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「若公家衆法度」とは?
fumkumの回答
NO2の回答について追記と訂正をしたいと思います。 和歌の古今伝授を突然持ち出したので、びっくりされたことだろうと思います。当時、古今伝授を受けることは、現在で言えば、文化勲章を授章し、学士院院長と芸術院院長を兼ねたような権威を持ったようなものです。当時の公家社会の学芸の中心は和歌ですので、和歌を第一に、多様な文芸の発展を促進し、公家文化の復興を果たすことになります。その中心に後水尾天皇上皇が存在し、京都の町衆と文化的な交流を通じて公家文化が町衆に享受され、さらに町衆を通じて武士にも流れ、京都・江戸の二つの中心を持つ寛永文化が花開くことになります。 後水尾天皇の事績をまとめると、公家社会の文芸復興の中心であり、親政・院政を通じて幕藩体制の枠組みの中での天皇・朝廷の秩序を形成・確立することだったとすることもできます。『若公家之御法度』に上げる、学問稽古と、行動禁止項目は、後水尾上皇の生涯追究した内容ということにもなります。 付言すれば、後水尾天皇を中心に復興された公家(宮廷)文化は、町衆、武士と享受されるわけですが、それが逆に雅なる公家(宮廷)文化への憧れを生み、天皇・公家は文化的な権威を江戸時代を通じて持つことになります。さらに江戸時代を超えて、現代でも三島由紀夫の「文化概念としての天皇」像に繋がっていきます。 *寛永文化は、元禄、化政文化に比して、認知度が低いですが、現在の高校の日本史の教科書でも、寛永期の文化、寛永文化として取り上げられています。 寛永文化 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%B0%B8%E6%96%87%E5%8C%96 NO2の部分で説明を省略した部分があり、わかりづらい面があったことと思います。上記のように細くさせて戴きました。また、NO2の文末で、定理という単語を用いましたが、定説の方が適切ですので訂正させていただきたいと思います。 では、駕籠で。
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お礼
追加のご回答ありがとうございます。 「寛永文化」という用語は初めて聞きました。 大変参考になりました。 >付言すれば、後水尾天皇を中心に復興された公家(宮廷)文化は、町衆、武士と享受されるわけですが、それが逆に雅なる公家(宮廷)文化への憧れを生み、天皇・公家は文化的な権威を江戸時代を通じて持つことになります。 >さらに江戸時代を超えて、現代でも三島由紀夫の「文化概念としての天皇」像に繋がっていきます。 天皇・公家が、江戸時代を通じて、文化的な権威としての立場を貫いていけたこと、よく分かりました。 「定説」が適切であること、分かりました。