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個の成果主義と最適チームの人数

集団から、リストラなどもあり、個の時代へ。成果主義などいわれましたね。集団でしているっ手抜きや遅いなどいわれて、個を実現などという風潮になりましたね。 何人でチームをつくればいいかはよく研究されているようですけど。一番4人~6人がチームで成績がでるとも。 個の力、自由などいわれてマニュアルをしっかりして、個の力を最大にすればいいようにというイメージなどありますね。 個人的にはですが、一人で物事を考えていたり、新しいパソコンソフトを個人で覚えているより、チームで役割で推進したほうが早いようにも思えます。 実際は、会社としては個の成果重視と、チーム重視とどちらがいいのでしょうか?

noname#228303
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  • eroero4649
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回答No.1

企業はチームスポーツですから、チームの成績重視に決まっていますよ。野球やサッカーで考えれば明白です。年棒が個人成績だけで決まるなら、ランナー二塁で右打ちしろなんて指示に誰も従いません。チームの勝ち負けに関係なしに盗塁もするでしょう。 個人プレーに走る人で有名なのがかつて近鉄の大エースだった鈴木啓二さんで、近鉄で優勝がかかるような時期になってもローテーションを崩すことが決してありませんでした。同じパ・リーグにいた野村克也さんは「チームが優勝するかもしれないってときになんでアイツ(鈴木さん)が投げないんだ?」と不思議に思い、後に解説者になったときに同じく解説者になっていた当時の近鉄の監督だった西本幸男さんに「なんで鈴木に投げさせなかったのですか?」と聞いたら「投げさせなかったんじゃない。投げてくれなかったんだよ」といわれたのだそうです。「もし無理して投げてケガしたら、責任をとってくれるんですかといわれたのでそれ以上はいえなかった」のだそうです。 近鉄バファローズというチームは最後の看板選手ともいっていいであろう中村紀洋さんも在籍当時に「全打席ホームランを狙っている」と公言して憚らないほど個人主義のチームで、「野武士集団」ともいわれてそれはそれで魅力ではあったのですが、その55年の歴史においてとうとう一度も日本一になることはできなくて終わりました(あの伝説の江夏の21球の相手になったとか、日本シリーズで3連勝した後に「ジャイアンツは(その年のパ・リーグ最下位の)ロッテより弱い」と発言して4連敗するとかそういう残念伝説に溢れています)。 さてチームの人数についてですが、それはその組織の仕事の内容によって多少は変わるでしょうね。軍隊の特殊部隊の場合は2人1組で4人チームを最低の単位とすることが多いようです。ただこれは特殊部隊の活動は目立たないようにしないといけないので最少人数にすると4人ということになるのでしょうね。 一般的な部隊では分隊が最小単位ですが、概ね10名前後のチームです。警察の分隊も10名程度で、消防の分隊は5名前後みたいです。小学校では6人程度で班が作られますね。 集団のほうが強いのは当たり前です。忠臣蔵、ご存知でしょ?お芝居のほうじゃなくて史実の赤穂浪士による吉良邸討ち入りですが、討ち入った赤穂浪士はたったの四十七人で、吉良側は少なくとも何百人もいて当然斬りあいも発生していますが、赤穂浪士側に死者は一人もいないのです。即ち完勝。それは四十七士が全員剣の達人だったわけではなくて、「3人1組になって相手に斬りかかれ」って徹底されていたからです。どんな剣の達人でも、3人が相手じゃ勝てないでしょ? ちなみに軍事の世界では「ランチェスターの法則」というのがありまして、「戦力は二乗する」といわれているのです。そういう法則が明らかになっているんですね。 例えば同じ性能の戦車10両と7両が戦ったら10両の側が勝つのはまあ誰でもわかります。もし7両の側が全滅したときに勝った側は3両残っているのかと思いきや、さにあらず実は勝った側は7両残るんです。 10両の側は二乗しますから100、7両は二乗で49、差し引きが51で√すると7.14だからです。 前述の赤穂浪士の吉良邸討ち入りもランチェスターの研究で明らかになっていることがあって、「攻者三倍の法則」といって、攻撃側と防御側の戦力差が3倍を超えると攻撃側の損害が劇的に減るということも分かっているのです。 ただビジネスの場では三倍というのは単なる人数では換算はできません。ビジネスにおける戦力はむしろマネーですから、何かのビジネス戦争で攻める側が守る側の三倍の予算を投じたら防御側に勝ち目はほとんどなくなってくるかなと思います。

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