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江戸時代。庶民に名字の使用を禁止したのは。

幕府は、どのような理由があって、庶民が名字を名乗ることを禁止したのですか。 禁止を発案したのは、誰ですか。 よろしくお願いします。

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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • 441moe
  • ベストアンサー率16% (75/449)
回答No.4

正式には家長のみです。 いつからから不明。 何が正式かも不明。 家を中心に考えられたら為と思われます。 氏姓制度の延長は分かります? 武家でも次男以降は正式には名乗れない事になってます。 墓に苗字入れて消された例もあります。 回答にならずに申し訳ありません。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「いつからなのか」「何が正式か」どちらも不明、ということが分かったことが収穫です。 何か「触」が出ていそうなものですが。 氏姓制度の延長については全く知りませんので調べてみます。

その他の回答 (5)

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (812/3032)
回答No.6

まずはwikipedia(苗字帯刀)の一読をお勧めします。 基本的に身分の固定化のために秀吉が禁止したようですね ”苗字については百姓・町人階級にも祖先や家名が存在するが、これを公の場で用いる事を禁止する事で差別化を図った。具体的には宗門人別帳などの公文書への記載が許されず、墓碑銘や過去帳など私的な場合においてのみしか使用が認められなかった。”抜粋 そんな厳密な禁止ではないものの、公的には苗字は認めませんよといったイメージでしょうか? その後江戸時代は藩ごとに裁量権が与えられていたので地域によりまちまちといったことのようです。 その後明治3年に平民苗字許可令、明治8年に平民苗字必称義務令

参考URL:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%97%E5%AD%97%E5%B8%AF%E5%88%80
kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 結論を一言で言うと「差別化を図った」ということですね。 「名字・帯刀の禁止」で、「帯刀」は分かるのですが、「名字」が分かりません。 「庶民は名字を使うな、オレ達武士は偉いんだ」の考えが通る時代だったのですね。 このwiki は1974年出版の本を典拠としていますので、新しい知見が出ているのではないかと思いました。

回答No.5

 江戸幕府よりも遥か以前の古代からの伝統で、名字は天皇から戴いて名乗るのが元々の名残でした。天皇家に対しての功績が認められたら、姓を授かったのです。戸籍が作られてからも庶民には名前すらついておらず、性別の実の記録しかありません。身分の高い家系の男性には名前がありましたが、女性は天皇の側仕えくらいしか名前がありませんでした。  江戸幕府が禁止したのではなく、それまでの先例を守ったというのが正しいと思います。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。  「江戸幕府が禁止したのではなく、それまでの先例を守ったというのが正しいと思います。」ということですね。

  • hue2011
  • ベストアンサー率38% (2800/7250)
回答No.3

誰も禁止していません。 苗字というのは、その家がもともとやっていた商売とか稼業を示すものだったり、ある地域に住んでいた場合その地域名だったりするところから発生しています。必要なのは親子関係とかがわかることです。 職業に関する苗字は、貴族社会で上層にいた人が負っていたことが多く、神官だったり大工だったり水利屋だったりすることがわかる役割として任命された文字から来ています。斎藤だとか工藤、水豊屋なんていうのがそれにあたるわけです。 庶民の場合は、地域名が多く、田中地域に住んでいたから田中のだれそれ、と言 って区別したことが田中という苗字になったようなことになります。そうするとそこの地域は全部同じ苗字と言うことになります。 江戸時代なんかは、隣近所全部同じ苗字ということが多くなるわけで、人間を区別しづらくなる。 区別するには、もし地名で区別できればそれを援用し、職業で区別したほうが便利ならそれを使うというやり方をします。 親戚内で来客を言うときに、「麹町がきたよ」とか「大根畑はまだか」といったほうが全員の管理認識が統一されます。 実は貴族社会でもこれはあり、「何々小路はん」みたいに地名をあだ名的に使っていてそれが本名風になった場合もあります。 そうしたら、商売をしていたら屋号とか業務名プラス数文字という識別法になります。八百屋の正次だから八百正とか、ダルマの描いた障子で商売をしたダルマ床とか、そういう言い方で識別するのが確実でトラブルも起きません。 こういうやりかたでやると、苗字というより、そういう屋号を使ったほうが社会的に便利なわけです。 こういう前近代は戸籍としては、人別帳みたいなものはありましたが、いまでいう本籍と住民票みたいな管理はしておらず、お寺の過去帳に準じたような帳面としてその地域の管理者が持っているだけのものです。だから生まれても届ける必要があるわけじゃないけど、お七夜のお祝いなんかで地域にはお披露目したのが戸籍の入口みたいなもんです。 こういう登録をしていない人間がいるわけで、それを無宿人と言います。 無宿人というのはいわば戸籍のない人間ですから、長屋の家主も入居を渋りました。たいがいやくざものですし、親族もはっきりしていない人間は抑える存在もないわけですから。 ここのところで無法者を抑えるという話が落語の「髪結新三」です。新三が粋がって「信州無宿者だ」みたいなことを言った瞬間に大家が、それなら家を出ていけと脅すのです。無宿者を置くような家主じゃないんだ、と。そう脅して鰹の半分つまり身代金の半分をやくざものから巻き上げるのです。 まあ無宿者と言えばややかっこいい響きがありますが、戸籍がないのですからまたの名を「非人」といったわけです。 すごみもださずこつこつ何かの仕事をする人間で戸籍がなければ人の嫌がる仕事しかできないわけで、動物の皮をはぐ仕事だとか仏教的にさげすまれるような稼業をしている人間がそう呼ばれたのです。 明治時代、新しい戸籍制度が開始されたとき、ファミリーネームつまり苗字とプライベートネームである名前を2段階で管理するやりかたに統一されたのです。 そのとき、長く使っている呼び名を苗字にしたというのが多いわけで、だから商売の屋号をそのまま苗字として登録した場合もあるのです。 そうやって苗字というのが明確に規定されて今に至るのです。 江戸時代に、町人のひとりひとりを固有の苗字で呼ぶなんていうことをしたら社会が回りません。本郷の魚屋文吉だとか下田新道の繁蔵だとかそういう呼び方が最もすんなり経済をまわしたのです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >誰も禁止していません。 そうなんですか! 江戸時代の「農工商」の人たちは、名字なんて使わぬ方が、都合がよかったのですね。 明治になって、急に苗字を使えなんて言われて、大いに困惑したことでしょう。

  • meido2010
  • ベストアンサー率15% (68/448)
回答No.2

そうですね、豊臣秀吉が若い頃は、木下藤吉郎と言いました。 戦国時代は農民と言えど、いざ戰となったら槍を持って戦いました。 それが下剋上を生み、下層の物でも出世できる仕組みになっていった のですが。 徳川家康の考え方は、武家は武家としての格式を保って支配階級と しての家柄を大事にしたからでしょう。 ですから、士農工商という身分制度も武士とその他の階層との 隔絶を狙ったのでしょうね。 しかし、農民と言っても庄屋で年貢の納め具合が良いと、名字帯刀 は認められました。 また、豪商となったり普請事業での働きの良かった大工の棟梁など にも同様に名字帯刀を許される者もいました。 つまりこれも、支配しやすい仕組みを作るという意味合いでの ものだったと思いますよ。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「武家は武家としての格式を保って支配階級としての家柄を大事にしたから」 ということですね。 なるほど。

  • maiko0333
  • ベストアンサー率19% (840/4403)
回答No.1

士農工商のトップである武士は苗字帯刀を認め、 それ以下の人間には認めないとして特権階級を鼓舞したかったのでしょう。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そういうことですか、なるほど。

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