• 締切済み

「聖断」は国体維持が目的だった

ゆのじ(@u-jk49)の回答

回答No.6

国体維持が、そのまま国民を救うことになっている。あの時、天皇が処刑されていたら、アメリカとの「安保条約」はどうなっていたか、軍備をアメリカに依存して来たゆえの「高度成長」は可能だったかを考えてみましょう。「天皇」を殺された敗戦国の国民は「ポチ」どころか、もっともっと酷い「奴隷」的扱いを受けていたのかも知れませんよ。 戦争責任ということで、天皇をアメリカを中心とする連合軍が処刑していたら、アメリカに対する国民感情が、現在のようになっていたでしょうかね。「統帥権」というものがあったとしても、それを天皇が振り回したというわけではなく、そういう憲法規定を軍部が利用して、戦争を主導したというのが真実。戦争責任、処刑と言うのは無茶。

noname#211103
質問者

お礼

ありがとうございます。 国体維持=国民の命を救う イコールなんですね。 天皇の指揮権は形というだけで、実際はなかったも同然、周囲に利用されてたということでしょうか?

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