強いのです。

  • キリスト史観

    (1) イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。  ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~   はじめに ことばがあった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~  16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。   あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。  17:はっきり言っておく。   多くの預言者や正しい人たちは、   あなたがたが見ているものを見たかったが、   見ることができず、   あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、   聞けなかったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハムよりも前にいたことになります。    その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。  (2) イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史。  アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。  その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》              (出エジプト記3:14)  という答えを得たと言います。  さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は     《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)  という言葉を その神から聞いたそうです。  イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3)  (3) 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。  その後 時は飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たというわけです。  イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ   る箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。   と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21)  (4) このとき――さらには 十字架上に去って行ったそのときに―― 言わばキリスト史観が完成したと思われます。  神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えられます。  まるで 千年二千年もの時間をかけて ことばをもてあそぶかのように。  (5) 理論としては 存在論である。  《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  《わたしはわたしである》という自己到来とその自己の自乗(冪)を繰り返す動態。  (6) アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか?  むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。     (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。  (7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。  生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。  ▼ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。      (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。    この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?  ・ たぶん 辻褄は合っている。か。  ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。  (10) ユダヤから見て異邦人のあいだに このキリスト史観を共有する人間はいるか?  世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?  ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけである。

  • 第三章 特異な内容のオシエ(宗教) 

     ○  神および信仰ならびに〔信仰の偽造物なる〕宗教についての一般理論  第三章 特異な内容のオシエ――イエス・キリストという補助線説明について――  1. 神とは何であるかについて説明するのが 補助線としてのオシエです。(ちなみに 《神》というコトバも 補助線です。《かみ》というコトバ・文字・発音は 神そのものではありません)。  2. 聖書の神は 新約に到って――もとからのあり方がいっそう明らかになったごとくではありつつ―― 一般的に見て 特殊である。《ふつうの人間イエスは 同時に 神の子でありみづからも神なるキリストである》と想定している。  3. 神は 《真理》として これを人間が信じるものである。人間イエスは存在としての《事実》であり そしてそのオシエは 《キリスト・イエスの主観真実が表わされたコトバとしての命題(考え・判断)》である。つまり 考えるものである。  4. ここでは この特殊な神学について 聖母と呼ばれるマリアをめぐって 説明し得たらと願う。  5. すなわち マリアは 一方で神の貌(かお・かたち)としての議論においては 神なる聖霊によってみごもった。また一方で人間の貌としては 許婚のヨセフとのコイトスをつうじて受胎した。  6. 聖霊によるものと人間の精子によるものとふたつの受胎が同時に起きたという物語である。明らかにおとぎ話である。  7. このほうが しかしながら 人びとには 元気をあたえる。人びとがそれぞれ元気が出ることをささえる。のではないか?  8. もしゴータマ・ブッダのように 法身としてのブッダ――すなわち《真理》――と そして必ずしも百分の百においてではないと考えるが応身としての――ひとという事実存在としての――ブッダとに分かれているならば 人びとにとっての元気は――つまりブッダター(仏性)の発現は―― その場その現在においてただちには のぞみがたい。ということになるのではあるまいか?  9. マリアなる女性における聖霊によるイエス・キリストの身ごもり この奇妙奇天烈な物語のほうが 人間にとっては よりいっそう現実的である。のではあるまいか。  10. なお ゴータマ・ブッダによるオシエは 考えてみるに必ずしも補助線ではないと思われる。それは 向こう岸へ渡す筏であり 渡ったあとは捨ててしまってよいというように補助線のごとくではあるが どうもそうでもないようだ。  11. それは けっきょく足場でしかないように思われる。足場がいかに立派に組まれていたとしても 本体の家が 立派に建てられる保証はまだない。のぞむ家とはまるで違ったものが建つかもしれないし または何にも建たなかったということもあるかも知れない。  12. つまり 《家》としての法身なるブッダ(真理)が そのオシエなる補助線によって指し示されたとは なおまだ言い難い。単に家の出来上がると想定されたところに ただ足場をこしらえただけであったと成らないとも限らない。  13. つまりは ブッダターの発現としてのさとりなる状態が――つまり肝心の家本体が―― まるでさだかでも明らかでもない。二千年を超えて永遠に 分からない状態でありつづけている。と言わざるを得ない。(むろんこれは ブッダ批判です)。  ☆ 以上の趣旨説明について 当否・是非を問います。思いっきり自由なご見解をどうぞ。

  • 【宗教は世俗から離れた引きこもりの元祖?】「寺や神

    【宗教は世俗から離れた引きこもりの元祖?】「寺や神社や教会は世俗からいち早く逃げ出した引きこもりやないか」という真実に気付いた。 社会集団から逃げ出した宗教が社会を救えるわけがない。 修行中はテレビも見ない新聞も読まない。社会から孤立して世俗から離れて修行する。 これって言わば引きこもりってこと。 社会から逃げ出した。 社会から逃げ出した人間が現状の社会に対して説法をするのが笑える。 お前らはいち早く社会から逃げ出した人間の集まりじゃねーか。 ジャーナリストとかテレビや雑誌で社会に対して論法しているおっさん、おばさんたちも社会集団、経済集団から逃げ出した社会から逃げた人間たちですよね。 会社で働いていないのに今の会社のシステムを非難する。でも非難している本人はいち早く会社という組織から逃げ出した人間でクズなわけです。 会社のシステムを変えるのではなく逃げ出して批判しているだけのクズ。 宗教の教祖も社会から逃げ出し人目に付きにくい奥地に転々と移動するのは犬や猫が自分が弱っているときは人目から遠ざかって死ぬ。 引きこもりは家から出る力もないから自分の部屋という山に籠る。 昔は自分の部屋が無かったので人里離れた山に篭った。 世俗というか社会から離れたいと思って逃げて逃げて出来たのが宗教。 宗教の元祖は今の引きこもりと変わらない。 家にいてぐうたらインターネット状で愚痴を言うだけ。 これって一昔前の宗教のイエスキリストやブッダと変わらない。 アッラーはちょっと違って生真面目で裁判官みたいなお堅い法律マニアが自分の法律本を作りたくて作った生きる上でのサバイバルマニュアルの雑学本が大ヒットしてそれが本が読めない人に口伝てで伝わり宗教になった珍しい例。 けど仏教は完全に引きこもりが元祖だ。 イエスキリストはマジシャン。詐欺師の元祖だ。隠していたコインをパッと出して人々を驚かせたり、イエスキリストの奇跡は全てトリックが隠されている。マジシャンが詐欺師になっていったのでそりゃ人々の裁判で処刑されて当然だったと思う。キリスト教も引きこもりではないか。 仏教だけか。