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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:開戦日の午後7時に放送された録音の場所はどこですか)

太平洋戦争開戦日、録音の再生場所はどこ?午後7時放送の経緯を解説

このQ&Aのポイント
  • 太平洋戦争の開戦日、正午の開戦詔書の奉読と続く東条首相の放送は生放送か録音の再生か、その経緯について解説します。
  • 首相官邸の放送室からの中継生放送が行われ、中繋によって東條総理の放送が再生されました。
  • 録音された場所については、放送会館での録音が考えられますが、詳細は不明です。

質問者が選んだベストアンサー

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  • shingo5k
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回答No.7

#6 の回答者です NHKアーカイブスのWeb頁には「詔書奉読」と「大詔を拝し奉りて」 の音声が録音資料として掲載されています。 ところがこれらはフィルム録音とは異なるレコード円盤の以下の特徴を持っています。  1 後半になるにつれてノイズが減る    (初めと終わりで6~8dBの差(@6KHz)があり、聞けばわかります。  2 大詔を拝し奉りては2本に分割されている そこで、これらはフィルム録音と円盤録音が同時にされて、 NHKアーカイブスのWeb頁には円盤録音だけを掲載したのではないかと 推測しましたがいかがでしょうか

staratras
質問者

お礼

重ねてのご回答ありがとうございます。

staratras
質問者

補足

ご教示ありがとうございます。 重要な録音の場合、複数の録音機で収録することは機器の信頼性が向上した現在でも行われていることなので、確かに最初にフィルム式と円盤式の2台で収録した可能性もあるかもしれませんね。ただ、現在残っている音源が最初にフィルム式録音機で録音したものから円盤にカッティングしたものである可能性も考えられます。 というのは仮に質問者が当時の放送局の担当者だったと想定した場合、総理大臣の放送という貴重なオリジナルの音源を、何回も繰り返して放送(運行)業務に使用することには不安があるからです。 この「大詔を拝し奉りて」は、12月8日当日だけでなく、その後毎月8日の大詔奉戴日に数十回も再放送されたそうですから。元の音源は大事に保管して、毎月の放送用にはこの音源から録音盤にカッティングしたもの(またはご回答のように最初に円盤にダブルで録音したもの)を使ったのではないかと想像します。 しかしその後フィルム式録音機は使用されなくなってしまったため、録音したフィルムが残っていても再生できなくなり、現存するのは録音盤の音源だけではないかとも考えますが、これも想像の域をでません。 なお当時「録音放送」のために録音盤を使用することは多かったようで、「日本放送史」(昭和26年3月)には、「昭和14年5月、放送会館へ移転後は、その(月平均)使用量は急激に増加し、14年9月頃には400枚、15年半頃には700枚、16年秋頃には1000枚以上に増加した」とありました。 ところでNHKのアーカイブスのサイトで、二つの「大詔を拝し奉りて」の音声を聞くことができました。 一つは「戦時録音資料」の「開戦時のラジオニュース」(昭和16年12月8日のラジオ(二)正午の放送より「大詔を拝し奉りて」)で、もう一つは「ニュース映像」の「日本ニュース第79号」の冒頭です。 後者の「日本ニュース」の方は、音質が違いますし、「ニュース映画」であることを考えると最初から音声付きの映画(トーキー)として撮影(録音)されたのであろうと推測されます。(こまかな読み方の違い(言い直し)から見て、前者の放送とは別の撮影(録音)だと思います)

その他の回答 (6)

  • shingo5k
  • ベストアンサー率33% (123/366)
回答No.6

>>そこで新たに生じた疑問は、録音した場所です。 はじめに録音か生放送かの質問をしたものです。 資料を提示できないので、ご希望には沿いませんがご容赦ください。 首相官邸と内幸町の放送会館の中継方法は次の3つの可能性があります。  1 無線での中継  2 電話回線  3 ラジオ放送専用の中継回線 電話回線は帯域が狭い(3.4KHz)のでラジオ放送には向きません。 首相官邸と放送会館は近い(1Km)ので、首相官邸に放送室を作る際には 10KHz程度の帯域を持つ「ラジオ放送専用の中継回線」で両者を繋いだ 可能性が高いと思います。 この点で資料などをお持ちの方は、ご提示いただけると助かります。 そうであれば、放送会館で高音質(帯域10KHz程度)の録音ができる ので、わざわざ首相官邸へ録音機材を持ち込む必要はありません。

staratras
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ラヂオ年鑑(ラジオ年鑑)は、貴重な基本史料だと考えますが、残念なことに昭和15・6年版以降、防諜上の理由などから技術的な記述が極めて少なくなっています。

staratras
質問者

補足

質問者も首相官邸と放送会館の間には専用の放送用のケーブルが敷設されていただろうと考えます。ラヂオ年鑑の第1号である昭和6年版には以下のように書かれていました。(以下引用) 放送用線路として特に必要となる条件は、線路障害即断線、地気等の事故発生の尠きことと、誘導、漏話等の妨害の尠い事で、此点から言ふと「ケーブル」線路が適当であるが、「ケーブル」線路は架空裸線路の場合に比して建設費が著しく高上するのみならず、線路の通話勢力減衰が多くなる欠点があるので、此等の点を考慮し放送所演奏所間の連絡線は特殊施設の地下「ケーブル」を使用し、中継線は逓信省線路借用の部分を除き殆ど大部分は架空裸線を使用して居る。(505・7頁) この時代は、町中にある演奏所(スタジオなどのある放送局)と郊外にある放送所(アンテナのある送信所)の間に音声信号を伝送する必要があり、放送開始間もない時点でこの用途にはすでに専用の放送用ケーブルが使用されていたことがわかります。 まして首相官邸に放送室が作られたのは昭和15年であり、内幸町の放送会館までは距離も短く、特に重要な連絡線ですので、専用の放送用ケーブルを敷設していたであろうと考えられますが、具体的な記録は未見です。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.5

 #2です。捕足です。 >>初期のラジオは今のように個人で楽しむものではなく、当時の祖父母のように大人数で聞いていたところもあったようです。  農家ですと、12月は農閑期ですから、ラジオのある家に集まる余暇もあったのでしょう。ただしお話のように夕食後の話で朝や昼間の放送は余り聞かなかったのではないかと思います。  町では、夫は仕事、妻は家事、子供は学校、で夕方までは家に居ない時間が多かっただけでなく「隣は何をする人ぞ」と近所付き合いも農村とは違っていました。  僕たちが、泊まり込みで勤労動員に駆り出された場所には、ラジオはありませんでした。まあ放送した方は、「全国民」に伝えたつもりかも知れませんが、、、

staratras
質問者

お礼

たびたびのご回答ありがとうございます。

staratras
質問者

補足

戦争中のラジオ放送の受信については、電波管制で出力を低下させたり、敵機に利用されないよう同一周波数で放送したりするなど、聴取者が不便になったことも多かったようですが、細かな点は忘れ去られようとしているようで、貴重な体験談を教えてくださいましてありがとうございます。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.4

 #2です。捕足です。 >>この質問の背景には、首相官邸にラジオ放送用の「放送室」が新設されたことからも分かるように、大正14年(1925年)に始まった日本のラジオ放送が、国のトップが直接国民に訴えかけるメディアとして使われるようになったのがこの時期であり、東條首相はラジオの持つ力を十分理解していたと考えられることがあります。  いろいろと教え下さってありがとうございます。  僕は単に、当時はラジオが普及していなかったから、聞く耳が(=ラジオが)無ければいくら繰り返しても余り効き目は無かったと言っているだけです。

staratras
質問者

お礼

再三のご回答ありがとうございます。 確かに昭和16年12月31日現在のラジオの普及率(百世帯あたりの聴取加入数)は全国平均で44.1%に過ぎず、半数以上の世帯にはラジオがありませんでしたので、「(開戦の日)国民は一日中、ラジオに吸いつけられていた」というような「放送史」の記述は、鵜呑みにせず多少割り引いて読む必要がありそうです。ただしこの普及率は地域差が大きく、東京中央放送局管内が最高で57.6%、仙台中央放送局管内が最低で27.4%でした。 なお昭和19年にはようやく普及率が50%をわずかに超えましたが、空襲で多数の住宅(ラジオ)が失われたこともあり、昭和20年には39.2%まで落ち込み、再び普及率が50%を超えたのは昭和24年になってからでした。

staratras
質問者

補足

九州の農村の地主の息子だった質問者の祖父は新しもの好きで、昭和の初めにその地方で最初にラジオを購入して聞きました。毎晩大勢の小作人がそのラジオを聞きに来るので、祖母はその人たちにお茶請けとして出すため、毎日二つの大きな釜に野菜の煮付けを作って大変だったと言っていました。 初期のラジオは今のように個人で楽しむものではなく、当時の祖父母のように大人数で聞いていたところもあったようです。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.3

 #2です。捕足です。 >>この中村アナウンサーの「詔書奉読」と東條首相の「大詔を拝し奉りて」は開戦当日に2回放送されただけでなく、12月14日にはこの他の録音も加えて「勝利の記録」として放送されました。また翌昭和17年以降も毎月8日の「大詔奉戴日」に繰り返し放送されています。  情報ありがとうございます。  我が家の持ち家の一軒が新しもの好きで、ラジオを持っていて「大変だ、大変だ」と朝早くやって来たのを覚えています。父は「俺は会社があるから」と自転車で出て行きました。  我が家もラジオを買おうかななんて話が出ていましたが、短波のラジオは、憲兵隊が家宅捜索に来て、全部押収された後だったので、家には中波のラジオはまだ無かったと思います。  靴下を二足重ねて履いても講堂の板の床の冷たさが伝わって来る日で、校長先生が何を言おうと足が冷たくて耳に入りませんでした。もうシナとやってるのになぜハワイまで行くの?  ま、日本国民全部がラジオに食いついていた訳ではありませんから、日本放送協会や総理は、かたや開戦に関しては秘密の保持、かたや詔書の広報と苦労しただろうと思います。

staratras
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 太平洋戦争の開戦はもちろん事前には厳重に秘匿され、日本放送協会でも当日午前6時の陸軍省での発表までは分かりませんでした。ただし米英との戦争になるのではないかという意識は広く社会に存在し、「明日何か発表があるらしい」という事前の情報があったため、放送局では臨時に報道部の宿泊者を1人増やしていたということです。 陸軍省での発表を聞いた報道部員から電話で送られてきた原稿をこの臨時の宿泊者が書き取り、急遽逓信省に放送許可を求めた上で、スタジオにいた館野守男アナウンサーが、臨時ニュースのチャイムを鳴らして読み上げたのが「大本営陸海軍部発表。12月8日午前6時。帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋において、米英軍と戦闘状態に入れり」という、あの有名な午前7時のニュースです。当然これは生放送で録音などではありませんでした。

staratras
質問者

補足

この質問の背景には、首相官邸にラジオ放送用の「放送室」が新設されたことからも分かるように、大正14年(1925年)に始まった日本のラジオ放送が、国のトップが直接国民に訴えかけるメディアとして使われるようになったのがこの時期であり、東條首相はラジオの持つ力を十分理解していたと考えられることがあります。 これは国際的な潮流でもあり、ヒトラーやスターリンのような一党独裁体制の指導者だけでなく、ルーズベルトやチャーチルのような選挙で選ばれたリーダー、さらにはド・ゴール将軍のような亡命中の政治家もラジオ放送によるプロパガンダを効果的に活用しています。その有力な手法の一つが「同じ内容の繰り返し」でこのためには録音が重要になると考えられます。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.2

 僕はその頃日本にいましたが、放送があった云々は、今初めて聞きます。だいたい今と違ってラジオのない家があり、「われ奇襲に成功せり」みたいなことを予知していませんでした。  大体、奇襲と言うのは前もって誰にも知らせないから「奇襲」なので、その日は一日中「軍艦マーチ」(下記)の放送で、何かあったのかな、ぐらいのことでした。  https://www.youtube.com/watch?v=iDcvlV0Lb8s

staratras
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 開戦当時小学校高学年以上だった親族の話を聞いても、開戦を伝える朝のラジオニュースの印象は強いのですが、当日が平日(月曜日)で登校(出勤)したこともあり、正午の放送については記憶がないようです。旧制中学の生徒だった亡父はこの日学校で「緊急朝会」が開かれ、校長の訓話があったと言っていました。

staratras
質問者

補足

この放送の録音は、「玉音放送」のようにレコードのような形状の円盤に記録する「円盤式録音機」ではなく、35ミリの写真フィルムを半裁したものに光学的(初期のトーキー映画も同様の方式)に録音する「フィルム式録音機」が使われたことまでは判明しました。このフィルム式録音機は音質が良いのですが、フィルムを大量に使用する(3000フィートで33分または50分録音可能)ため、経費がかさみ、時局柄フィルムの入手が困難になってきたこともあって、この日の録音を最後に利用されなくなったということです。「日本放送史(昭和26年3月発行)」963-4頁 当時の東京中央放送局にはこのフィルム式録音機が2台あり、1台は内幸町の放送会館に置かれた「据置用」で、1台は自動車に搭載され蓄電池で作動する「録音自動車」でした。そのどちらが使用されたかは「日本放送史」には書かれていません。歴史的な重要な放送となることは事前に理解されていたでしょうから、現場(首相官邸)と放送会館のダブルで録音した可能性もないとはいえず、よくわかりません。ひとつの疑問の答えがわかるとさらにその先の疑問が生じるー放送の歴史もなかなか奥が深いと感じます。 この中村アナウンサーの「詔書奉読」と東條首相の「大詔を拝し奉りて」は開戦当日に2回放送されただけでなく、12月14日にはこの他の録音も加えて「勝利の記録」として放送されました。また翌昭和17年以降も毎月8日の「大詔奉戴日」に繰り返し放送されています。

回答No.1

疑問も何も当時の録音はすべて当時のNHK本社ですよ 玉音放送は別として

staratras
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。

staratras
質問者

補足

常識的に考えれば、中継放送の会館収録の方が手間がかかりませんので、ご回答の通りだと思います。ただ玉音放送以外でも当時は現場録音も行われていて、質問に引用した「ラジオ年鑑(昭和18年版)」では、わざわざ「録音放送」なる一節を設けて、その詳細を伝えています。このため「首相官邸の現場ではなく会館で収録した裏付けとなる資料」を探しています。

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