江戸時代の庶民のメガネ使用について

このQ&Aのポイント
  • 江戸時代の庶民がメガネをかけていたのかについて調査しています。
  • 江戸時代には眼鏡屋が存在しましたが、メガネは庶民には手の届かない高級品であった可能性があります。
  • また、身分の低い庶民が目上の人の前でメガネをかけるのは失礼にあたるとされていた時代もあるようです。
回答を見る
  • ベストアンサー

江戸時代、庶民はメガネをかけていた?

江戸時代、文化・文政期の頃のことを調べています。 江戸時代には眼鏡屋なる商売があったようですが、文化・文政期、メガネは庶民にも手が届くものだったのでしょうか? 商家の主はメガネをかけていても、手代や丁稚がかけていたらおかしいようなイメージがあります。 値段的にも、ステータスとしても、庶民には手が届かないものだったのでしょうか? また目上の人の前ではメガネをかけるのは失礼にあたると書いてあるサイトもありました。そうだとしたら身分の低い庶民はメガネなどかけられなかったのでしょうか。 江戸時代、庶民はメガネをかけていたのか、ご存知の方いらっしゃいましたらご教授ください。一例として、商家の手代はどうだったか教えていただけましたら幸いです。 よろしくお願いいたします。

  • 歴史
  • 回答数3
  • ありがとう数5

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#224207
noname#224207
回答No.3

>商家の主はメガネをかけていても、手代や丁稚がかけていたらおかしいようなイメージがあります。 値段的にも、ステータスとしても、庶民には手が届かないものだったのでしょうか? イメージはともあれ、お店の旦那は庶民に入れてはもらえませんか? 大家さんはだめですか? そう安いものではなかったでしょうから、丁稚さんのお小遣いで気楽に買う訳にはいかなかったでしょう。 ご指摘のように浅草に村野という眼鏡屋がありました。 和製の眼鏡は江戸中期以降に普及したと考えられています。 文化文政期には天体望遠鏡が作られていますからレンズの制作技術は充分あったと考えて差し支えはないかと思います。 眼鏡と言いましても現在で言えば老眼鏡です。 従って現在のように日常的に着用していたのではなく、必要の都度使用していました。 >また目上の人の前ではメガネをかけるのは失礼にあたると書いてあるサイトもありました。そうだとしたら身分の低い庶民はメガネなどかけられなかったのでしょうか。 上記のような使い方ですから、人と対話する際には外していたでしょう。 サイトの説明や理由付けにはやや説明不足や誤解があるかと思います。 顔に何かを着けるということは、博多にわかのお面のようなものだけでしたから、お祭りでもないのに人前に出る際に顔に何かを着けること自体余り好ましいことではなかった、まして目上の人には失礼だということです。 現在でも老眼鏡をかけて下へずらしたまま上目遣いで見れば失礼な奴ということになります。 相手をいい加減に取り扱っているという印象になります。 >商家の手代はどうだったか教えていただけましたら幸いです 手代さんと一口に言われましても、お店の規模によって権限が相当に違っていました。 番頭さん(現代で言えば重役さん)に次ぐ権限を持った人もいれば、精々係長級の人もいました。 蕎麦屋の手代も三井越後屋の手代も手代は手代です。 そもそも照明用の蝋燭や行燈などの油は高価なものでしたから、日が暮れればさっさと寝ていました。 筆記用具は筆と墨ですから現在の活字にような細かい文字はありませんでした。 日中お店の中でこのような大きな文字で書かれた帳簿が見難いようでは、すぐにお暇を出されていたでしょう。 客先で間違いがあったら大変です。 お婿さん候補のような有能な手代さんであれば、使わせていたでしょう。 年とった番頭さんなどであれば、必需品としてお店で用意したでしょう。 ヨーロッパでは一種のステイタスを表す装身具として扱われて発達しましたが、日本ではあくまでも実用品でした。 取り扱い方が違いますので御注意ください。 ということで、ご質問のタイトルに対しましては 必要な人が必要な時に使っていましたが、安いものではなかったのである程度経済的に恵まれている人達だけでした。 という回答になります。 遠近両用という訳にはいきませんから外で体を動かす大工さんや植木屋さんはお金が有っても使っていなかったでしょう。 手元が見えにくくなれば仕事になりませんから隠居か転職することになったでしょう。 このようなことから、珍しくはないもののそう見掛けるものでもなかったということになります。 参考 「和ガラス展」 (1)-江戸のガラスと明治のガラス : にいがた文明開化 ... hikarataro.exblog.jp/18681854 抜粋 国内で古くから仏具の玉類を作っていた玉細工師と呼ばれた集団の中からガラスレンズを造る人が現れて和製眼鏡が江戸中期頃に誕生したと言われています。 他のガラス製品が幕末まで実用品として不十分だったことを思うと、眼鏡レンズとしての眼鏡や望遠鏡は早くから実用品として活躍しました。 器用な日本人はそういった制約の中でも19世紀には多種多様な製品を造っていた事が当時のガラス問屋の引札 (製品カタログ・チラシ)からもうかがえて興味深い。 江戸の中にあった“グローバリゼーション” - 新刊JPニュース www.sinkan.jp/news/index_2809.html 抜粋 望遠鏡や顕微鏡が作られたことは様々な記録に残っているが、さらに深く生活に溶け込んでいたレンズが「眼鏡」だ。浅草には「村野」という眼鏡屋まであり、窪俊満という浮世絵師が1790年ごろの浮世絵にその店を描いているという。 ちょんまげ頭で見た天体 (第6回) www.spaceguard.or.jp/asute/a26/WATANABE/WATANABE.html 参考 徳川吉宗(1684~1751)の命を受けて、長崎のレンズ職人、森仁左衛門が天体望遠鏡を製作して献上した記録がある。 一貫斎の頃には、かなりの量の眼鏡用レンズは生産されていたようであり、少なくとも、一貫斎自身が研磨したレンズが存在することは確かであろうと考えられる。製作日誌に研磨材や研磨法について非常に詳しく記載していることがそれを裏付けている。 注)国友 一貫斎(くにとも いっかんさい、九代目国友 藤兵衛(- とうべえ) 安永7年10月3日(1778年11月21日) - 天保11年12月3日(1840年12月26日))

zouco10
質問者

お礼

すごくお詳しいご回答をありがとうございます!読んでいてとても面白かったです。 なるほど、庶民、手代といってもいろいろありますものね。質問がきちんとしていなくてすみませんでした。 >ということで、ご質問のタイトルに対しましては 必要な人が必要な時に使っていましたが、安いものではなかったのである程度経済的に恵まれている人達だけでした。 という回答になります。 そういうことなんですね、とても勉強になりました、ありがとうございました!

その他の回答 (2)

回答No.2
  • trytobe
  • ベストアンサー率36% (3457/9591)
回答No.1

眼鏡はオランダから大名への献上品くらいしかなかった時代で、 江戸時代の町人には手に入らない(というか、視力を測ったり視力に合わせたレンズを加工できる技師がいない)とともに、 内職が必要な農民と違って町民はそんなに夜遅くまで起きていることもなく、勉強やテレビで夜に目を酷使することもなく、視力が落ちる人は現代に比べてごくわずかだった(見るものを目に近づければ済むレベルだった)のでしょう。

関連するQ&A

  • 江戸時代の髪型

    江戸時代後期、文化文政の頃の江戸の商家の女性たちの髪形について教えてください。 娘時代と結婚してからの髪型の違い(名称)が知りたいのです。商家のスケールのよっての違いがあれば、 それもお願いします。

  • 江戸時代商家に奉公した女性は…?

    江戸時代、商家に女性が奉公する場合、どのような雇用体制でどれくらいの期間雇われていたのか、仕事内容、何と呼ばれていたのかなどを教えて下さい。 武家奉公に関しての資料は出てくるのですが、商家に仕えた女性の資料がなかなか発見できません。 丁稚(小僧)から手代、番頭へと昇格していくシステムは男性特有の物だったのでしょうか? 宜しくお願いします!

  • 江戸時代 絵画から庶民文化語れる?

    江戸時代に限った話ではないですが、とりあえずここでは江戸時代の話でお願いします。 今でこそ私たちは本やテレビやインターネットで様々な作品を見ることができますが、昔はそんなものはなく気軽に絵画に触れる機会が無かったように思います。浮世絵は流通して庶民の文化として紹介されているのを見ますがではそれ以外の絵画はどうなのでしょうか?今の私たちが知っている応挙や若冲や芦雪や…そういった画家の絵を見る機械はあったのでしょうか?寺にあるものは庶民も見ることができたのでしょうか? つまり、当時の絵を見てそのころの文化について語ることは可能なのでしょうか?絵から推察できるのはあくまで特別な身分の人々の文化なのでしょうか? みなさまのご意見お聞かせくだされば幸いです。

  • 江戸時代、商家に奉公した女性について

    カテゴリが違う方が有力な回答が得られるとのアドバイスを受けて、再投稿です。 江戸時代、女性が商家に奉公する場合に、どのような雇用制度でどれくらいの期間雇われていたのか、何と呼ばれていたのか、仕事内容、結婚事情など教えて下さい。 丁稚(小僧)―手代―番頭のような昇格システムは男性特有のものだったのでしょうか? 資料を探そうとしても、女性の奉公では武家奉公・妾奉公等、商家への奉公だと男性の物しか見つけられない……という状況で大変困っております。

  • 江戸の庶民文化の普及?

    少し文化について勉強し始めています。 疑問に思ったことがあるのですが、 江戸時代に普及した庶民文化。 なぜ、このときに庶民に‘文化’というものが 広まったんでしょうか? 何か、生活や庶民の考え方?ゆとりなど・・・ 何が原因なんでしょうか。 もしお分かりの方がいらっしゃいましたら、 どんなことでも結構なのでお教え願います。

  • 江戸時代の職業選択

    江戸時代に限定した 質問です。 この時代、人々の職業は固定されたという印象があります。 実際はどうだったのでしょうか。 農民の子が、職人の弟子入りして職人になったり、商家で丁稚として働いたりするようなことはあったのでしょうか。 職人の子供は、商人になった可能性はありますか。 他の時代も気になるのですが、まずは、江戸時代限定でお尋ねします。

  • 江戸時代後半、庶民は年号を知っていたか。

    先日、類似の質問がありましたが、「農工商」に属する庶民の多くは、年号を知っていたのではないでしょうか。 以前、江戸時代の歌舞伎の地方公演を調べたとき、木版刷りの「芝居番付」に文政2年とありました。 また、通貨でも寛永通宝ほか元号の入っているものもあります。 そこで質問ですが、「黄表紙」等の印刷物には発行年月を入れるのがふつうですか。 また、借用証書、離縁状、寺に出す出生届けなどには必ず年月を入れるものですか。 その他、庶民が元号・年月を意識する例を教えてください。 よろしくお願いします。

  • 江戸時代に氷(冷凍機)を作る

    信長のシェフを見ていて突然、思ったのですが、もしあなたが江戸時代にタイムスリップしたとして、 真夏に氷を得たいと思ったとして、実現可能な手段は何でしょうか。 氷室に氷を貯蔵しておく、ではなくて、冷凍機を作ってください。 もちろん、使ってよいのは、江戸時代に手に入りそうな物だけです。(現在の知識は使ってもよい) とりあえず、それなりに裕福な商家の旦那の道楽くらいの元手は使ってもかまいませんが、可能であれば、継続的に、氷を売って商売をしたいので、持続的に手に入りそうなものが原料・エネルギー源であるとベターです。

  • もし、皆さんが徳川家康だったら、どんな江戸時代にしたいですか?

    江戸時代にはいろんな制度がありました。 身分制度もあったし鎖国もあったし、武士、庶民の暮らしもさまざまでした。 飢饉もありました・・・ とにもかくにも、皆さんは徳川家康です。 さて、どんな江戸時代にしますか?

  • 江戸時代までの庶民は貴重品の管理をどうやっていたのか気になります。

    江戸時代までの庶民は貴重品の管理をどうやっていたのか気になります。 例えば時代劇などに登場する庶民の住居ですが、都市部では多くは長屋ですよね。 ちょっと上のクラスの商売人 (例えば夫婦だけでやっているような) になれば数部屋ある一戸建てに住んでいたと思います。 時代劇で見た範囲で言えば、外出する時、今のように鍵をかけるとか一切無くて、開けっ放しの状態ですよね?  ただ防犯面で言えば、大体は隣近所の付き合いが濃厚なので空巣にやられ難い面もあったでしょうし、仮に泥棒が入ったところで家の中には貴重品や現金などを置きっ放しにするケースなど無い状態だったのではないかなと思っています。 それでも自宅で小商いや食堂を経営している人の家には常に若干の現金 (当日の売上金や支払に当てるお金など) はあっただろうと思うのですが、外出して家に誰もいなくなる時、一体どうやって貴重品などを管理していたのでしょうか? もしかして、24時間、常にふところに入れて肌身離さなかったのでしょうか? でも銭湯に行く時は? お湯の中まで持って入ったのでしょうか?