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江戸時代の庶民のメガネ使用について
- 江戸時代の庶民がメガネをかけていたのかについて調査しています。
- 江戸時代には眼鏡屋が存在しましたが、メガネは庶民には手の届かない高級品であった可能性があります。
- また、身分の低い庶民が目上の人の前でメガネをかけるのは失礼にあたるとされていた時代もあるようです。
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>商家の主はメガネをかけていても、手代や丁稚がかけていたらおかしいようなイメージがあります。 値段的にも、ステータスとしても、庶民には手が届かないものだったのでしょうか? イメージはともあれ、お店の旦那は庶民に入れてはもらえませんか? 大家さんはだめですか? そう安いものではなかったでしょうから、丁稚さんのお小遣いで気楽に買う訳にはいかなかったでしょう。 ご指摘のように浅草に村野という眼鏡屋がありました。 和製の眼鏡は江戸中期以降に普及したと考えられています。 文化文政期には天体望遠鏡が作られていますからレンズの制作技術は充分あったと考えて差し支えはないかと思います。 眼鏡と言いましても現在で言えば老眼鏡です。 従って現在のように日常的に着用していたのではなく、必要の都度使用していました。 >また目上の人の前ではメガネをかけるのは失礼にあたると書いてあるサイトもありました。そうだとしたら身分の低い庶民はメガネなどかけられなかったのでしょうか。 上記のような使い方ですから、人と対話する際には外していたでしょう。 サイトの説明や理由付けにはやや説明不足や誤解があるかと思います。 顔に何かを着けるということは、博多にわかのお面のようなものだけでしたから、お祭りでもないのに人前に出る際に顔に何かを着けること自体余り好ましいことではなかった、まして目上の人には失礼だということです。 現在でも老眼鏡をかけて下へずらしたまま上目遣いで見れば失礼な奴ということになります。 相手をいい加減に取り扱っているという印象になります。 >商家の手代はどうだったか教えていただけましたら幸いです 手代さんと一口に言われましても、お店の規模によって権限が相当に違っていました。 番頭さん(現代で言えば重役さん)に次ぐ権限を持った人もいれば、精々係長級の人もいました。 蕎麦屋の手代も三井越後屋の手代も手代は手代です。 そもそも照明用の蝋燭や行燈などの油は高価なものでしたから、日が暮れればさっさと寝ていました。 筆記用具は筆と墨ですから現在の活字にような細かい文字はありませんでした。 日中お店の中でこのような大きな文字で書かれた帳簿が見難いようでは、すぐにお暇を出されていたでしょう。 客先で間違いがあったら大変です。 お婿さん候補のような有能な手代さんであれば、使わせていたでしょう。 年とった番頭さんなどであれば、必需品としてお店で用意したでしょう。 ヨーロッパでは一種のステイタスを表す装身具として扱われて発達しましたが、日本ではあくまでも実用品でした。 取り扱い方が違いますので御注意ください。 ということで、ご質問のタイトルに対しましては 必要な人が必要な時に使っていましたが、安いものではなかったのである程度経済的に恵まれている人達だけでした。 という回答になります。 遠近両用という訳にはいきませんから外で体を動かす大工さんや植木屋さんはお金が有っても使っていなかったでしょう。 手元が見えにくくなれば仕事になりませんから隠居か転職することになったでしょう。 このようなことから、珍しくはないもののそう見掛けるものでもなかったということになります。 参考 「和ガラス展」 (1)-江戸のガラスと明治のガラス : にいがた文明開化 ... hikarataro.exblog.jp/18681854 抜粋 国内で古くから仏具の玉類を作っていた玉細工師と呼ばれた集団の中からガラスレンズを造る人が現れて和製眼鏡が江戸中期頃に誕生したと言われています。 他のガラス製品が幕末まで実用品として不十分だったことを思うと、眼鏡レンズとしての眼鏡や望遠鏡は早くから実用品として活躍しました。 器用な日本人はそういった制約の中でも19世紀には多種多様な製品を造っていた事が当時のガラス問屋の引札 (製品カタログ・チラシ)からもうかがえて興味深い。 江戸の中にあった“グローバリゼーション” - 新刊JPニュース www.sinkan.jp/news/index_2809.html 抜粋 望遠鏡や顕微鏡が作られたことは様々な記録に残っているが、さらに深く生活に溶け込んでいたレンズが「眼鏡」だ。浅草には「村野」という眼鏡屋まであり、窪俊満という浮世絵師が1790年ごろの浮世絵にその店を描いているという。 ちょんまげ頭で見た天体 (第6回) www.spaceguard.or.jp/asute/a26/WATANABE/WATANABE.html 参考 徳川吉宗(1684~1751)の命を受けて、長崎のレンズ職人、森仁左衛門が天体望遠鏡を製作して献上した記録がある。 一貫斎の頃には、かなりの量の眼鏡用レンズは生産されていたようであり、少なくとも、一貫斎自身が研磨したレンズが存在することは確かであろうと考えられる。製作日誌に研磨材や研磨法について非常に詳しく記載していることがそれを裏付けている。 注)国友 一貫斎(くにとも いっかんさい、九代目国友 藤兵衛(- とうべえ) 安永7年10月3日(1778年11月21日) - 天保11年12月3日(1840年12月26日))
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- Towa_Herschel
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- trytobe
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眼鏡はオランダから大名への献上品くらいしかなかった時代で、 江戸時代の町人には手に入らない(というか、視力を測ったり視力に合わせたレンズを加工できる技師がいない)とともに、 内職が必要な農民と違って町民はそんなに夜遅くまで起きていることもなく、勉強やテレビで夜に目を酷使することもなく、視力が落ちる人は現代に比べてごくわずかだった(見るものを目に近づければ済むレベルだった)のでしょう。
お礼
すごくお詳しいご回答をありがとうございます!読んでいてとても面白かったです。 なるほど、庶民、手代といってもいろいろありますものね。質問がきちんとしていなくてすみませんでした。 >ということで、ご質問のタイトルに対しましては 必要な人が必要な時に使っていましたが、安いものではなかったのである程度経済的に恵まれている人達だけでした。 という回答になります。 そういうことなんですね、とても勉強になりました、ありがとうございました!