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なぜ、日本はキリスト教を普及させた?

 種子島鉄砲が伝来し、ポルトガルからザビエルが来た事から始まり、信長が普及を認めた。  信長は、仏教僧が堕落しているとして本願寺を焼き払った事は有名ですし、秀吉の時代になってバテレン禁令を出したり、家康の時代には鎖国(オランダとは交易を開いている)という流れになっています。  特に分からないのが、薩長が幕府を倒して新政府になってからです。欧米の近代文化を取り入れる為に、大河ドラマ「八重の桜」でキリスト系の学校を作ったという描かれ方をしてますよね?  古来より日本には、神道と仏教があるのですから、欧米の国々を参考にしながら新しい神道と仏教のあり方を作る事は出来なかったんでしょうか?  それが出来なかったのは、何か弊害があったからですか?だから欧米文化をそのまま取り入れたんでしょうか?  歴史に詳しい方がいれば、教えてもらえないでしょうか?宜しくお願い致します。

  • 歴史
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  • eroero4649
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回答No.4

>欧米の国々を参考にしながら新しい神道と仏教のあり方を作る事は出来なかったんでしょうか? はい、やろうとしました。それが「廃仏毀釈運動」です。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E4%BB%8F%E6%AF%80%E9%87%88 仏教と神道を分けるということから、結局のところは割と一方的な仏教叩きとなりましたね。それはしょうがないですね、明治政府となってから、神道も天皇家の元に一元管理されていくようになったのです。 かつては伊勢神宮も周辺にお寺が一杯あって、どこからが神様でどこからが仏様なのかわからないようなカオスな状況だったのです・笑。それで明治政府はお手本とした欧米先進国がキリスト教の元にまとまっているのを見て、これを取り入れようとして白羽の矢が立ったのが神社だったのです。それまで神社の神様はてんで勝手に祀られていただけで、天皇家と縁があったのは伊勢神宮などのごくごく一部の神社だけだったのです。それを明治時代になって集約して神社は日本神話という天皇家の物語の一部として取り込まれていったのです。 だけど神道には欠点があって、それは宗教じゃなかったってことです。教えが何もないのです。いいことしたら極楽にいけるも、悪いことしたら地獄に落ちるも、そもそも「生きるとは、どういうことか」みたいな哲学は一切ないのです。宗教というのは哲学がないといけませんでしょ。 キリスト教の学校を作ったのは、欧米先進国に対して「私たちはあなたがたの神様を弾圧することはしません」というゴマスリの部分もあったと思いますよ。それで各地の宣教師さんも来日して熱心に布教活動をしましたが、失敗しました。日本においてはキリスト教は、戦国時代、明治維新、第二次大戦後に熱心な布教活動が行われましたが、まあことごとく失敗してたといっていいと思います。根っから多神教主義の日本人は、一神教というのをどうしても本質的に理解できないのだと思います。

E-Manning
質問者

お礼

ありがとうございました。 とても分かりやすくて、頭にもスッと入ってきました。

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  • ithi
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回答No.8

E-Manning さん、こんにちは。 時代遅れですね。廃仏毀釈でほとんど一方的に仏教が弾圧されたのは有名ですが、今度はキリスト教を弾圧すると(明治7年ころまでキリスト教を日本人に布教することはできませんでした。それは欧米へ留学する人も同様でした。)、キリスト教国である欧米列強を怒らせることになるし、侵略の口実を与えることになるからです。

回答No.7

 江戸時代にキリスト教を禁じた理由は、当時のキリスト教の暴力的な布教方法にあります。信長の時代には天正遣欧使節としてローマに少年を送ったことが有名ですが、この使節団がローマで見たのは、世界中の有色人種が連れ去られて、奴隷として人身売買されている場面でした。奴隷の中には日本の村々が神隠しに遭った人が大勢混ざっていました。奴隷たちは衣服を剥ぎ取られて、繋がれていたのです。  使節団が帰国した後このような事実が幕府に伝えられたので、幕府は禁教に転じたのです。ですので、「幕府がキリスト教を禁じたのは、平等精神が封建制度の維持の邪魔になったから」というのは、後の時代に書くき替えられた歴史です。  当時の日本人の宗教観は宣教師の想像以上に高いものがあり、生半可な宣教では入信しませんでした。  (1)宗教を信じる者は、たとえ宗旨宗派が違っても、争ってはいけないというのが、日本人の普通の感覚でしたが、宣教師達は西欧で繰り広げた宗教戦争を日本でも起こしてしまいました。神社や寺を焼き討ちにする蛮行には恐怖を感じたのです。  (2)キリストでは入信せずに死んだ祖先を地獄から救うことはできないと教えられます。仏教で先祖供養を続けている民衆には、キリスト教は力のない宗教だと考えられました。゛  (3)宣教師が訪れた時期にかどわかしが多発すれば、誰が村の娘を連れ去ったのか、証拠はなくとも大凡の予測は付きますし、噂も立ちます。  キリシタン大名は宣教師との貿易で利益を上げるのが入信の目的でした。その際(3)は黙認していたのです。幕府が禁教令を出したのは(1)が原因です。  明治維新後は信教の自由が認められましたが、文明開化の潮流の中で西洋の思想が一気に流入してきたことによります。この時にキリスト教が許されるようになったのです。西洋文化を積極的に取り入れる姿勢が、江戸時代の禁教の反動と相まったことによります。 >神道と仏教のあり方を作る  日本古来の宗教は神道であり、あくまで仏教は外来です。大化の改新時代に仏教を受け入れるか否かで議論が二分したことを歴史で習います。受け入れが決まってからは、神道と仏教が争うことなく、一部は融合しながら発展してきました。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.6

家康の時代には鎖国(オランダとは交易を開いている)という   ↑ その他に、中国、朝鮮と貿易 していました。 それが出来なかったのは、何か弊害があったからですか? だから欧米文化をそのまま取り入れたんでしょうか?     ↑ 文化を取り入れる、ということは宗教も 取り入れる、ということです。 かつて日本は中国から仏教や儒教を取り入れました。 それが、欧米に変わっただけだと思います。 つまり、日本は外国から文化を取り入れて、咀嚼し 加工して、我が物として来た歴史を持っています。 だから欧米の文化もすんなりと受け入れることが 出来たのです。 出来なかったのが中韓です。 そのため、日本に遅れを取ったわけです。 少年世大志を抱け、で有名なクラーク博士も こう述べています。 欧米の科学技術を学び、追いつくためには 文化も受け入れる必要がある。 日本の支配層は、こういうことを理解して いたのだと思います。

  • tododesu
  • ベストアンサー率36% (28/77)
回答No.5

江戸時代の神道は、神仏習合思想(神社の神様とお寺の仏様は、あの世の上では同じ存在という考え方)により、お寺が管理している場合がほとんどで、今の神道とも、その前の神道とも違うものだったと思います。 明治政府の人達から見ると、西洋のキリスト教は教義も判りやすく、新鮮で、西洋諸国の力の源泉のように感じたのに対して、仏教や神社はいかにも古めかしくて、使えないという印象があったのでは。 その上、お寺の住職(神社も管理)は地域の有力者になっていて、明治政府からみると邪魔でしたので、廃仏毀釈令で全国のお寺の財産を没収し、神社をお寺から分離してから、国家神道という新しい宗教を作り出したわけです。 (因みに現在のお寺の多くは、その時期に還俗させられた住職さんたちとお寺の信徒さん達が私財をなげうって買い戻したもので、買い戻せなかったところは廃寺になりました。) つまりは、それまでの仏教と神道はつぶして、国民全体を国家神道のもとに統一するということで、欧米の国々を参考にしながらやっていたのだと思います。 ただし、第二次大戦後は、神道は本来の神道の思想に近づいて、国家神道の考え方は薄くなっているのではないかと思います。(私は仏教側の人間なので、神道の方はわかりません。) そして、仏教は葬式仏教になってしまったわけで、現在、本来の仏教に戻るか、消えるか・・を模索している状態ではないかと思います。 それから、信長が焼き払ったのは本願寺ではなく比叡山で1571年です。石山本願寺とは1570~1580年にかけて戦闘がありましたが、講和して最終的には信長が占領しました。 信長がそこにあった本願寺の施設を焼き払うか、撤去したのは確かだと思いますが・・・、大雑把に書きすぎているような気がします。 私が思うには、その頃の大きな仏教寺院はだいたい僧兵と広大な荘園をかかえていて、ちょっとした大名なみの軍事力があったので、その頃、見せしめとして手頃だった比叡山(鉄砲主体の僧兵部隊がなかった)を皆殺しにしたのだと思います。 石山本願寺の蓮如は、カリスマ性があって各地の大小寺院とのネットワークがある上に、根来寺(堺・国友とならぶ鉄砲の三大生産地)の諸勢力とも連携していて、信長はその鉄砲隊に大苦戦しました。ですから、ようやく講和に持ち込むことができた状態でして、焼き討ちなど無理だったのでは。 なので、比叡山の僧侶は堕落しているという宣伝のもとで焼き討ちにして見せしめにし、本願寺も退去させた・・・と宣伝したのが、現在も信じられているということだと思います。 実際、その後、日本では政教分離が進み、宗教は政治には関わらないという伝統が作られました。一方、西洋では宗教は政治的な力ももち続けています。 私の個人的な印象ですが、おおまかに、かつ、大胆に言うとこんな流れかと思います。

回答No.3

国が特定の宗教を強制したり排除したりしないことが、多くの近代国家の憲法により保障されているからです。 政治と宗教が結びつくと、人権が著しく侵害される他、国家が分断したり、侵略戦争を引き起こすなど不安定になりがちだからです。 明治憲法は神道を文化と位置づけ、宗教の自由との整合性を取っていました。

  • gipan991
  • ベストアンサー率14% (1/7)
回答No.2

歴史に詳しい方がいれば、教えてもらえないでしょうか}」←歴史に詳しくても 宗教に疎い人は沢山居ます・・ 歴史と宗教心とは切り離して考える必要がある・・ 本当は繋がってるのだが 理解出来て無い人には 繋がりも判らないので・・

  • shintaro-2
  • ベストアンサー率36% (2266/6244)
回答No.1

>古来より日本には、神道と仏教があるのですから、欧米の国々を参考にしながら新しい神道と仏教のあり方を作る事は出来なかったんでしょうか? 一神教と多神教ですから無理です。 それをやったら、キリスト教ではありません。

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