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「若公家衆法度」とは?

fumkumの回答

  • fumkum
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回答No.1

こんにちは 戦国時代の公家には将軍(後に信長にも)昵近衆という存在があり、将軍に扈従する公家がありました。また、それと多く重なる公家で、陣参の公家(陣参衆)という存在もあり、実際に戦闘に参加することは少ないとはいえ、将軍(信長にも)に従がって従者を率いて従軍する公家も存在しました。日野、飛鳥井などの公家で、将軍から直接扶持を得たり、地頭と任じられ、御家人としての面も持った公家であり、代々昵近衆、陣参衆となる者も多くありました。戦国時代はこのような陣参衆だけでなく、多くの公家が京都を離れ、地方に流寓し、土佐一条氏、伊勢北畠氏、飛騨姉小路氏などの様に戦国大名かした公家もあり、さらに大内義隆の滅亡(陶隆房-晴賢-の乱・大寧寺の変)に際して巻き込まれて殺害された関白二条尹房など戦国の荒波は公家をも巻き込んでいました。その中で、公家であっても武士と同じように武芸に励み、武装する者もありました。また、多くの公家は家領を奪われ、零落した者も多く存在しました。 江戸時代に入っても、旗本奴達と同じで、戦国の遺風が残る中、公家にも「歌舞伎者」が存在し、大脇差をさして、異風な姿形で出歩き、夜な夜な町中を徘徊する公家のイメージとかけ離れた公家が存在し、公家社会では問題化します。問題は、上記のような行動だけにあるのではなく、公家の貧窮化により*公家の家職として伝えられてきた学問・技芸が、存続の危機にさらされたことにもありました。 そのため、豊臣時代にも「諸公家、諸門跡家々の道を嗜まれ、公儀御奉公を専らにせらるるべき事」との掟も定められ、江戸幕府成立後の『公家衆法度』でも次のような条文があります。 1、公家衆家々の学問、昼夜油断なきよう仰せ付けらるべき事 2、老若によらず行儀法度を背くの輩はきっと流罪に処すべし 3、略 4、夜昼とも指(さ)したる用なき所、町小路徘徊、堅く停止の事 5、略 この『公家衆法度』の発展として、『禁中並公家諸法度』が成立する訳です。つまり、公家関係の法度・掟は、公家に公家らしい行動と、家業への精進を求める一貫した姿勢があります。 *公家の家職として伝えられてきた学問・技芸=例えば、冷泉家の和歌(歌道)、西園寺家の枇杷、三条西家の香道など。 さて、『若公家之御法度』では、禁止事項として、「集団での寺社参詣、芝居見物(慶長17年の公家関係の年表に芝居見物の記述があります)、鞍太鼓の稽古、鉄砲の稽古、兵法の稽古、相撲見物、三線、遊戯、過差好み、馬・鷹の飼育、銭湯風呂、歯白」を具体的に挙げ、最後に「学問稽古の事」で締め括っています。「青年公家の風紀の粛正と朝廷行事の復興の促進を目的とする」の部分は、Wikiに『禁中並公家諸法度』の記述の事だろうと思いますが、『若公家之御法度』の条文自体は、「青年公家の風紀の粛正と家業・学問の復興の促進を目的」としていると考えた方が良いのだろうと思います。 ただ、学問の内容ですが、後水尾上皇の天皇在位時に、和歌・書道・音楽・連歌・有識・儒学・連句・詩文などを学ぶ「禁中御学問講」が実施され、一時は公家全体に参加するようになっています。また、『若公家之御法度』が発布された寛永8年4月には、「若衆稽古御会」と呼ばれる和歌会が開催され、翌年には40歳以下の公家が参加を強制されるようになり、欠席理由を調査されるなどになります。 さらに、寛永11年には家業の修養、精進、和歌以外の学問の学習が求められ、有職故実、歴史書、古典文学の読書、学問が奨励されるようになります。このように公家としての広い教養のもとに、家職に精励することが求められる一方、学問の精励を含め公家らしい行動が若い公家に求められたものが『若公家之御法度』であると思います。まt、『若公家之御法度』の発布は、『公家衆法度』『禁中並公家諸法度』などの公家に関する法度、掟などに底通する考え方に基づく内容でもあります。 以上、参考まで。 ところで、先日まで「駕籠」についての質問が存在していたように思うのですが、取り消されたのでしょうか。一応、町人・商人・村役などの(自家用の)乗物や駕籠として残されている駕籠は、法仙寺(宝仙寺・法泉寺)駕籠と呼ばれる種類の駕籠だと思われます。この法仙寺駕籠は、東京の中野にある宝仙寺の僧侶が使ったので名付けられたとも言われる駕籠で、下級の武士、豪商、医師などが用いたとされ、百姓、町人で用いることのできる最上の駕籠とされています。以下の写真が法仙寺駕籠です。 http://ks.c.yimg.jp/res/chie-ans-152/152/721/440/i320 http://homepage2.nifty.com/RYUUGEno66/ 駕籠に関する他の質問についても資料を集めたのですが、結論が出ない項目があって、文章化が進まないのですが、連休明けまで待っていただければ、このページに追記ができるのではないかと思います。

kouki-koureisya
質問者

お礼

丁寧なご回答真にありがとうございます。 戦国時代の公家の実態から教えてくださったので、とても理解しやすかったです。 戦国時代の公家は、いったいどうして暮らしていたのだろうと思っていました。 「多くの公家が京都を離れ、地方に流寓し、土佐一条氏、伊勢北畠氏、飛騨姉小路氏などの様に戦国大名かした公家もあり、(略)」というようなことは、教科書には出てきませんので、よく分かりました。 そして、江戸時代に入っても、「歌舞伎者」の公家がいたのですね。 さらに、「公家の貧窮化により公家の家職として伝えられてきた学問・技芸が、存続の危機にさらされたことにもありました。」ということ、ここが重要だと思いました。 >…『若公家之御法度』の条文自体は、「青年公家の風紀の粛正と家業・学問の復興の促進を目的」としていると考えた方が良いのだろうと思います。 家業・学問の復興ということですね、よく解りました。 禁止事項の最後に“歯白”とあるのですが、これは“お歯黒せよ”の意味でしょうか。 Wikiで調べて見ますと、江戸期、皇族・貴族も“お歯黒”していたそうで、女性だけではないことに驚きです。 そういえば、明治天皇も幼少の頃、化粧してお歯黒だったのではないか、と思います。 後水尾上皇についても調べてみました。 幕府の干渉と圧迫(女帝への譲位、紫衣事件、春日局参内など)がいっぱいあったのですね。 修学院離宮も造営されたのですね。 上皇を取り巻く情勢に想いを巡らすと、造営したいという上皇の気持ちが少しは分かってきました。 歴史を大いに楽しむことができました。 ご教示に感謝申し上げます。

kouki-koureisya
質問者

補足

駕籠に関する質問を早々と取り下げてしまって真に申し訳ありません。 再度、質問しますのでよろしくお願いします。

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