自分を愛することと自分を捨てることの聖書解釈

このQ&Aのポイント
  • 聖書を読むと、「自分を大切にする」(A)と「自分を捨て去る」(B)という2つの大きな解釈が存在します。
  • Aの支持理由は、神を心から愛し、隣人を自分と同じように愛することが求められているため、自分を愛し大切にすることは当然であるとされています。
  • 一方、Bの支持理由は、イエス・キリストの教えに従う者は自分を捨て、自分の十字架を背負って従うべきであるとされています。
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自分を愛することと、自分を捨てることの聖書解釈

聖書を読みますと、自己について2つの大きな解釈の流れがあります。 一つ目は、「自分を大切にする」・・・A、という流れで、 もう一つは、「自分を捨て去る」・・・B、という流れです。 Aが支持される理由: 「聞け、イスラエル。我らの神である主は唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、貴方の神である主を愛せよ」 「隣人を自分と同じように愛せよ」 において、自分を愛し大切にするのは当然である、との暗黙の了解が潜んでいると考えられることです。 Bが支持される理由: 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」 自分についてのAとBの2つの捉え方は、どのように解釈して整合性を取ればよいのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.5

>>「自分を捨て、自分の十字架を背負って、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、貴方の神である主を愛せよ」としても矛盾しないと思います。 >言葉的には矛盾しないような感じですが、情緒的な表現としては矛盾してるかもしれません。 「自分を捨て、自分の十字架を背負って、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、貴方の神である主を愛せよ。神のために生き、神のために死になさい」とすれば矛盾しないと思います。

mityan19391
質問者

お礼

表現は異なるけれで、AとBは矛盾しない、と思いました。 Bについては、戦前の日本では、多くの日本人が生き様に命を懸けていたのを思い出しました。 キリストに命を懸ける、これがキリスト教の基本中の基本なのかも知れません。

mityan19391
質問者

補足

>「自分を捨て、自分の十字架を背負って、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、貴方の神である主を愛せよ。神のために生き、神のために死になさい」とすれば矛盾しないと思います。 成程、まとめることもできますね。 キリストに従う人は、腹をくくって、命を投げ出した人々なのだ、と思いました。。

その他の回答 (6)

回答No.7

NO.3 です.NO.3 で書いた本の名前を間違えてました.オレが読んだのは多分これです. ×「マタイによるイエス伝」 ↓ 〇「イエス伝―マルコ伝による」

mityan19391
質問者

補足

ありがとう

noname#231544
noname#231544
回答No.6

A 自分も他人も尊い・粗末に扱うな B「我」を捨てろ というニュアンスではないでしょうか。 我が強いと、神の意志に従うことは難しいでしょうから。

mityan19391
質問者

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回答ありがとうございます。 >A 自分も他人も尊い・粗末に扱うな これは「隣人を自分と同じように愛せよ」の法の解説ですね。 >B「我」を捨てろ Bの自分は、「我」ですか。確かにそう解釈もできると思います。 私はもう一歩踏み込んで、「神の意志に従う」ことをできなくする、自分に関するあらゆるもの」のような気がします。

回答No.4

>「自分を捨て、自分の十字架を背負って、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、貴方の神である主を愛せよ」としても矛盾しないと思います。 言葉的には矛盾しないような感じですが、情緒的な表現としては矛盾してるかもしれません。

mityan19391
質問者

補足

回答ありがとうございます。 >言葉的には矛盾しないような感じですが、情緒的な表現としては矛盾してるかもしれません。 「情緒的な表現」というのは、 Aが金持ちでもやれる雰囲気で、Bは命懸けの雰囲気、ということでしょうか? イエス様の十字架は、自分を捨てることで荷えるのかも知れません。日本人には、葉隠れや切腹の思想があり、戦前の多くの日本男児が決意した思想でした。「自分を捨てる」という言葉には、それに通じる言葉のように思いました。

回答No.3

キリスト教は愛の感情によって近づこう,というアプローチを取ります.それを前提として,すみませんけどなにも調べないで勘で書きます.オレはキリスト教徒でないです.聖書について詳しくないです.十数年前「マタイによるイエス伝」を読みました.(設定などいろいろ間違ってることもあると思います.そのときはお許しを...). 「聞け、イスラエル。我らの神である主は唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、貴方の神である主を愛せよ」 これはこの発言に至る前の文脈がわからないと語の意がわからないです.発言のあった状況が,イエスがイスラエル人で,一般にイスラエル人は裁きの神とまで言われるヤハウェを神とするユダヤ教を信仰してて,イスラエル人社会は政教一致で,社会の主導者,力のある者が聖職者,法律家で,彼らが個人的な利益を得るためユダヤ教を利用して多くのイスラエル人を牛耳ってたとします.こういうことでは? 「聞け、聖職者や法律家たちにあれこれ言われて,彼らのいいように操られてるイスラエルの民よ。我らの神である主は彼らでなく唯一の主である。彼らから「罪を犯してる」とか「宗教的に違法だ!」などと言われ,罪悪感を感じたり,罰が当たるかもと思ったときはじめて許しを請うため神を意識するんじゃない!聖職者,法律家たちを怖れるのでなく,心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、貴方の神である主を愛せよ」 「隣人を自分と同じように愛せよ」 これはそのままなので,具体例を列記するとたとえば下記のようなことかと思いました(実例でなく創作です). ・電車に乗ってると隣に立ってる奴の息が臭えとか,子連れの子供がギャアギャアうるさいとか,出口付近でぼんやり立ってないでとっとと行けよとか思って,イラついたりするでしょう.オレも疲れたときそう思います.だけどそんなことを思う前に,つまり常日頃から隣に立ってる人をオレやアタシと同じと思っとくと,そんなことは気にならず,気になる部分を許せて,嫌な奴と考えないので,嫌な感情を感じない. ・伊豆へ旅行へ行った帰りに温泉まんじゅうを買ってきた.3 時のお茶受けに食べたところ,一生で食べた温泉まんじゅうの中で,一番美味しかった.感動した!こんななら,もっとたくさん入ってるのを買っとくんだった.失敗した.迷ったあのとき買わなかったのが悔やまれる.そう思うと苦しくなる.これは美味しい!もっと欲しい.オレがとても美味しいと思うなら,隣の家の人もおいしいと思うだろう.(そうだ!あげよう)と考えれば苦しくなくて,むしろ嬉しい. ・隣人から温泉旅行のおみやげに箱半分の温泉まんじゅうをもらった.なかなか美味しかった.さて(いくらだろう?)と思って箱を調べると 500 円と書いてた.つまりアタシは人として,隣の人から変に思われる前,忘れないで,つまりできるだけ早い機会に 250 円分くらいの気の利いたお返しをしなくてはならない.などと,あげるをお金に換算して,比較し,貸し借りなしにするのが隣人とのスマートなつきあいかたという考えに縛られると,あげるが思考の対象になって仕事になる.あげるについてはそういうふうに(~せねばならない)というアタシに課したルールを捨てて,アタシがアタシと取引しないようにあげるときはただあげよう. 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」 これはこの発言に至る前の文脈がわからないと語の指す意がわからない,文の意がわからないです.勘で言うとたとえば下記のようなことかと思いました. 「国教?のユダヤ教と異なることを言うわたし(イエス)と同じ道を行きたい,弟子になりたいと願うものは,ユダヤ教の聖職者,法律家,ソープ嬢,メーカー勤務,乞食,金持ち,尊敬される人格者などいろいろある今現在のオレ,アタシの職業,役割上の社会的立場を捨てて,オレ,アタシが感じる重苦しい罪悪感?自由を奪い,オレ,アタシを厳しく縛り付ける思考?信念?条件付け?をそのまま持って,わたしに従いなさい.」 語の意では「自分の十字架」がなにを意味するか?この一文でははっきりわからないです.

mityan19391
質問者

お礼

具体例って、イメージが広がっていいですね!ありがとう。

mityan19391
質問者

補足

>隣人(に/から)温泉まんじゅう 日本人のお付き合い。こういうことが「隣人を自分と同じように愛せよ」ということなんですよね。 Aの愛し方は日本人の習慣とほぼ一致しているような気がしてきました。 >「自分の十字架」 人は、辛い現実・辛い過去の経験を持っています。それを自分の十字架と言っているように思います。

回答No.2

>「聞け、イスラエル。我らの神である主は唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、貴方の神である主を愛せよ」 ↑これは矛盾しないと思います。 「自分を捨て、自分の十字架を背負って、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、貴方の神である主を愛せよ」としても矛盾しないと思います。 >「隣人を自分と同じように愛せよ」 ↑「完全に隣人を自分と同じように愛せよ」と言うのは、自分を捨てないと無理です。 「自分を捨て、隣人を自分と同じように愛せよ」と言うのは言葉的には矛盾してますが、情緒的な表現と解釈すれば良いのではないでしょうか。

  • TIGANS
  • ベストアンサー率35% (244/680)
回答No.1

聖書は単なる宗教聖典であって細部の整合性とは無関係でしょう それを説明したところで、聖書が改版されたりするわけではないですし それをうるさく言い始めたら 旧約聖書も神の言葉であり整合性無いといけないとか 黙示録はどうなんのとかどんどん重箱の隅をつつく結果に終始するでしょう

mityan19391
質問者

補足

回答ありがとうございます。 >聖書は単なる宗教聖典であって細部の整合性とは無関係でしょう 仰ることは分かります。 神学という学問が作られる位なので、聖書は細部の整合性は保たれている筈だと(私は)思っています。 >どんどん重箱の隅をつつく結果に終始するでしょう そうでしょうか。そうなっては、ただ下らなくなっていくだけですよね。

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