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「若公家衆法度」とは?
思いつきでなんでも質問して恐縮ですが、wiki「禁中並公家諸法度」の説明の中に 「寛永8年11月17日(1632年1月8日)には、後水尾上皇の主導で、青年公家の風紀の粛正と朝廷行事の復興の促進を目的とする「若公家衆法度」が制定された。」とあります。 「朝廷行事の復興の促進」とありますが、どんな行事を復興させねばならなかったのですか、教えてください。 よろしくお願いします。
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- 正誤問題
(1)1615年朝廷統制のための禁中並公家諸法度が定められ、天皇・朝廷は栄誉の源泉として機能することになり、幕府否定の論拠は消失した。 (2)朝廷を統制する機関として幕府は京都所司代を設置し、旗本2名が任じられた。また、朝廷側でも公家2名が武家伝奏に任命され、役料を幕府が与えるなど朝廷統制の一翼を担った。 (3)1601年から段階的に寺院法度が宗派ごとに制定され、寺院は権力からの自立性が否定された。 (4)寺請制度により、江戸時代の民衆は檀家として所属しキリシタンでないことを証明させた。これにより、制度上は全国民が仏教徒になり江戸時代を通じて隠れキリシタンも含めキリシタンは存在しなかった。 この中で正解が2つあります。 どれでしょうか? また間違っているものはどこが違っているのでしょうか?
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- 柳沢出羽守と松平出羽守の両立は武家名乗り?本物は?
勉強になっております。語句など知識に間違いがあれば遠慮なくそれもご指摘下さい。最適な用語を学びたいと思っています。 1.出羽守の官職を持つ、公家がいたのでしょうか。 2.出羽守に限らず、○○守、○○介など武家と官名が重複する官職を持つ公家がいたのいたのでしょうか。 3.江戸時代の武家官位は員外官とありますが、同時に、それは官職ではなく、官名だけだとあります。そういう名前だけものを員外官というのでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%AE%98%E4%BD%8D 禁中並武家諸法度で決められてからの名乗りに代わる言葉、「武家官位」などという後世の歴史用語でない、他の言葉がありませんか。法度では何かしらの言葉で表現されているはずですが、武家の官名なのでしょうか。「名乗り」は公式用語ではないように思うのですか。 ちなみに名乗りとは位階も含まれるのですよね。すると、 4.言葉遣いに苦慮される人は多いと思うのですが、 官名と言えば「○○守」などを指す言葉として歴史話が通じるのでしょうか。律令制の地方官の官名に限った用語はないのでしょうか。 5.武士の間では、官名を、どのように呼んでいたのでしょうか。会話としては「そちの名乗りはなんじゃ」と言っていたのでしょうか。幕政上の公式では「そちの官職はなんじゃ」でしょうか。 幕府と朝廷では公式には何という言葉で事務処理されていたのでしょうか。 6.柳沢出羽守も、松平出羽守も、勅許を得ているはずですから、 (先のリンクより) 「そのまま官途名として認められた位記・口宣案」については、いくらでも発給できたということになりますよね。朝廷側の名簿はなんというのですか。やはり武家専用の別の名簿ですか。やりたい放題の名簿。 8.しかしながら、将軍の官位、例えば、正二位、内大臣、右近衛大将、征夷大将軍は、官名だけでは、ありませんよね。しかし松平出羽守は武家官位で名前だけ。朝廷的に、本物と偽物が混在しているということになりませんか。大名は本物で、幕臣陪臣は「武家官位」。ひょっとして、幕末の小栗上野介はもちろん名前だけの武家官位だが、高家旗本の吉良上野介は、朝廷からもらった本物だったから、高家と言えるのであって、実力のある官位だったとか? 9.素人ながら「武家の官位」の上下には敬意を感じぜずにおられなかったのですが、それが「武家官位」であれば、朝廷的には、本来の物とは別の名ばかりの代物だったわけですか。その権威が武士社会では有効だったということでしょうか。 柳沢出羽守と松平出羽守の重複問題は、官職の重複自体には、何の問題もなかったということですよね。幕政上、区別できなくなるというだけのことですよね。 公家の方にも出羽守がいるとすれば、公家では○○守の官名の重複は許されませんよね。律令国に一人ですからね。 部分的で結構ですので宜しくお願いします。
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- どうして豊臣秀吉は、関白。徳川家康は征夷大将軍
になったのでしょう。 官位につくには出自が重視されるので、豊臣秀吉は近衛家の養子になり、征夷大将軍に任ぜられようとしますが、これを自ら断り関白を任ぜられます。 関白は、天皇と協議して合意を取りながら政務を行う職として、慣例として天皇の代理人として天皇と太政官の政治的なやりとりについて事前に把握したり関与する権利があり、実質上、統制権をもつものと認識しています。 一方、徳川家康は清和源氏と称し、征夷大将軍に任じられます。征夷大将軍は、天皇勅令のもと、武家政権の長とする地位に任ぜられます。 当時は、武家の勢力が強く、朝廷は権威を保ってはいたけれど実質的な政権は武家勢力が握っていたものと推測しています。 そのため、官位については表向きは朝廷が任じようと、実は武士側の方で公家の養子になったりして出自を高貴なものにすれば選べたのではないかと考えています。 どうして、豊臣秀吉は、征夷大将軍職を断り、関白を選んだのでしょう? そして徳川家康は関白ではなく征夷大将軍職を選んだのでしょう? 結局、その後の徳川家は幕府を設立し、禁中並公家諸法度を作成して朝廷を統制し、政治における実権を握ったことを考えると徳川家康は、武家の棟梁としての位を望んだのも頷けます。 しかし、豊臣秀吉も関白として同じことができたのではないかと思います。 自分の考えでは、豊臣秀吉は幕府を作ることは考えておらず、平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。 逆に徳川家康は武士の時代と考え、朝廷からの実質的な政権を奪うことをもくろみ征夷大将軍職についたのかと考えています。 自分には歴史の知識があまりないため、このあたりの政治的な部分に興味があり、いろいろ文献を読んだのですが、なかなか答えがだせません。 そのため、皆様のご高説を賜りたい次第です。
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彼女がクリスチャン(二年前から)なのですが,彼女の教会はどこの衆派にも属さず, 単純に聖書を拠り所としているだけらしいです. その割に,シンガポールやドイツで世界中から人を集めた大規模な聖書研究の合宿等が行われたりしているようです。 もやっとした質問なのですが,そのような(自称?)独立した教会の,キリスト教界隈における位置づけや,(もしあれば)教義の特色等を教えていただきたいです.
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お礼
追加のご回答ありがとうございます。 「寛永文化」という用語は初めて聞きました。 大変参考になりました。 >付言すれば、後水尾天皇を中心に復興された公家(宮廷)文化は、町衆、武士と享受されるわけですが、それが逆に雅なる公家(宮廷)文化への憧れを生み、天皇・公家は文化的な権威を江戸時代を通じて持つことになります。 >さらに江戸時代を超えて、現代でも三島由紀夫の「文化概念としての天皇」像に繋がっていきます。 天皇・公家が、江戸時代を通じて、文化的な権威としての立場を貫いていけたこと、よく分かりました。 「定説」が適切であること、分かりました。