無神論者の方に質問です

このQ&Aのポイント
  • 無神論者への質問:楽しさや儀式に対する考え方、死や生の意味について
  • 佛教についての考え方と無神論者への質問
  • 無神論者への質問:いのちのつながりや自己の存在について
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無神論者の方に質問です

 私も霊魂は否定します。  が、私も先祖から戴いたいのちのつながりの中にあると云う事から  墓参り等は行っております。  (元々佛教も釈尊が説いた教えは無神論に近いものであり、   極楽や霊山 本尊等は教えが伝えられていく過程で生まれたもので、   その教えも私を知る為の象徴でありますが)  さて、無神論と名乗る方に質問です  1 今が楽しければ良いのでしょうか?  2 儀式的なものが面倒なのでしょうか?  3 死ねば唯の廃棄物であると認識しているのでしょうか?  4 生きている間のみが全てと認識しているのでしょうか?  5 いのちの繋がり等は感じないのでしょうか?  6 自己を知る必要もないのでしょうか?   批判はしておりませんが ご回答戴ければ幸かと思います。     

noname#250543
noname#250543

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  • tomy-eye
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回答No.9

私の若い頃は無神論者でした。 神も仏も無用な生き方をしていたからです。 恐いものも辛いことも自力で乗り切れと思っていました。 余りはしませんが、日々生きられる銭も糧も女も友も運もありました。 でも、仕事で重責を担うようになり、付き合いで銭が足りなくなって、身体に異常が出て来た時、ふと「ああ神様」と天を仰ぐ私がいました。  1 今が楽しければ良いのでしょうか? ●そう思います。明日のことなどケセラセラです。 今日やらねばならんことを粛々と務め、後は飄々。  2 儀式的なものが面倒なのでしょうか? ●祝詞やお経の殆どは神や仏への称賛と神仏の存在への御礼です。 信者だって忙しいんだから、これは省いて私個人へのご神託があればそれで十分ではないかと思いますが… じっと座って聴いていたから得られたご利益はありませんでした。  3 死ねば唯の廃棄物であると認識しているのでしょうか? ●それが現実ではないでしょうか? 異論は神仏にもないと思料します。  4 生きている間のみが全てと認識しているのでしょうか? ●そう思います。だから此岸(しがん)で彼岸に挨拶しますが、返答はおろか山彦さえも来ません。  5 いのちの繋がり等は感じないのでしょうか? ●血の繋がりは否定しません。でも、血=命なのかは?です。  6 自己を知る必要もないのでしょうか? ●もう、浅学菲才は判っています。ヤンなるほど味わって来ました。 神仏も私に自己の開眼や悟りを要求しません。 今日は亡父の祥月命日ですので、箱根を越えて三島大社へ会いに行きます。 父が鬼籍へ入った歳と、私の歳が同じに至りました。 「お父さん、あなたが亡くなった歳に僕も至ったよ。偉かったと褒めて下さい。」と報告し、優しかったお父ちゃんを偲びます。 話しかけながら私は泣くと思います。 「おう!よく来た。でも、ここ30年余も毎月欠かさず参詣に来てくれてるじゃんか。まだ、こっちには来なくてもいいからもう少し元気でいろよ」と言ってくれるでしょうが、あの声で聞きたい。 いけねぇ、また涙が→😢が… 信心とはこれが標準で、以上お以下もないと爺は想います。

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  • nagata2017
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回答No.10

宗教とか神様は 社会全体の価値観を統一するために必要だったのです。 人々が無知だったころは 神という絶対的存在が全てを見ているということで縛ることができたけど ガリレオの地動説 ダーウィンの進化論 など 科学の進歩と共に 宗教で教えているようなことはみんな架空の絵空事に過ぎないとわかって 宗教が力を失ってきたのです。 そこで現代は宗教にかわる価値観を統一することが必要になり 法律などが作られています。 生物の行動は全て遺伝子が命令しているのだ」という遺伝子理論も登場しています。 いのちのつながりではなく 遺伝子のつながり

noname#250543
質問者

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ご回答有難うございました。 ≫宗教とか神様は 社会全体の価値観を統一するために必要だったのです。 これが、道徳的な規律を生み出した反面、戦争や権力による統制を生み出した事もあると思います。 ≫人々が無知だったころは 神という絶対的存在が全てを見ているということで縛ることができたけど ガリレオの地動説 ダーウィンの進化論 など 科学の進歩と共に 宗教で教えているようなことはみんな架空の絵空事に過ぎないとわかって 宗教が力を失ってきたのです。 そこで現代は宗教にかわる価値観を統一することが必要になり 法律などが作られています。 これで迷信などは無くなって科学的な究明良い処も有ります。唯「譲り合う精神」や「生かされているいのちのつながり」等は遺伝子だけでなく、そこに無意識に内に神仏の 教えと云うものがあるのかなとも思え、儀礼や墓参り等でその様な事を感じる事があります。(私も狂信的なものは否定します) ≫生物の行動は全て遺伝子が命令しているのだ」という遺伝子理論も登場しています。 いのちのつながりではなく 遺伝子のつながり これも頷けます、ただそこに情というものがあります。 それがやはり儀礼や墓参り等でその様な事を感じる事があります。

  • Postizos
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回答No.8

3にもうちょっと丁寧に答えますと、 遺体遺灰自体は物に過ぎないのですが故人を象徴する精神的な手がかりでしょう。 遺灰が物だからこそ特別な物であることができるのではないでしょうか。 もし精神や魂しか残らないのであれば遺灰を大事にすることにも意味が無くなります。 逆に戦死や事故死をして遺体が見つからない場合、故人を象徴する事物であれば特別な物として遺品などを代わりとすることもできるでしょうし、見つからなければ浮かばれないなどと考えるのは浮かばれないのではないでしょうか。

noname#250543
質問者

お礼

ご回答有難うございました。 ≫3にもうちょっと丁寧に答えますと、 遺体遺灰自体は物に過ぎないのですが故人を象徴する精神的な手がかりでしょう。 遺灰が物だからこそ特別な物であることができるのではないでしょうか。 だから、唯の遺骨であっても大切に扱う 手をあわせると 云う事かと思います。 又それを行う事によって繋がりを感じるという事かと思います。 ≫もし精神や魂しか残らないのであれば遺灰を大事にすることにも意味が無くなります。 逆に戦死や事故死をして遺体が見つからない場合、故人を象徴する事物であれば特別な物として遺品などを代わりとすることもできるでしょうし、見つからなければ浮かばれないなどと考えるのは浮かばれないのではないでしょうか。 心で思う事が大事だが、それも難しいだから大切なのではと思います。

  • Postizos
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回答No.7

「無神論」の定義は難しいのですが、宗教的な世界観や宗教心の全てを否定とか反対するものではないと考えます。 「無神論」とは信仰を押し付けてくることや持つことが当然のような社会に生まれた場合の言い訳であると考えています。 西洋で信教を聞かれてめんどくさそうな場合仏教徒だと答えておきます。日本のつもりで無宗教などと言ったら特別な強固な思想信条のように受け取られるので異教徒と思われた方が安心されて楽。 私は特定の宗教は信じていませんがお寺や神社や名のある教会モスクなどをお詣りするのに抵抗はありません。と言うより奈良や京都の名刹などに行くのは好きです。 ただ自分の行動や信条を定めるのに帰属する宗教の教えには頼らない、宗教の信者のコミュニティに属さない、そういう主義を持っています。自分の考えではそれが「無神論」なのです。 1 信仰に関係なく人類の将来には思いや理想はあります。神様仏様を信じていれば自省的で自己規律があり、信仰の無い人にはそれが無いなどと考えるのは思い上がりでしょう。 2 希望して行う儀式はどの宗教でも「気持ちのいい」「すがすがしさ」を感じますがそれを義務化されたらたぶん嫌になるでしょう。 3 ただの廃棄物ではなくて遺体とか遺灰とか取り扱いに慎重さや精神的配慮を要する廃棄物になります。特定宗教を信じてなくても宗教的な精神は無いわけではない。 4 自分が死んだとしても次の世代や人類や社会が人間自身のために良い方向に行って欲しいという気持ちがあります。人類を取り巻く自然界に対しても。 5 上の4と同じ。 6 神様仏様(の言葉とは言っても人間が考えて書いた教え)や教祖様やえらい坊主の言葉に頼らずとも自分を客観的に捉え行動規範を持つことはできますしむしろ宗教習慣の縛りが無い分正しく判断できることが多くなると考えています。 宗教には高尚な思想によるものではなくて習慣に過ぎない部分が多々ありますね。 以上は特定宗教を批判するものではありません。

noname#250543
質問者

お礼

ご回答有難うございました。 返信遅れて申し訳ありませんでした。 ≫「無神論」の定義は難しいのですが、宗教的な世界観や宗教心の全てを否定とか反対するものではないと考えます。 「無神論」とは信仰を押し付けてくることや持つことが当然のような社会に生まれた場合の言い訳であると考えています。 西洋で信教を聞かれてめんどくさそうな場合仏教徒だと答えておきます。日本のつもりで無宗教などと言ったら特別な強固な思想信条のように受け取られるので異教徒と思われた方が安心されて楽。 私も「狂信者」ではなく、日本の旧来の神仏の関係者も その様な緩い習俗と共に発展した文化かと思います。 ≫私は特定の宗教は信じていませんがお寺や神社や名のある教会モスクなどをお詣りするのに抵抗はありません。と言うより奈良や京都の名刹などに行くのは好きです。 ただ自分の行動や信条を定めるのに帰属する宗教の教えには頼らない、宗教の信者のコミュニティに属さない、そういう主義を持っています。自分の考えではそれが「無神論」なのです。 多分日本人の多くはこうだと思います。 その緩い文化が良いと思います。 ≫1 信仰に関係なく人類の将来には思いや理想はあります。神様仏様を信じていれば自省的で自己規律があり、信仰の無い人にはそれが無いなどと考えるのは思い上がりでしょう。 確かに自己を振り返るのもそうでなくても出来ると思います。 2 希望して行う儀式はどの宗教でも「気持ちのいい」「すがすがしさ」を感じますがそれを義務化されたらたぶん嫌になるでしょう。 「清々しさ」の切欠で良いと思います。 3 ただの廃棄物ではなくて遺体とか遺灰とか取り扱いに慎重さや精神的配慮を要する廃棄物になります。特定宗教を信じてなくても宗教的な精神は無いわけではない。 これはよく理解できます。そこに悲しみや思いがあるのは 変わらないと思います。 4 自分が死んだとしても次の世代や人類や社会が人間自身のために良い方向に行って欲しいという気持ちがあります。人類を取り巻く自然界に対しても。 5 上の4と同じ。 6 神様仏様(の言葉とは言っても人間が考えて書いた教え)や教祖様やえらい坊主の言葉に頼らずとも自分を客観的に捉え行動規範を持つことはできますしむしろ宗教習慣の縛りが無い分正しく判断できることが多くなると考えています。 宗教には高尚な思想によるものではなくて習慣に過ぎない部分が多々ありますね。 以上は特定宗教を批判するものではありません。 確かに、色々な形で故人を偲び、繋がりを感じ、 自己を振り返る事も出来ると思います。 ありがとうございました。

  • k-josui
  • ベストアンサー率24% (3220/13025)
回答No.6

1 「楽しければ」ではなく「充実していれば」です。    2 儀式は面倒ですね。古来からの意味づけと、その後の世俗が入り交じっています。純粋に古来からの儀式はある程度必要かも。     3 その通りです。    4 これもその通り    5 繋がりはありますね。先祖がいたからこその私です。    6 何事も自己を知る必要はあります。

noname#250543
質問者

お礼

ご回答有難うございました。 ≫1 「楽しければ」ではなく「充実していれば」です。 確かによりよく生きるとは「充実」だと思います。    ≫2 儀式は面倒ですね。古来からの意味づけと、その後の世俗が入り交じっています。純粋に古来からの儀式はある程度必要かも。 儀式の流儀のみに縛られ、これが何を意味するかが伝わっていないのではと思います、繋がりや思いを伝える切欠でそれを伝える現代に即した方向も必要かと思います。     ≫3 その通りです。    4 これもその通り    5 繋がりはありますね。先祖がいたからこその私です。    6 何事も自己を知る必要はあります。 これが大事でかと思います、私の自分の都合の良い様に自己を見ます、だから先祖との繋がりの中で反省したりする事もあり、これが大事かと思います。

  • alterd
  • ベストアンサー率23% (137/595)
回答No.5

人間の願望を都合よく叶えてくれる人格神は信じません。 しかし、万物を統べる力を神と呼ぶことに異存はありません。 >1 今が楽しければ良いのでしょうか? 刹那的享楽だけの人生は否定しますが、人生を最大限に充実させ、かつ、楽しもうとしています。 >2 儀式的なものが面倒なのでしょうか? 単なる形式だけの儀式は嫌悪します。 しかし、儀式による慰謝や敬虔な気持ちまでは否定しません。 > 3 死ねば唯の廃棄物であると認識しているのでしょうか? 「廃棄物」などというネガティヴな捉え方はしません。 宇宙の原初的な形態へ帰るのです。 そして、ほんの束の間だったとしても、生命として存在出来たことを言祝ぎます。 >4 生きている間のみが全てと認識しているのでしょうか? 自分の意志が及ぶ範囲を生と呼ぶなら正しくそうです。 そもそも、生きている間ですら、自分の意志で出来ることは高々知れています。 しかし、大いなる宇宙の意志から生まれ、また、その中へ帰って行く所までを「全て」と呼ぶのなら、自分が居ない世界をひっくるめて「全て」だと思います。 >5 いのちの繋がり等は感じないのでしょうか? 宇宙の意志=神、から全てのいのちが生まれたと考えるなら 全てのいのちは繋がっていると思います。 問題は、その繋がりに美しいものと醜いものがあることだと感じます。 >6 自己を知る必要もないのでしょうか? 「自己を知る」ことは「よく生きること」の必須条件であり、かつ、完全に自己を知ることは不可能であると信じます。

noname#250543
質問者

お礼

ご回答有難うございました。 ≫人間の願望を都合よく叶えてくれる人格神は信じません。 しかし、万物を統べる力を神と呼ぶことに異存はありません。 神はこの様な象徴であると私も解釈しております。 ただ是が権力に利用されてきた事も否めません。 >1 今が楽しければ良いのでしょうか? 刹那的享楽だけの人生は否定しますが、人生を最大限に充実させ、かつ、楽しもうとしています。 これは大事かと思います。 >2 儀式的なものが面倒なのでしょうか? 単なる形式だけの儀式は嫌悪します。 しかし、儀式による慰謝や敬虔な気持ちまでは否定しません。 それによって、感謝や思いを表す切欠が大事だと思います。 > 3 死ねば唯の廃棄物であると認識しているのでしょうか? 「廃棄物」などというネガティヴな捉え方はしません。 宇宙の原初的な形態へ帰るのです。 そして、ほんの束の間だったとしても、生命として存在出来たことを言祝ぎます。 確かに廃棄物と云う表現を使ったのは私の偏見でした。 元素となり宇宙ヘ帰るという表現で良いと思います。 >4 生きている間のみが全てと認識しているのでしょうか? 自分の意志が及ぶ範囲を生と呼ぶなら正しくそうです。 そもそも、生きている間ですら、自分の意志で出来ることは高々知れています。 しかし、大いなる宇宙の意志から生まれ、また、その中へ帰って行く所までを「全て」と呼ぶのなら、自分が居ない世界をひっくるめて「全て」だと思います。 これが大切かと思います。 >5 いのちの繋がり等は感じないのでしょうか? 宇宙の意志=神、から全てのいのちが生まれたと考えるなら 全てのいのちは繋がっていると思います。 問題は、その繋がりに美しいものと醜いものがあることだと感じます。 清濁併せて繋がりはあると思います。 >6 自己を知る必要もないのでしょうか? 「自己を知る」ことは「よく生きること」の必須条件であり、かつ、完全に自己を知ることは不可能であると信じます。  確かに私も都合よく自分を解釈しますが、 5で述べた清濁併せた自己を知る、その切欠がご先祖との繋がりかなとも思えるのです。

  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2589/17102)
回答No.4

1 今が楽しければとは思わないけど、健康と資産の範囲ならば問題は無い。私に家族はいないし。 2 はっきり言って面倒。そもそも葬式の時の宗教行事をすべて理解している人などほとんどいないし、略式で行われていることが大半。地域や時代によっても変化するし、簡略化される傾向にある。そんなことに時間と金を掛けるのは無駄。 3 「廃棄物」というのがそもそもおかしな考え。プラスチックごみや放射性廃棄物のようなものを除き、構成されている原子は循環していくもので、日本のように火葬にする国では一人のからだを構成していた原子は3年くらいで全世界に平均的に散っていくものだそうである。 4 死んだ人のことは生きている人の記憶に残っている間は別な意味で存在すると言える。 5 どういう意味で語っているのか分からないけど、地球に生命が誕生するかやって来たときからの科学的な考えにおけるつながりは感じる。 6 意味不明。

noname#250543
質問者

お礼

ご回答有難うございました。 返信遅れて申し訳ありませんでした。 ≫1 今が楽しければとは思わないけど、健康と資産の範囲ならば問題は無い。私に家族はいないし。 健康と資産(今コロナウイルスで大変ですが)これは大事かと思います。 ≫2 はっきり言って面倒。そもそも葬式の時の宗教行事をすべて理解している人などほとんどいないし、略式で行われていることが大半。地域や時代によっても変化するし、簡略化される傾向にある。そんなことに時間と金を掛けるのは無駄。 時代と共に変化していくと思います。 又現在コロナウイルスで参列できないので、リモート形式と云うのも増えているそうです。 又葬儀の移動車で車の中で葬儀が出来るようです。 ≫3 「廃棄物」というのがそもそもおかしな考え。プラスチックごみや放射性廃棄物のようなものを除き、構成されている原子は循環していくもので、日本のように火葬にする国では一人のからだを構成していた原子は3年くらいで全世界に平均的に散っていくものだそうである。 廃棄物と此方が断定していたのも偏見でした、申し訳ありません。 ≫4 死んだ人のことは生きている人の記憶に残っている間は別な意味で存在すると言える。 これが大切かと思います、そこにつながりやお育てがあると思います。 ≫ 5 どういう意味で語っているのか分からないけど、地球に生命が誕生するかやって来たときからの科学的な考えにおけるつながりは感じる。 6 意味不明。 唯、自分中心から先祖の繋がりに於いて、「独りじゃない」「生かされている」という事に改めて気付かされていくという事では無いかと云う事を墓参り等で思う事があります。

  • tetsumyi
  • ベストアンサー率26% (1858/7094)
回答No.3

無神論者じゃないけど体と別に魂が生き続けるとは思わない。 1,× 2、3、儀式は面倒だけど、故人を思い鄭重に葬る。 4、○、死後のことを考えて意味あるのかな?意味ある生き方を考えたい。 5、親を通して命を与えられたことは事実でしょうが、親の命とは別でしょう。 6、自己を知るとは何?悟りを得ると知ることができるの?

noname#250543
質問者

お礼

ご回答有難うございました。 返信遅くなり申し訳ありません。 ≫無神論者じゃないけど体と別に魂が生き続けるとは思わない。 これは私も同感です。 霊魂の存在は私は信じておりません。 昔土葬の時代に体内の燐を人魂と見立てた様です。 1,× 2、3、儀式は面倒だけど、故人を思い鄭重に葬る。 4、○、死後のことを考えて意味あるのかな?意味ある生き方を考えたい。 5、親を通して命を与えられたことは事実でしょうが、親の命とは別でしょう。 6、自己を知るとは何?悟りを得ると知ることができるの? 私も2は面倒だがそれにより命の繋がり(勿論今が大事だが)を感じると思います。 5の親や子とも私は違うでもそこにつながりがあり、 6の自己も「自分中心」から繋がりのある命の在り様を感じる事ができるのではと云う事かと思います。

  • 404113
  • ベストアンサー率7% (26/334)
回答No.2

積極的に信仰していない人間からしてみればあなたの発言は立派な批判です。 それに祖先と信仰は関係ないでしょ。いろいろむちゃくちゃです。 ちなみに私も回答は#1さんと同じです。

noname#250543
質問者

お礼

ご回答有難うございました。 返信遅くなり申し訳ありません。 ≫積極的に信仰していない人間からしてみればあなたの発言は立派な批判です。 それに祖先と信仰は関係ないでしょ。いろいろむちゃくちゃです。 ちなみに私も回答は#1さんと同じです。 確かに、批判と取られる様な箇所があったと思います。 申し訳ありませんでした。

  • gesui3
  • ベストアンサー率50% (93/185)
回答No.1

2、3 ほぼイエス。 1、4、5、6 ノー。 「味噌も糞も一緒」にした質問ですね。

noname#250543
質問者

お礼

ご回答有難うございました。 返信遅くなって申し訳ありません。 ≫「味噌も糞も一緒」にした質問ですね 確かに「こうだから」とは断定できない気がします。 ありがとうございました。

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     佛教は印度の遥か昔は仏像等本尊も無く、  私の心の煩悩からの開放 当たり前であるが苦しき事(老病死)を受け入れていく 事により、覚りの世界へと到達すると云う事が根本にあったと思います。  その象徴として、本尊や浄土や霊山というものが生み出されたと考えられます。  「死ねば唯のカルシウム」と云われる方が居られますが、  「唯のカルシウム」「無に還る」という意見は私も同意できますが、  私の生命も遡れば「無」と云う事から始まり、その繋がりの中にある、  そして、亡き方からご縁があった、そこに「今科学的に観て生命が生きている   「有」ものと成る「無」という世界では解釈できない「有無をはなる」という  世界だと思うのですが?」  説明が悪く申し訳ありません?  1 無神論者の方にとっての「無」は仏教の「無」とは違う「無意味」「無価値」なものであり、死ねば完全な「もの」として捉えていくという事なのでしょうか?  (私自身も死ねば「遺体」「白骨」と解釈しますが、何処かに亡き方とのいのち   の繋がりもあるそれこそが同じく「無に還る」という事なのではないかと思います)  2 無神論者の方は 今が良ければそれで良いのでしょうか?    葬儀の参列 墓参りは科学的に何の根拠もないので無意味 無価値なのでしょ  うか? 遺体は処理し、遺骨は捨てる、それで終わりという感覚なのでしょう   か?

  • 無神論者の死生観は動物の本能に近いのでしょうか?

     人間は知恵や知識が発達し、家族(~家の存続)村社会(共同体)というもの  が出来、皇族や豪族 武士等の当時国を制する立場の者は個人の墓というものは有 りましたが、元来当時の庶民層は共同体の墓地に納めるという形だったそうです  が、明治期にその様な身分が無く成り、~家としての墓が造られたという話を聞い た事があります。  ともあれ、弥生期頃には現在の様に法律や形式はありませんが、共同体で葬り  (土葬する位だったと思いますが)、死者を偲んだとも云われております。  それ以前 知恵 知識が発達する前は「死んだ認識も無く」「死ねば放置」  という事だったといわれております。  絶対的な神を否定する佛教の教え(無神論に近いと私は思いますが)も  「近しい方との別れ」「私も亡く成って行く」という悩みがあり、そこからの  解放が「ありのままに受け入れていく」という事で それが又死者に対する儀礼  (今日本ではこれが中心になり元来の佛教の思想とは離れたものになっていると   の指摘はありますが)へと繋がったとも云われております。  現代は科学が発達し、迷信や霊魂は否定 死後の世界等無い  だから「葬儀 墓無用」という方が増えていると思いますが、  その様な考えを持つ方で「無神論」と言われる方は人間の知恵が発達する前の  動物の死生観を引用されている方が多いと思います。  つまり知恵や知識が無いと「唯生きている」「死んだだけ」という事なのでしょう か?科学等は信奉されても、死生観は原始的なものへ立ち返るべきであるという事  なのでしょうか?  (私は霊魂や死後の世界は否定しております 佛教でも「ただ白骨のみぞのこれ  り」ということは云われております。唯「無に還る」という言葉が良く使われておりますが、無神論者の方にとって「無」は「無意味」「無価値」の「無」なのでしょうか? 事実死者に話しかけても応えてくれないし、死後の世界に行って帰って来た人はおりませんが、私のいのちも遡れば、「無」というところから始まったのではないかと思いますし、色々な方の「お育て」があり、今日の私があると思うので、 その様な事から自己の戒めという意味では儀礼や墓参りも必要なのではと思います 最終的に「心で思えば良い」という事ですが、形があり時には「ああそうかな」と 云う事もあるかと思います) (偏見で申し訳ないのですが、「何もしてくれるな」という方は個人主義の方が  多い様に思います。 事実本当の原始時代は徹底した弱肉強食だったそうですから、「自分は自分で今の地位生活を築いた」「誰の世話にもなっていない」 だから、「親戚や知人の煩わしい付き合いは嫌 行きたくない」 「墓も仏事のみならず 子の結婚等もめんどくさい」 「だから俺もほおっていてほしい」という理屈なのでしょうか?) 本能でみれば 生きている今だけ 世の中は弱肉強食 煩わしい付き合いは嫌 死ねば終わり その様な生き方が一番そのままに生きているといえるのでしょうか? ご回答お願いいたします。

  • 無神論者の死生観とは?

    無神論者の死生観とは? 1 死ねば唯の亡骸、廃棄物であり、意識も消滅する。 危篤状態の時、父母や亡き人が出て来たという事を言われる方も居られるが、 これは自らが空想で作り上げたものに過ぎないという事に成るのでしょうか? 2 元来佛教始め宗教も今をどう生きていくかという事であったが、 亡き人との繋がりや、生きている今の私も絶対ではなく、死も完全な消滅では無い という視点であるが、科学や唯物的に見ると、生きている私が絶対、生きている内に 好きな事をするという事に成るのでしょうか? 3 仏壇 神棚 墓というものは宗教というよりも日本の家制度で家督を継ぐ、 私もこの家を受け継いだのだという事を継承する為のものであり、その様な儒教的要素が受け継がれてきたと思いますし、そこで個人ではなくこの家を背負っていると いう意識が芽生えたのだと思います。  唯、「亡き人を偲ぶ」事を無神論を自覚する人は「心の中で偲べばよい」と云いますが、亡き人の事を語る事も少ない様な気がします。  亡き人に対しても、70才を過ぎると「死ぬの当たり前」という感じで見ている様ですし、「偲びたい奴が偲べば」的な感覚で、「心の中で」というが、「死ねば終わり、偲ぶ事も面倒」的な人が多い様な気がします。  だから、生きている間に高収入を得て、好きな事をして、ある程度の年齢が来ると死ぬ、その様な感覚なのでしょうか?  そして、「今をどう生きるか」も佛教始め宗教の道徳的な部分よりも、 したたかに高収入を得て、好きな事をするという事なのでしょうか? そして、他人の事等構わないと成れば、「勝手に偲めば、俺はご免だ」という事に成るのでしょうか? 4 動物から人類に進化した時に、遺体のそばに花を向けたのが始まりであるとされています。 、日本でも公家や武士階層は別として、庶民は遺体を唯埋めるだけという事だったそうであるが、遺族の悲しみを和らげる為にお供え等の儀礼を行ったとされてます。 が、科学的に究明されたので「その様な事は無駄 無意味」と思って居るのでしょうか? 所詮「生ゴミ処理」だけれども、「悲しみを和らげ 自己の安心の為」に葬儀等の儀式があるが、「自分はそんな必要ない」と覚っておられるのでしょうか? 又、動物の死生観へと還っていった、そこで「生きている間に好きな事をする」と いうある意味覚っておられるのでしょうか? ご回答戴ければと思います。

  • 無宗教の人は初期佛教に近く 覚っている?

     無神論という定義は難しいのですが、  (印度や日本の初期の佛教は葬儀等とは無縁であり 生きる道を説いており、教えそのものは無神論の教義に近い)  行き過ぎた合理主義 現実主義の人達の心理は  1 死ねば終わり 唯の廃棄物である(もの ゴミ)  2 葬儀も無意味 墓も唯廃棄物である遺骨が納められている石標等に    手を合わせていても何の得もないし 意味を持たない  3 衰えていくのも死も当たり前、   だから自らでどう人生を切り開いていくかだけが全てである   霊魂は否定しても、遺伝子のつながりはあっても生きている   今が全て、ある程度の目的を得れば好きな様に生きる事が   良い。  というものなのでしょうか?  私の遠縁(母の従弟ですが 年は私に近い)に当たる人は先祖代々の墓を放置  (放置すれば墓も撤収され、墓園内の供養塔に納められる)し、  その前にこれは気の毒だと思い、此方の納骨堂(合同の永代供養)に納めました  が、  彼は「あんた達が好きでするならすれば良い」という感じです。  墓も時代の変化で樹木葬や海への散骨 合同の永代墓等へ納めていく、  先祖代々の立派な墓を造っても、それを存続させるのは困難だと云うのは  解りますが、この様な感じだと気の毒だと思ったのですが、私が古いのでしょう  か?  彼を始め 何もしない事を公言している人は?  宗教云々以前に義理等が絡む親戚や町内 父母の付き合いも嫌う様ですし、  「心の中で思い出せば良い」という様な事を云いますが、  父母をはじめ亡き人の事を語る事も少ない様ですし、  彼は「どうせ年行って生きていたって迷惑なだけ」「衰えていく前に亡く成るのが  良い」「ある程度の年に成れば死ぬのも当たり前」と父母が死んだ時もそう云って  おりました。  それから「死んでいる人間の為に煩わされてはいけない」と云っておりました。  事実 この様な人の多くは そんなものだとある意味覚っているのでしょうか?  狂信的でないにしても その悲しみや想い出があり、その整理を付ける為に  葬儀や墓があるのかなとも思えますが?  逆に 今生きている時を楽しむ 衰えていく 死ぬのは当たり前、これはある意味  覚っているので 必要ないという事になるのでしょうか?  又 釈尊の佛教の教義に遡ると、生老病死の四苦をありのままに見つめて行った先  が覚りで、後世の者が極楽や霊山等を説いたものであり、その思想に一番近いのが 彼を始めとする「無宗教」を公言している人なのでしょうか?  ご回答戴けたらと思います。      

  • ブッダの複数形は何を意味するか?

    buddha(ブッダ)という単語の複数形が経典に登場する そうですが、するとブッダは複数いたのでしょうか? それとも、ブッダは一人だけど弟子も含めた ブッダの複数形なのでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ パーリ語 アイウエ?オ(7) http://www.j-theravada.net/sakhi/pali-aiueo-2.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ まずは、上のサイトで、ブッダに複数形があることを確認。 次に、検索してみたら ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ところで、「仏教の開祖は釈尊」という辞書の解説は疑う余地がないのであろうか。  実は筆者は釈尊自身にはおそらくそういう認識はなかったものと考えている。釈尊は諸々の仏が通った古い道を自分も通って仏となり、諸々の仏が悟った真実を自分も悟り、諸々の仏が説いた教えを自分も説いたという自覚を持っておられたからである。それを最も象徴的に示すのが、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」という句である。「是諸仏教」という句のパーリ語の原語は‘etaM buddhAna sAsanaM’であって、‘buddhAna ’は‘buddha’の複数形所有格であって、「諸」は「教え」にかかるのではなく「仏」にかかるのである。そこでこれは「七仏通誡偈」とも「諸仏通誡偈」とも呼ばれる。諸々の仏は、それぞれ時代や環境や衆生の機根の異なる世界に生まれられたので、その教えはさまざまなものとなったが、この句だけは共通して説かれたという意味である。  確かに釈尊は無師独悟されたとされている。釈迦牟尼仏は誰かに教えられて仏になったのではないが、一方では諸々の仏が通った古い道を自分も通って仏となり、諸々の仏が悟った真実を自分も悟り、諸々の仏が説いた教えを自分も説いたにすぎないという自覚も持たれていたのである。  もっとも釈尊自身はそうであったとしても、仏弟子たちはやっぱり仏教は釈迦牟尼仏が説きだされた独創的な教えだと考えていたかも知れない。しかしながら仏弟子も『テーラガーター』という仏弟子たちの言葉を集めた経典の中で、「智慧ある者は諸々の仏の教え(buddhAna sAsanaM)に思いを凝らすべし」などと言っているから、やっぱり同じような見解をもっていたといってよいであろう。  その証拠に仏弟子たちが編集した原始仏教聖典にはブッダの複数形が無数に出てくるし、毘婆尸仏(ヴィパッシン仏)などの具体的な釈尊以前の仏たちの行状に関する伝承が記され、釈尊滅後100年か200年ほどしてインド半島を統一した護教の王として名高いアショーカは、過去の仏の1人であるコーナーガマナ仏の仏塔を修復したという碑銘を残している。 http://www14.plala.or.jp/hnya/tokubetukikou-.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 上のサイトがヒットした。 >ブッダの複数形が無数に出てくる。 と書いてあるわけですが、 どう思いますか?

  • 無神論者の方に質問です

    僕の友人には「神はいないし死後の世界もない」という考えの人が多いのですが、そんな人でも葬式に参加し初詣に行きます。 ですが葬式で死者を弔い「冥福を祈る」という行為は死後の世界を想定しているように思いますし、初詣などの神社への参詣は神を想定しているように思います。 では無神論者の方が葬式で数珠をかけて手を合わせるとき、神社で二礼二拍手一礼するとき、頭の中では何を考えているのでしょうか? 葬式や初詣などはあくまで文化的な行事であって、葬式で死者の死後の冥福は祈らないし、神社で頭を垂れて目を閉じても願い事はしないのでしょうか? ぜひ無神論者を自負する方の考えを教えてください。

  • 無神論者の方は覚っているのでしょうか?

    「葬儀墓等不要な方が増えているのでしょうか?」https://okwave.jp/qa/q10015013.html という質問に関係しているかもしれませんが、 積極的無神論(日本の伝統的な土着の宗教や日本の僧侶や神主も海外から見ると無神論の思想に近く、初期佛教も哲学的なものであり、根本は無神論に近いものだと思います。多分日本の伝統的な宗教家や国民の大半は土着的なものや先祖を敬う事で継承されていると思います。これが海外の様な狂信的なものではなくこれが良い処だと私は思います。その様な感覚を差し引いて、例えば一切法事をしない 墓参りをしないと云う人)の方は、ある意味覚り、一つの生き方を貫かれて居られるのでしょうか? 前述の方は、私の知らない処で親戚の確執があったのかもしれませんが、亡くなった実父の方が地域の役をされたり、会社を定年退職後に OB会の幹事をされたりしておりましたが、その方は「父が頭を下げている姿が嫌」と云うものがあったのでしょうか? 先代の方は様々な義理を掛けてくれる人でしたが、それに対する確執があったのでしょうか? その方は「葬儀法事に参列する意味が解らない」「俺は心の中で偲ぶそれだけ」「欲しくないものを無理やり笑顔で受け取るのが嫌」 「やりたい事をその時に行う事が幸せ」 という事を云っているので、ある意味積極的無神論の方は覚っているのでしょうか? (不仲ではないが、子の結婚式も「堅苦しい」と出席しなかったり、 親戚からの訃報のお知らせにも一切無視を貫いております。)

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