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千利休と禅について

kana_keikoの回答

回答No.2

利休の弟子である山上宗二が利休の言葉を書き記したとされる「南方録」には、 ・小座敷の茶の湯は第一仏法を以って修道得道することなり ・水を運び、薪をとり、湯を沸し、茶をたてて仏に供え、人にも施し、我も飲み、花をたて、香を焚きて、皆々仏祖行ひの跡を学ぶ也 とあります。 また、 ・家は漏らぬ程、食事は飢えぬ程にて事足るなり ともあります。 利休の師匠に当たる北向道陳や武野紹鴎などの時代の書院台子の豪華絢爛な茶道から、禅の思想に基づいて余分な部分を徹底的に削ぎ落としたのが利休の追求した侘び茶であったのだと思います。 したがって、茶の湯そのものが禅であると言えると思います。

toralis777
質問者

お礼

ありがとうございます。大変に大変 勉強になりました。 まだまだ kana_keiko様のお答えを 正しく自分が理解できているか 解らない状態です。 ですが 何か素晴らしいキッカケを頂いた気持ちです。 本当にありがとうございます。

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