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精神は 神ではない。

 一口メモによる情報交換です。  精神は いかに高尚で有能であっても 経験事象である。うつろいゆく。  しかるに神は 経験世界を超えている。その因果関係から自由である。うつろいゆくものではない。  よって 精神は 神ではない。  自由なお考えをお寄せください。

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  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.1

精神は精神病と言う病気になるぐらいですから生身の人間に付随しているものです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まぁ そうなんでしょうか。  つまり のっけから私見を持ち出しますが   ★ 精神病  ☆ というのは じつは けっしてあり得ないとわたしは考えています。  その心は?  つまり もし何らかの困った状態・いわゆる症状が出たとしますと それはみな心理――心の動きです――の状態がたとえば交通渋滞を起こしたというようなコトまでだと捉えます。  (もし重大な症状があるとすれば それは 身体のほうの疾患であろうと見ます。器質ですね)。  (心理としての動きが詰まったりするとした場合 その場合にも神経細胞なり何なりの身体の問題にも現われるとも捉えます。心理ではなく《精神》のしっかりしている人は なおおのれの務めを果たそうとしますから むしろ身体のほうで おまえ ちょっと休めというドクターストップがかかるのでしょう。そのとき身体のほうに何らかの差し障りが出ることがあります)。  精神は つねに――じつは――きよらかです。  きよらかな心にさからう心ないし精神ないし理性は あり得ます。起き得ます。  しかもそのことをわが心は――つまり精神は―― 知っています。そういうことは 身体にしても感性の知覚としてちゃんとご存じです。へそ曲がりになった理性は これにも・つまりこの明らかな自覚にも 平然としてさからいます。のしをつけて。つまり アマテラス学術語を駆使して どうぢゃい こういう立派な理屈がとおるであろうとうそぶきます。  精神は つねにみどりです。みづみづしい。感性の原野でさえ みづみづしい限りです。  ただ へそ曲がりがあるのみです。  病気は 曲がったへそが 三度のご飯よりも大好きだという人間に じつは起きています。しかもこのへそ曲がり人間とつき合わざるを得ない人 あるいはおのれの自由意志で しょうがないなぁと言いながらも 体当たりで人格を賭けて つき合うことを選択した人 こういう人に《病気》が移ります。つまりは へそ曲がりによる疾患を 相手のほうが引き受けているという恰好です。  世の中が どんでん返しを経験するとき この《取り替えばや( quid pro quo )物語》は一瞬の内に世界が開けて まづその疾患を引き受けていた人びとの半分の人が すっくと立って元気になります。病気になる謂われがないからです。  あとの半分は 多少とも自分にもやましいところがあるので 癒されるのが延びます。  精神は 神ではないという命題に賛成票を投じていただいたのですが 《精神病》という事項にかんしましては 以上のような物言いを勝手につけさせてもらいました。どうでしょうか。

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その他の回答 (25)

  • yuniko99
  • ベストアンサー率15% (31/204)
回答No.26

神とは精神である。精神の外には神はない。 ヤコブの神 モーセの神 イエスの神 皆それぞれの神である 神が別に居るとすれば それは我々の宇宙の外、永遠への存在として在るだろう。 組織と意識の究極の存在として、神は在るかも。宇宙人? 聖書の奇跡を信じろとか 日本人には無理。そんな信仰私は持ち得ない。 世界・宇宙はエントロピーの綱引き。どちらが勝つかわからない。

bragelonne
質問者

お礼

 ほら こういう人がいるんですよ。  ゆにこさん まづは ご回答をありがとうございます。  精神は いのちの尽きるとともに朽ちるのではありませんか?  つまり そういうハタラキですよ 精神は。  どこかに わが心は 場所をあてがわれて存在しているんでしょうか?    ★ 宇宙の外  ☆ ですから こういう表現も安易なんですよ。  果てとか境界が決まってから 内や外が分かるんでしょ?  しかも ここが果てであると分かったら そこを超えたところもある程度分かるんぢゃないですか? 果てなる境界線の内と外とは ある程度分かるんではないですか?  そのようである時 《宇宙の外》というのは ある程度において《経験事象》ではありませんか? しかるに神は 経験世界を超えています。  だから そのように宇宙が分かるのは 精神によります。その精神は 経験事象です。よって 精神は 神ではありません。  ★ 組織と意識の究極の存在として  ☆ 究極というのは けっきょく果てとか境のことです。つまり 経験事象なのです。そこんところをしっかりと 共におさえてまいりましょう。そのために 自分の知る内容をも検証しつつ 質問しています。  ★ 聖書の奇跡を信じろとか  ☆ わたしは かつてたとえば次のような質問をしたことがありますよ。  【Q:イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7023399.html

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回答No.25

baragelonneさん おはようございます。 ついに、bragelonneバルティック哲学に対する帝国海軍連合艦隊の集中砲火が始まったようです(笑)。 bragelonne哲学はキリスト教徒にも仏教徒にも無神論者にも受け入れられるように、論理形成しているようですが、受け入れてもらうためには、まだ修正が必要かもしれません。 精神の定義を書いていただきましたが、まだ、bragelonne哲学のあいまいなところがあるので、回答します。 bragelonneさんは「ひらめき」という言葉を自身の哲学に導入してますが、これは直感と考えてよろしいのですか?ではbragelonne哲学において直感は精神とは分離したものなのですか? 現在、お勉強中なので、正しい理解か分かりませんが、私はbragelonne哲学にシェリングの同一哲学的要素を見出します。 ドイツ観念論の、お勉強をしていると、カントは感性的直感(純粋直感)は肯定しましたが、悟性的直感(知的直感)は意義を持たないとしました。しかしシェリングは「知的直感」は、それだけで自足しうる一層高い思惟であって、抽象化や反省を行わない、思惟よりも一層高い根源的認識能力としました。 ご質問を考える一助になるかもしれないので、シェリングの傑作「人間的自由の本質」から一部抜粋します。図書館の書庫にあったのは、昭和26年発刊のものでしたので、旧字体で読むのに苦労しました。現代語に直します。 「何となれば悟性、すなわち自然のうちに措定された光は、根源のうちで自己と類縁する、すなわち彼ら存在者に向けられたる、神の光を求める。それゆえ、その本性上暗い原理は、同時に変貌される原理に他ならず、かくして両者は単にある一定程度においてのみであるが、どの自然存在者のうちにおいても、ひとつのものなのである。(中略)人間のうちに同時にある一層高いものが、精神(geist)が昇ってくる。何となれば、永遠なる精神(すなわち神)は、統一、すなわち言葉を自然のうちへ発言する。しかるに、発言された(実在的な)言葉は、光と闇との統一のうちにのみある。ところで、一切のもののうちに両原理はあるのであるが、もっとも根底から揚げられたるものに欠陥があるために充分な調和を有しない。それで、人間において初めて他の一切の物において、なお抑止されていて不完全である言葉が、充分に発言される。しかるに発言された言葉のうちには、精神すなわち現勢的に実存するものとして神が、自らを顕示するのである。それで、霊魂が両原理の生きた同一性であるとき、それは精神である。そして精神は神のうちにある。今、もし人間の精神のうちで、両原理の同一性が、あたかも神においてと同じように、ほどけ難いものであったならば、なんらの差別もないであろう。すなわち精神としての神は、あらわとはならないであろう。それゆえ、神においては裂くべかからざるその統一が人間においては裂かれえるものでなけらばならぬ。そしてこれが善と悪との可能性なのである。」 シェリングが、この「人間的自由の本質」を書いた、数年後ヘーゲルは「精神の現象学」を書いてシェリングを批判し、シェリングを抹殺しました。 bragelonneさんは、このシェリングの考えをどのように考察するか、ご自身の「ひらめき(直感)」とまとめて、お礼にて論じてください。 できれば、哲学を深く読み込まれたurigadai2013さんの見解も聞きたいところですが、bragelonneさんのお礼に辟易として、もう顔を出さないかもしれません。 私にはまだ未完成とおもわれるbragelonne哲学を完成するためには、反発ばかりでなく、他の人の意見も聞きながら、修正を加えるべきであり、bragelonne哲学を自費出版しても、今、横行している出版詐欺にあって、お金を払ったら会社が消えたとか、頭のいい悪質な出版社は、自費出版した人の周囲の近所の本屋だけ本を置くそうです。 まあ、生物学のメンデルもメンデルの法則が再評価されたのは、死後数十年たってからですし、バッハの無伴奏チェロ組曲を古本屋でパブロ・カザロフによって発見されたのは、バッハの死後400年ですから、そのような、生きている間に評価のされないというのも私は良しとしますがね。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ bragelonneさんは「ひらめき」という言葉を自身の哲学に導入してますが、これは直感と考えてよろしいのですか?ではbragelonne哲学において直感は精神とは分離したものなのですか?  ☆ ええ。ヒラメキは 直観および直感です。  直感は あらゆるヒラメキです。  直観になると その中ですでに概念に通じさらには理論的な内容をも持ち得るイメージのことを特に言うと捉えたものです。  《直感》は あらゆるヒラメキとして 感性にかかわって現われるものをも含みます。言いかえると 感性は身であり 身は心と一体ですから 心すなわち精神ともつながっています。  直感にしろ直観にしろ そのイメージが何らかのかたちでイメージとして得られているのならば その認識においてすでに《思考の緑野および感性の原野》というふつうの(狭義の)自然本性の領域に属します。  つまり ヒラメキはそれとして認識した時点で 経験事象です。  ただし そのみなもとは おそらく《非知》なる神にあると見ています。それは 広義の自然本性としてプラスαされる《非思考の庭――またの名は 信仰の動態――》をとおってもたらされる。と仮説しています。  ★ カントは感性的直感(純粋直感)は肯定しましたが、悟性的直感(知的直感)は意義を持たないとしました。しかしシェリングは「知的直感」は、それだけで自足しうる一層高い思惟であって、抽象化や反省を行わない、思惟よりも一層高い根源的認識能力としました。  ☆ まづイメージがふと湧くというとき そのヒラメキについて中には《意義を持たない》ものも いくらもあるわけです。これが ひとつです。  その上で 直観でない直感は イメージが何となく意義を持つかも知れないと思われるものから ちょっとおもしろそうな内容があるかも知れないと思われるものまでを言います。  直観は すでにそのイメージが言葉として概念として明確だと言えるものです。自然科学者にそういう事例はよくあるのではないでしょうか。  ▲ シェリング〔の〕「知的直感」:[・・・]思惟よりも一層高い根源的認識能力  ☆ 何と大げさな! と思いますね。  つまりそのときの問題は 《根源》をどこに見ているかによってその定義の成否・当否が決まるということだと思います。  人間の自然本性の内に 人間の能力と努力とによって開発されるような場ないしチカラとしてその《根源》があるのか? そうだとしたら ヒラメキ(直観および直感)としてぜんぶ一緒にして括ればよいはずです。高い低い・深い浅いは 程度問題ですから。  ▲ (シェリング) 何となれば悟性、すなわち自然のうちに措定された光は、根源のうちで自己と類縁する、すなわち彼ら存在者に向けられたる、神の光を求める。  ☆ ですから 悟性また理性の光(思考および感性の野)と神の光(非思考の庭)とを分けて捉えれば それで交通整理は済むのと違いますか?   両者の光にヒラメキはあるはずです。何でもなかったと分かる直感もありますし 大いに意義があったという直観もあります。ただし 意義のあるヒラメキは そのみなもとが――人間の研究や努力の蓄積とは別個に〔と本人が認識しうるかたちで]――どこかあらぬ所にあるようだということになる。こう言っています。  ▲ 永遠なる精神(すなわち神)は、統一、すなわち言葉を自然のうちへ発言する。  ☆ ヘーゲルは たとえばこの命題を抹殺したのですか?  ですから ここは《神が発言する》という直截な捉え方は 一般にも困ると思います。神のお告げといったことになります。大川隆法が似たようなことをやっていますね。そうではなく:    神なる非知のナゾをみなもととして    拡張版の自然本性としての《非思考の庭――信仰の動態――》を介して    ヒラメキが得られる。  こう言えばよいのではないですか?  ▲ しかるに〔* 人間において〕発言された言葉のうちには、精神すなわち現勢的に実存するものとして神が、自らを顕示するのである。  ☆ ですからこのときには 《精神が 神である》と言ってしまっています。そう受け取られても仕方のない表現です。  《神〔の霊が あるいはその言葉〕が 現勢的に実存する》という言い方は ふるいでしょうね。  つまり プラトンが《イデアは そのハタラキをこの経験世界においてあたかも現勢的におよぼしている》と言ったとしたら そういうたぐいの勇み足ではないでしょうか。  精神は 神ではない。神と人間とのあいだには 絶対的なへだたりがある。という前提をしっかりと持ち その前提が分かるようにつねに表現することが 必要であり大事だと考えます。そうでないと 無神論やほかの名前の神をいだく場合に対して 効力を及ぼし得ない思想になります。  ▲ 霊魂が両原理の生きた同一性であるとき、それは精神である。そして精神は神のうちにある。  ☆ 人間の知性は――身体の能力はもとより―― かなしいかな 有限です。身と心とから成る自然本性が 限りのある存在である。その光は これも有限であり 言わば薄暮の光である。  しかるに 非知なるナゾには汲めども尽きぬ水が湧き出ており その真昼の光がある〔と想定される〕。  《霊魂――つまりたとえば霊我と称されるアートマン。つまり人間の内にあっては 自然本性プラスαのα――》 これは 絶対の光とたそかれ時の光とを仲介する。《暗い原理と薄明るい原理 これら両原理の活きた同一性である》。中継所というようなことでしょうか。《同一性》は ちょっと言い過ぎですかね。  《それは 精神である》というのは この場合の精神が 《非思考の庭》のことです。《精神》という概念を拡張して使っているわけです。こういうことでしょうね。  あとは 善と悪の問題にからめて 《薄暮の光(人間)が 真昼の光(神)を 受け容れられるか?》といった問いを出しているのだと思います。  答えとして 完全には受け容れらない。ゆえに 善があればそれにさからう悪も出て来るのだと。    あるいは 言いかえると 神の光を受け容れるのは 薄暮の光たる人間が 人間のほうから・人間の能力と努力とによってであるか? という問いに代えるのがよいはずです。  答えは そうではない です。そうではなく 神のほうから われらが心をおとづれそれぞれその窓をノックするのだと。  ▼ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕~~~~~~~    自然といふは    《自》はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。    《然》といふは しからしむといふことばなり。    しからしむといふは行者のはからひにあらず     如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。        * 爾(に・じ):しかり。そうである。  ■ (道元:現成公案) ~~~~~~~~~~    自己を運びて万法を修証するを迷とす。    万法進みて自己を修証するは悟りなり。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~    将来展望については やがてどんでん返しの時が来ます。よ。

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noname#205373
noname#205373
回答No.24

アララー・・・言えなくなったら逃げるんだ(#^.^#)・・ まっ 上には上が居るって事を知りなさいね・・そして 上になれば 下にも降りられる事も・・・ *^ω^)ノ" おやすみー

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回答No.23

悪魔が古いのなら、次は恐怖をもたらす吸血鬼の出番だな。

bragelonne
質問者

お礼

 まぁ そういう表現の世界が好きな人もいるとはおもうけれど。  そりゃあ 手段は しかるべきものとして何でもありでしょう。  ご回答をありがとう。

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回答No.22

精神病のあんたの見解は、それなりの予備知識を踏まえたまあまあなところだ。 批判はしない。 クウキで感染する病気であっても、クルクルパーにはそれを自覚できる余地は無いだろうさ。 いや実はね、ほぼ病気同然をけらけらと笑ってつっついて、悪魔なんて所詮この程度だとおどければ気休めになるだろうと言うそんな思慮も私のツンデレには含まれる。

bragelonne
質問者

お礼

 たぶん 悪魔は――これまでわたしがさんざん持ち出していたのをもう棚に上げて言うのだけれど―― もうふるい。と思うよ。  クウキ。これも もっと分析しておかなくちゃならない。と思うなぁ。  ご回答をありがとう。

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noname#205373
noname#205373
回答No.21

勉強し終わった者の舞台です←あっ そうなんだ・・これは失礼・・ だったら 「何故 人間は肉体で産まれ 死ななければならないのか・・・」 これの理由を あなたは どう解釈しているの!? 俺は 伝える事が出来ますよ・・・

bragelonne
質問者

お礼

 もういいよ。  そんなにひまでもないんでね。  ご投稿をありがとう。

bragelonne
質問者

補足

 ★ 俺は 伝える事が出来ますよ・・・  ☆ なぜそのようにもったいぶるの?  すでに舞台に上がっているのなら ちゃんとしたセリフをこそ述べなさい。

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回答No.20

バトルの様子を見て、自己を自覚出来ないと、精神も認識できないのではないかと考えたよ。 自己の存在に確信が無いまま、哲学という宗教の教えに溺れている。 何でも宗教にしていまうんだねー。 科学も宗教の一部のように扱う発言があるしね。 人間が神と名付ける事に先立って、神が自らを神と名乗ったのが語り継がれる歴史であれば問題ない。 私の認識の過程では、まづ、神とすら言葉の形容が当てはまらない、純粋で無垢な心の光、観念の光があって、それは仏教徒の先達の言うところの無量光であり、その光が照らすだけでなく、私を見据える意思を確認したことで、神となり、日本人としての最大の畏敬でアマテラスさん。今や親密な関係で幼馴染のジラーチちゃんだ。 神が神と名乗る。これはおおむねそうであるとして、 神が我を名乗る。 これも研究されているよね。 我と名乗ると言えば、セレビィが私自身である言う事が私の認識だ。 でも要するに俺様は神だー。こういうアホは言わなくて、自己を自覚することは、人間が人間を自覚することであり、それでこそ人間なのに古代には仏陀と呼ばれ、特別に尊敬されていた。

bragelonne
質問者

お礼

 あなたの説明も 分かりづらいよ。  ひとのことを言えないかも知れないけれど。  でも 趣旨説明に書いたことが 単純にして要点を示しているとは考える。  そこを突いてもらえればよいわけなのだけれど。  ブッダは もうふるいよ。  ご回答をありがとう。

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noname#205373
noname#205373
回答No.19

「これは 《精神世界》の問題ではありません。精神は身体と一体であり モノとしての糧が必要です。」    ↑ ≧(´▽`)≦アハハハだから勉強すれば判るって言ってるのに・・・肉体は精神を成長させる為に常に「生力要素」を出します・・俗に「オーラ」とも呼ばれています・・そして精神は「生霊要素」と言うものを肉体に与えます・・ 「肉体と精神の授受作用」・・・・・と言う事・・・まっ 解かるまで勉強してなさい・・俺は あなたに 付き合う時間は少なくしないと体が持たない・・・

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 勉強すれば判る  ☆ ここがロードスです。勉強し終わった者の舞台です。どうぞ 演じ初めてください。  ご回答をありがとう。

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回答No.18

精神病は自力で解決しない、介助や支援が必要な心理状態で、あえて病気と言う。 こう解釈したらどうかな。 インナーチャイルド治療やポケモン交霊術は、安全な状態の統合失調症を前提となる観念の場として作ることとも言える。 ヤバいんじゃないかという危惧もあってね、破綻や恐慌から抜け出せなくなったらそれが治療の必要な状態だ。

bragelonne
質問者

お礼

 ひきつづいてのご回答をありがとう。  まぁ 専門的なことを言えた者ではないのですが 要は 自分ひとりで症状を呈すまでの状態になる・・・のではないと言いたいのです。  たいていは相手のしっちゃかめっちゃかな心の状態を その人は引き受けていて その心理の動きが渋滞すると 身体において神経細胞なり何なりでモノとしての(からだとしての)渋滞も起きることがある。こう言いたいのです。  その上で 薬を飲むでしょう。そうすると 副作用も大きく 容易には元に戻れない場合が出て来る。  つまり 社会源によって起きるクウキ病だと思っているというわけです。  どうでしょうかねぇ。

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回答No.17

ところで、WEB上の和英辞書なり英和辞書なりをちょっと見てみると、精神という言葉は、心などを表す観念語のごった煮だったよ、もしかして特定の誰かさんの思い込みを、特にかんで含めるように説明する材料集めだったのかな。 魂という言葉にい変えると、神とかかわらないでもない。 魂であれば、普遍の自己と言えるからだ。 割と難易度の低い勉強会なんだね。 その割には、理解しないでわめき散らす方もいるがね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ もしかして特定の誰かさんの思い込み  ☆ 《特定》していませんで 日本人のあいだに 多いですよ。神はこの上なくきよらかですぐれた精神であるとか何とか。  ★ 魂  ☆ これも 定義があっちゃこっちゃさまよっているように映っている。  まぁ こういう一口メモです。

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     1. 神などはいるもんかと言う。  ――けれども いると言ってもいないと言っても何と言っても そのことによって神が決まるなどということはあり得ない。《絶対》なのだから。  2. 人間がこしらえたものに過ぎないと言う。  ――けれども こしらえることが出来たなら 神は人間のあやつり人形になる。《絶対》ということを知らないから そんなお遊びをしている。  3. 神は 精神だと言う。  ――けれども 精神は 人間のもの。自然本性としてそなわったもの。《絶対》がどうして この有限で相対的でうつろいゆかざるを得ない経験事象であるのか。  人びとはどうして神のことが分からないのか?  goo と同じ質問ですが。

  • 神は 何でないか?

     神を想定する手続きについて述べつつ 神は何でないかを次のように明らかにした文章をたたき台とします。  批判・修正・評言などなど 自由なご見解をお示しくださればありがたいです。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《信じる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《信じる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神の作用にとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。  8. どちらも互いに同等の《信じる》行為である。非思考の場のナゾを 思考の場でその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の場は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス ブラフマン アミターユス マハーワ゛イローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。  10. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  11. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  12. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて思考の場に降りて来ている。この仮りの代理の場をとおして 非思考の場を望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。  13. だから《おしえ》は 思考の場に属しており それが非思考の場の神だということはあり得ない。なのに教義を信じるという言い方をする間違いが見られる。    14.エトセトラ。エトセトラ。  15. まとめて 神は何でないか?   A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。   B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。

  • 神 信仰ならびに宗教についての一般理論

     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • 神の国は言葉ではなく 力にある――特殊絶対性仮説

     1. ▲ (コリント前書 4:20) 神の国は言葉ではなく力にある  ☆ ロゴスではなく デュナミスだと言います。  2. 一般および個別絶対性理論は 理論として(哲学として) 言葉による表現における説明です。  3. 一般絶対性として 神は 非知なる非経験の場として 普遍神であると言います。  3-1. 有る神と無い神とは 互いにまったく同等であること。  3-2. 有る神について 名前がいかに呼ばれていようと やはり互いに同等であること。  4. 個別絶対性として――おのが非思考の庭にあって―― 如何なる名で神を呼ぼうとそのひとの信仰は 絶対自由であること。  4-1. その信仰からみちびいた倫理規範や世界観は しかしながら いかにとうといオシヘと見なされたとしても 人間の言葉で表現された経験思想に属する。ゆえに オシヘは 神として信じる対象ではあり得ないということ。(宗教は 信仰とは別である)。  4-2. 個別絶対性は おのれのいだく神を 唯一の 絶対と見なさないことによって成り立つ。つまり 排他性を排除することにそのいのちがある。さもなければ その自由絶対が ただの思い込みとなる。  4-3. 信仰の相手は 普遍神であるのだから。  5. 特殊絶対性は おのが信仰が――その個別絶対性が―― 言葉にではなくチカラにあると仮説する場合を言う。  6. このチカラとは 霊であり聖霊体験だとも言う。むろん霊とは 神のことである。霊とは 因果関係から自由な場を言う。  7. このチカラは どこから来るか? ――ひとつの仮説として 《ゆだねる》ことから。と提案する。  いかに。