• 締切済み

「切腹」が出来る覚悟

 注射でさえも、痛くて嫌いな私にとって、武士の尊敬できるところのひとつとして、「日々の生活の中で、常に、切腹の覚悟が出来ている、……殿様に限らず、下級武士に限らず」ということだと思い込んでいます。(現実がどのようであったかは知りません。……認識が間違っていれば指摘して下さい。)  この「常在死対面(「常在戦場」からの私の造語<(_ _)>)……普段の平凡な生活の中にも、常に死への覚悟を持っている」という精神と、「切腹を平然として実行できる」いう覚悟は、何処から生まれているのでしょうか???というのが質問です。  もちろん、幼少の頃から、「そのような教育」を受けてきたとか、いろいろな要素が総合された結果だと思うのですが、それらの要素の中で、「何が大きな要素か???」ということついて、お考えを教えていただきたいということです。「教育」だとか、「生まれ・身分」だけで説明できるものでしょうか???「何か決定的な要素」というのはないのでしょうか???三島由紀夫も切腹しましたが、それとは違う「武士の何か、武士とは何か」というのがあるのではないかと???  それと、とはいっても、武士といえども人間ですから、「潔い」という理想からかけ離れた見苦しい事件もあったのではないか???という疑問もあります。紹介して下さい。少しでも「己の見苦しい生き方への慰めと、少しでも教訓」になればと考えています。

みんなの回答

  • ponyo7
  • ベストアンサー率18% (130/712)
回答No.2

答えは案外簡単かもわかりません。 つまり「やったことがない」からです。 怖いもの知らずです。 覚悟さえあればやれるのではないでしょうか。 三島由紀夫も切腹後あまりの痛さに(?)耐えかねて舌を噛み切ろうとしています。

noname#238475
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございました。 覚悟さえあればやれるのではないでしょうか。……その「覚悟」というのはどこから生まれてくるのでしょうか???「覚悟の源泉」は何かという疑問です。 「やったことがない」だけで、「覚悟」というのは生まれないように思うのですが。 怖いもの知らずです。……現代の「いじめ」に共通点があるように思います。「痛み」を知らないから、平気で相手を痛めてしまう。 三島由紀夫も切腹後あまりの痛さに(?)耐えかねて舌を噛み切ろうとしています。……(*^_^*)「あいつは馬鹿」だから、案外そんなものかも知れない。私見だけど。まぁ、それでも、「舌を噛み切ろう」としたのなら、まだたいしたものだとも思う。私なら、「舌をちょっと噛んだだけ」で、泣いてしまう。

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  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2589/17102)
回答No.1

当時の武士の世界は今とはかけ離れた不条理な世界です。内心はどう思おうとも、家のことが最優先で、立派に切腹もできないのであれば末代までの恥のように思われていました。本人の意志や考えなど全くお構いなしにです。 ちなみに、多くの場合は実際に刀で腹を切るのではなく、せいぜい当てるくらいの時に介錯人が首を落としてしまいます。自分の腹を刺すなんてことをした武士は、幕末頃にはほぼ皆無だったと言われています。

noname#238475
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございました。  「家のことが最優先で、」というのは、「不条理」な世界なのでしょうか???当時としてはは「条理」の世界だったのではないでしょうか???  立派に切腹もできないのであれば末代までの恥のように思われていました。……「恥」の精神というのは何から生まれてきたのでしょうか???私の質問とも通じるところがあるように思います。  ちなみに、多くの場合は実際に刀で腹を切るのではなく、せいぜい当てるくらいの時に介錯人が首を落としてしまいます。……そうだったのですか。それにしても「その場に坐す」というだけでも覚悟がいることだと考えています。  幕末頃にはほぼ皆無だったと言われています。……皆無であったとしても、ゼロではない。質問とは、直接関係しませんが、ふと、「乃木大将はどのような考え方をし、なぜ死を選んだのだろうか???」とか、「特攻隊は、どんな気持ちで、死に臨んだのだろうか???」という疑問が湧いてきました。

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