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神とは ひとを元気づけてくれるチカラ

stmimの回答

  • stmim
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回答No.6

回答の続きです。 >☆ きよらかなおそれは ただひとつの普遍神に対してでなければ 持ち得ません。 私もそう思うのです。「おそれ」こそが神を成り立たせていると。 「おそれ」は進化の過程で動物が獲得した有用な能力です。 「おそれ」があるからこそ、動物は危険をさけることができる。 人間を襲う捕食者は事前に「私はここにいますよ。危険ですよ。」とは教えてくれない。 藪の中に潜み、闇にまぎれてみつからないようにして突然襲いかかる。 そこに何かいるとは知らない藪や闇をおそれることにより人間は未然に危険をさけてきました。何かわからないけど恐ろしいもの、それを考える能力がやがて神を生み出したのだと思います。 ですから人間の進化がさらに進みもはや「おそれ」という感情が必要なくなり、人間の本能から「おそれ」が消失してしまったら、その時は神も消失するのだと思います。 あるいは(現実的にはありえなかもしれませんが)「おそれ」を必要としない環境下で人間が進化することができたとしたら最初から神を考えることもなかったでしょう。 「おそれ」という感情と神は深く関係していると思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  私もそう思うのです。「おそれ」こそが神を成り立たせていると。  「おそれ」は進化の過程で動物が獲得した有用な能力です。  「おそれ」があるからこそ、動物は危険をさけることができる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そっちのほうの恐れですか。畏れもありますよね。  否定するわけではありません。  圧倒されるほどのやすらぎですとか あるいは きよらかさ これらに出会うと 前向きの畏れをいだきます。  危険ではなく したがって そのきよらかさの方へ進み出ようとしつつも そのチカラないし耀きの前にわが心がためらうばかりになるといった状態だと思います。  なお ただし 日本語の《かみ》という言葉には 《恐ろしいもの》という意味合いで使っている場合があるようです。  ▲ (コトバンク:本居宣長) ~~~~~~~~~~  https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E5%AE%A3%E9%95%B7-16926  § 世界大百科事典内の本居宣長の言及   §§【神】より  本居宣長は,カミを迦微とし,〈何にまれ,尋常ならずすぐれたる徳のありて,可畏(かしこ)き物〉(《古事記伝》)とした  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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  • なぜ神を勘違いしたままでいるのか?

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