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神とは ひとを元気づけてくれるチカラ

 一口メモによる情報交換です。  何でも話を聞いてくれるのが――ただし その願いがかなうかどうかは分からないのが―― 神である。  しかも 何でも願いに耳をかたむけてくれて 元気づけてくれる。ひょっとすると 永遠に元気づけてくれる。  エゴー(わたしは)と言って思惟し行動する《わたし》をとうとび エゴーを中心にして生活を立て直すチカラを――誤解をおそれずに言えば エゴイズムに自由に無理なくそのわが持てるチカラいっぱいに かつきよらかなおそれの下に 立ち得る元気――をあたえてくれる。

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  • ベストアンサー
  • satouenn
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回答No.2

心の支え、指針となるものを擬人化したものが神であるなら、人を元気付けてくれる力になると思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 心の支え、指針となるものを擬人化したものが神であるなら、人を元気付けてくれる力になると思います。  ☆ そうですね。ここは げんみつを期しまして。:  ○ 心の支え、指針となるものがナゾの何ものかとしてあって それを擬人化したものが神さまであるなら、神は 人を元気付けてくれる力になると思います。  ☆ かな。《ナゾ》を想定したほうがよいかと考えました。どうでしょう。  さとうえんさん こんにちは。初めましてでしょうか。あらためましてでしょうか。  ご回答をありがとうございます。

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  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.6

回答の続きです。 >☆ きよらかなおそれは ただひとつの普遍神に対してでなければ 持ち得ません。 私もそう思うのです。「おそれ」こそが神を成り立たせていると。 「おそれ」は進化の過程で動物が獲得した有用な能力です。 「おそれ」があるからこそ、動物は危険をさけることができる。 人間を襲う捕食者は事前に「私はここにいますよ。危険ですよ。」とは教えてくれない。 藪の中に潜み、闇にまぎれてみつからないようにして突然襲いかかる。 そこに何かいるとは知らない藪や闇をおそれることにより人間は未然に危険をさけてきました。何かわからないけど恐ろしいもの、それを考える能力がやがて神を生み出したのだと思います。 ですから人間の進化がさらに進みもはや「おそれ」という感情が必要なくなり、人間の本能から「おそれ」が消失してしまったら、その時は神も消失するのだと思います。 あるいは(現実的にはありえなかもしれませんが)「おそれ」を必要としない環境下で人間が進化することができたとしたら最初から神を考えることもなかったでしょう。 「おそれ」という感情と神は深く関係していると思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  私もそう思うのです。「おそれ」こそが神を成り立たせていると。  「おそれ」は進化の過程で動物が獲得した有用な能力です。  「おそれ」があるからこそ、動物は危険をさけることができる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そっちのほうの恐れですか。畏れもありますよね。  否定するわけではありません。  圧倒されるほどのやすらぎですとか あるいは きよらかさ これらに出会うと 前向きの畏れをいだきます。  危険ではなく したがって そのきよらかさの方へ進み出ようとしつつも そのチカラないし耀きの前にわが心がためらうばかりになるといった状態だと思います。  なお ただし 日本語の《かみ》という言葉には 《恐ろしいもの》という意味合いで使っている場合があるようです。  ▲ (コトバンク:本居宣長) ~~~~~~~~~~  https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E5%AE%A3%E9%95%B7-16926  § 世界大百科事典内の本居宣長の言及   §§【神】より  本居宣長は,カミを迦微とし,〈何にまれ,尋常ならずすぐれたる徳のありて,可畏(かしこ)き物〉(《古事記伝》)とした  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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noname#211048
noname#211048
回答No.5

好きでも 言う必要がないと思ったらいいません。 だから、お友だちー数少ないーや先生も わたしにいろんなものを授けては消え 現れては消え なのかも知れません。 ひとこと だったり、すれ違い様だったりもします。 ずっと側にいてほしい。とおもったりもするけれど 体のどこかで 成長することや変化することが一番と願っているのかも知れません。わたしのエゴですかね。単純に愛想をつかされただけかもしれないけれど!ぬんちゃん‥三割くらいありそう <エゴのサンプル表示>

bragelonne
質問者

お礼

 ▲ (OnlineEtymologyDictionary: I (わたしが)) ~~~~~~ http://www.etymonline.com/index.php?term=I&allowed_in_frame=0 I (pronoun.)  1. 12century. shortening of Old English ic, first person singular nominative pronoun,   ・ 元は 《 ic 》であった。  2. from Proto-Germanic  *ek/*ik := さらに古いかたち。  3. (cognates: 姉妹語:   Old Frisian    ik,   Old Norse     ek,   Norwegian     eg,   Danish      jeg,   Old High German  ih,   German      ich(イッヒ),   Gothic      ik,  4. from PIE *eg-, : と元々の語が推構される。 nominative form of the first person singular pronoun  5. (cognates:   Sanskrit    aham,   Hittite     uk,   Latin     ego  (source of French Je, Italian io, Spanish yo),   Greek      ego,   Russian     ja(ヤー),   Lithuanian    aš.  6. Reduced to  i   by mid-12c. in northern England,   it began to be capitalized mid-13c. to mark it as a distinct word and avoid misreading in handwritten manuscripts.  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり 英語の《 I 》は ギリシャ・ラテン(いづれも ego )あるいはサンスクリット( aham )から訛って来た(簡略化して来た)かたちだと思います。  エゴイズムというふうに使うほうが エゴを出し過ぎなのかも知れない。  ですから 相手のエゴをないがしろにしないかたちで 自分のエゴをとうとび自由に伸ばして行きたい。  でも エゴは なかなか好かれていない。日本の伝統のひとつに 《則天去私》などがありますしね。  どうなんでしょうかねぇ。  ご回答をありがとうございます。  かわいい子どもさんですね。  青の色合いもよいかも。

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noname#211048
noname#211048
回答No.4

たってね。 だけど立つための土俵を(必要なく)荒らしますのは いただけませんから・大切にはしてね。 生かし合いさえすれば 神様も御満悦で 笑顔でバイバイできるかもしれません。 ひとくちメモです。 勉強に移らないとなあと思うので ここまでです。だいぶ消化できました。 何度もお邪魔しましたが おつきあいくださって有り難う。 私の父親もべらんめえ調にすぐなるので とりあえず言いますと慣れっこです。母はすぐ拗ねます。

bragelonne
質問者

お礼

 デリカシーを しばしばヘンなところで発揮するのですが(わたしはですが) 土足で上がって行くところも(――と言っても 自分ではあくまで相手に合わせてだとも思っているのですが――)ありますので どしどしご批判をどうぞ。  そう言えば 夏休みなんですね。  どっかへ出かけられることはないのですか?  野球部で一週間くらいですけど 信濃大町と日立の大甕というところで合宿したことを思い出しました。三年生でやめました。  わたしは子もいないのですが あなたのご両親さえわたしの子の世代なんですね。  わたしはつもりとして百五十歳まで生きるのですが これからの世界はどうなりましょうか。  むしろたのしみにしていたいと思います。  ご回答をありがとうございます。もう一個もらっていますね。

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  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.3

この内容はbragelonneの考える神様でしょうか? そうすると私の考えも近いですね。そのように元気付けてくれると考えることができれば、もうそれだけで神様を考えるメリットを受けています(お得です)。神様がいようがいまいが関係ない。 各人が自分の好きな神様を考える1人1神様(マイ神様)説です。

bragelonne
質問者

お礼

 まあ おおざっぱに言えば そういうことです。  ただし そのような平俗に流れながらも  ☆☆ エゴイズムに自由に[・・・] かつきよらかなおそれの下に 立ち得る元気――をあたえてくれる。  ☆ とは言っておいてあります。  ですから:  ★ 各人が自分の好きな神様を考える1人1神様(マイ神様)説です。  ☆ これを 次のように言いかえておくことができます。:  ○ 各人が自分の好きなように神様を心にいだく1人1神様(マイ神様)のかたちを採りつつ その神は普遍神であるという説です。  ☆ きよらかなおそれは ただひとつの普遍神に対してでなければ 持ち得ません。  ご回答をありがとうございます。

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noname#221368
noname#221368
回答No.1

 自分を信じる力にはなると思います(個人的には、神は信じないと決めてますが)。  という訳で(←何が?)、いささか我田引水ですが、ちょっと前に以下のような発言をしまして・・・。  くだらない歌のサビの勝手な解釈です。   一度しかない人生だから、何気に不安だけど.   Believe in me(自分を信じろ).   一人しかいない運命の人.   You are my first priority(お前つまり自分は、自分の最優先事項).   もう恐れはしない.明日へと走る定め.  しょうもない歌詞だなぁとも思うけれど、ほかに何があるってんだ?という気もします。

bragelonne
質問者

お礼

 つまり 人びとは一般に・もしくはややもすると 《エゴー》を嫌う。《わたし》をとうとぶことを 倫理的にまづいと考えて 嫌う。これは いちど顧みなくてはいけない。  これですよね。  でーでーてーさん こんにちは。  何となく 出そろっている質問が しょぼいので こういう質問をでもしてみました。  ★ 自分を信じろ  ☆ は こうぢゃないかな。  ○ Believe in myself. あるいは Believe in yourself.  ☆ 《 in 》は要るのかな。もうこのところ 読む分にはまだしも 作文のほうは 自信がありません。  ★ 自分を信じる力にはなると思います(個人的には、神は信じないと決めてますが)。  ☆ ですから 《信じる》という言葉を持ち出すと 分からなくなります。  もっと気軽な・身近な存在なのではないだろうか 神は。《無い神を信じている》場合でも。  ことしの夏は暑かったですよ。そちらは そこそこ でしたか。

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     人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか?  A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?  D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神とは何か?) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • なぜ神を勘違いしたままでいるのか?

     A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?   特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神を哲学する) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • 神の力を持つ人を知りませんか?

    神(何でもできる能力とゆう意味)どうやったら、その人の住所・氏名がわかりますか?。

OPPO Reno3A対応VRゴーグルは?
このQ&Aのポイント
  • OPPO Reno3Aを使用するための対応VRゴーグルについて調査しています。
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