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精神は 神ではない。

 一口メモによる情報交換です。  精神は いかに高尚で有能であっても 経験事象である。うつろいゆく。  しかるに神は 経験世界を超えている。その因果関係から自由である。うつろいゆくものではない。  よって 精神は 神ではない。  自由なお考えをお寄せください。

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  • titelist1
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回答No.1

精神は精神病と言う病気になるぐらいですから生身の人間に付随しているものです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まぁ そうなんでしょうか。  つまり のっけから私見を持ち出しますが   ★ 精神病  ☆ というのは じつは けっしてあり得ないとわたしは考えています。  その心は?  つまり もし何らかの困った状態・いわゆる症状が出たとしますと それはみな心理――心の動きです――の状態がたとえば交通渋滞を起こしたというようなコトまでだと捉えます。  (もし重大な症状があるとすれば それは 身体のほうの疾患であろうと見ます。器質ですね)。  (心理としての動きが詰まったりするとした場合 その場合にも神経細胞なり何なりの身体の問題にも現われるとも捉えます。心理ではなく《精神》のしっかりしている人は なおおのれの務めを果たそうとしますから むしろ身体のほうで おまえ ちょっと休めというドクターストップがかかるのでしょう。そのとき身体のほうに何らかの差し障りが出ることがあります)。  精神は つねに――じつは――きよらかです。  きよらかな心にさからう心ないし精神ないし理性は あり得ます。起き得ます。  しかもそのことをわが心は――つまり精神は―― 知っています。そういうことは 身体にしても感性の知覚としてちゃんとご存じです。へそ曲がりになった理性は これにも・つまりこの明らかな自覚にも 平然としてさからいます。のしをつけて。つまり アマテラス学術語を駆使して どうぢゃい こういう立派な理屈がとおるであろうとうそぶきます。  精神は つねにみどりです。みづみづしい。感性の原野でさえ みづみづしい限りです。  ただ へそ曲がりがあるのみです。  病気は 曲がったへそが 三度のご飯よりも大好きだという人間に じつは起きています。しかもこのへそ曲がり人間とつき合わざるを得ない人 あるいはおのれの自由意志で しょうがないなぁと言いながらも 体当たりで人格を賭けて つき合うことを選択した人 こういう人に《病気》が移ります。つまりは へそ曲がりによる疾患を 相手のほうが引き受けているという恰好です。  世の中が どんでん返しを経験するとき この《取り替えばや( quid pro quo )物語》は一瞬の内に世界が開けて まづその疾患を引き受けていた人びとの半分の人が すっくと立って元気になります。病気になる謂われがないからです。  あとの半分は 多少とも自分にもやましいところがあるので 癒されるのが延びます。  精神は 神ではないという命題に賛成票を投じていただいたのですが 《精神病》という事項にかんしましては 以上のような物言いを勝手につけさせてもらいました。どうでしょうか。

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その他の回答 (25)

回答No.6

補足します、 (1)「精神には記憶や知能という能力のほかに意志という能力行為もあります。そして意志は精神ないし人格の中軸をなします」といいますが、記憶や知能や意志は何も精神がなくても、人間の知性があれば充分で、精神を必要としません。そして人格は人間の自発性・自主性があれば人格があると見なすのですから、これも精神を必要としません。 (2)「ヒラメキがどこから来たか?です」というなら、ヒラメキは知性から、経験の蓄積から来ます。場所でしたら、脳から来ます。 (3)「すべての人間の思惟と行為の歴史的いとなみであり、そこから来ているものとのみ言うとすれば、たぶんマチガイでしょう。新しいものは出てこないでしょう」というなら、すべては人間の思惟と行為の歴史的いとなみから出てきます。それでなかったら、いったいどこから出てくるというのでしょうか? 精神から? 神から? それこそマチガイです。 (4)「概念・言葉・が神だと言おうとするのではありませんが、それらが、それらのみで精神であるというのには、あまりにも安易なのではありませんか?」というのなら、あなたはそれを神だと言おうとするのではないと言いながら、暗に神だと言いたいんではありませんか? 私はそれらのみで精神であると言いませんが、経験に由来し、精神であると考えないからでしかありません。 それを精神に由来すると考えるのは、それこそあまりにも安易なのではありませんか? (5)「そして神は人間が作ったもので、神が人間を作ったというのは、それを転倒したもの」というのは「誰が神を作ったんですか?」というならば、神という概念は人間がその他の言葉と一緒に作ったもので、特定の個人が作ったものではありません。精神という言葉も同様です。 逆にお聞きしたいが、誰が神を作ったと思っているんですか? 精神が? 神は概念なんだから、その概念は人間が作ったんではないのですか? 人間が誕生したのは宇宙が、地球が存在してからずっと後なんだから、物質が先、概念は後、同じように神という概念も人間が作ったのだから、その神が宇宙や地球の創造者であるはずがない。 そして精神は物質の派生体、随伴現象なんだから、脳が生み出した概念、ヘーゲルの「精神現象学」でも、精神というのは概念で、個物、具体的な存在の上にある抽象的な概念に過ぎない。 (6)「神なんか存在しないと考えている人間、そのことが有効なのは、あなたが神と同等以上の能力を持つ存在である時に限ります。さもなければ一人の人間のひとつの憶測でしかありません」といいますが、だったら、おなじように神が存在する、あるいは神が存在するという想定も神と同等以上の能力を持つ存在である時に限るのではないか? 私に対する論難は自分に跳ね返ってくる。 天に唾するようなもの。 しかし、神という概念を人間が作ったものと考えれば、神と同等以上の能力なんか必要ではないし、神と同等以上の能力を持つ存在である必要もない、普通の人間であれば足ります。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  どうも最初の用語についての定義から違っていたようです。  ★ (1) [・・・]記憶や知能や意志は何も精神がなくても、人間の知性があれば充分で、精神を必要としません。  ☆ こちらの定義を示します。  (あ) ひとは 自然本性として 身と心とから成る。身体と精神です。  (い) 身体に感性を当てるときには たいてい精神には 理性をあてるはずです。  (う) ただし 精神は 一般に三つの行為能力から成る。記憶と知解と意志です。理性は 特には知解能力の一環です。  (え) 精神があたかも精神するとき そこに展開されるのは 一般に知覚(感性)をつうじて得たものを悟性で認識した知識 この知識ないし情報について あたかも自己組織化のごとく われわれが意識せずとも 整理整頓してみづからの倉庫におさめる。――これが 記憶行為です。覚えて秩序立ててしまっておく。  (お) ものごとについて考える行為が来ます。知解能力です。記憶の倉庫から知識を引き出して来て 当面の主題についてさらにあらたな展開をかたちづくるように筋道立てておのれの見方考え方を持つようにする。  (か) 意志は すでに知解行為に先だっているとも見られる。主題をどう捉えるかを欲するところから始まるから。そうして 知解が 結論を出し処方箋を書く。その選択肢の中からえらぶのは意志であり その実行も意志が受け持つ。  (き) したがって 記憶・知解および意志から成る精神は 《概念や言葉の構成物》だというのは 簡単すぎる。  ★ (2)[・・・]ヒラメキは知性から、経験の蓄積から来ます。  ☆ (く) だったら 過去の経験をはみ出す内容の思惟や行動は 出て来ないのではないだろうか。知性(精神)や感性をも超えたところから得られるという見方が ヒラメキについては 成されるものと考えます。  この考えは (3)についても 当てはまります。  (4)は 上の(あ)から(き)までの定義において答えています。《精神は 神ではない》という命題を提出しているのですから 《概念・言葉》以外には 神を除けば人間の精神はないなんてことはありません。  (け)  ★(5)[・・・]神という概念は人間がその他の言葉と一緒に作ったもので、  ☆ だったら その《神》は すでに人間の思惟と行為の結果得られているモノだということになります。なぜなら:  ★(3) すべては人間の思惟と行為の歴史的いとなみから出てきます。それでなかったら、いったいどこから出てくるというのでしょうか?  ☆ なのですから。それなら 神を人間がつくったという命題は成り立ちます。ただし その最初には いったい誰がつくったのか? この問いがなお控えていますが。  (こ)  ★(5) [・・・]特定の個人が作ったものではありません。精神という言葉も同様です。  ☆ ぢゃあ どこからか降って湧いたのでしょうかね。  (さ)  ★ 逆にお聞きしたいが、誰が神を作ったと思っているんですか? / 精神が?  ☆ 想定したのです。むろん そういうふうに理論にもとづき作成したのではないでしょう。おそらくおどろきを持って捉えざるを得なかった自然現象を見て 単純に言葉として《かみ》〔に当たるそれぞれの言語における言葉〕を持ったのでしょう。  つまり言いかえると いづれかの時に そのことについて 《人間は神を知らない。知り得るか知り得ないかが知り得ない。ゆえに この神は そういう〈非知〉として想定しよう。この言葉を用いると 便利である》といったかたちで後づけして保持したのでしょう。  (し)  ★ 神は概念なんだから、その概念は人間が作ったんではないのですか?  ☆ 微妙に違います。《かみ》という言葉を 上のようにして持ったなら・言葉なのですから 《概念》が発生しています。  一たん概念化されたなら もはやあたかもこの《かみ》は 経験世界における事象と何ら変わりないかのごとく頻繁に用いられたことでしょう。  ただしその頻用や概念の拡大と言っても 基本的にはけっきょく《神の依り代》のことを 山にしても海にしてもあるいは人間のいくらかの者等々にしても 言ったはずなのです。磐座や神木が 神そのものなのではなく 神の依り代であると捉えたわけです。  たとえば 神は 愛であるとか 至高の善であるとか 全知全能だなどなどの命題は このいまの依り代の問題なのです。言いかえると 補助線を引いているという意味です。神本体については 《非知》のままです。  そうして この非知なる――想定に成る――神は 人間の精神ではない。こうです。  (す)  非知――またの説明(補助線)としては 非経験の場――なる神は あたかも宇宙の創生より前の《時間? 空間?》にも当てはまります。つまり 因果関係から自由であるのが 神です。  (せ)  ★(6) だったら、おなじように神が存在する、あるいは神が存在するという想定も神と同等以上の能力を持つ存在である時に限るのではないか?  ☆ これは 《神なんか存在しないと考えている人間》とそして《神を 非知として想定し この言葉を用いる人間》との違いがあります。  《考えている》と《想定している》との違い。  および この場合は 想定が《非知――知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ――》という内容であるからには 《考える思考もあるいは感性をも》超えているところに及んでいます。いわば二重に違いが生じています。  (そ)  ★ しかし、神という概念を人間が作ったものと考えれば、神と同等以上の能力なんか必要ではないし、神と同等以上の能力を持つ存在である必要もない、普通の人間であれば足ります。  ☆ これは おかしい。もしそうならわざわざ《神》という言葉を〔持ったとしても すでにすぐに棄てて〕使わなければよい。人間がつくったのなら 人間という存在の別名であるしかないでしょう。むろんアニメ・キャラとして 人間とは多少違うと抗弁することは出来ますが。

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回答No.5

精神は概念の構成物で、概念はまた言葉だから、その言葉が神でないのは当然のこと、質問するまでもない。 そして神は人間が作ったもので、神が人間を作ったというのは、それを転倒したもの。 その神が経験世界を超えているというのも、人間が勝手にそう思っているだけで、そのように定義しているだけ。 その神が「移ろいゆくものでもない」というのも、神の定義から導き出されるもので、単なる定義に過ぎないのだから、無意味。 「その因果関係から自由である」というのが、何の意味か分からないけど、経験事象が因果関係に基づいているとしたら、神は因果関係を超えているのだから自由だ、という意味ならば、それも神の定義から導き出せるもので、もし神なんか存在しないとしたら無意味。 要するに神が存在することを前提に、そういう質問をしているので、私みたいにキリスト教信者でもない、神なんか存在しないと考えている人間には、そういう質問はナンセンス。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 精神は概念の構成物で、概念はまた言葉だから、その言葉が神でないのは当然のこと、質問するまでもない。  ☆ たぶん違うでしょう。精神には 記憶や知解という能力のほかに意志という能力行為もあります。この意志が――そして意志は 精神ないし人格の中軸を成します―― 《概念の構成物》でしかないとすれば いったいどういう思想と行動を人間は採るか。  それと分かりやすいことは 《ひらめき》の問題です。ヒラメキがどこから来たか? です。  すべて人間の思惟と行為の歴史的ないとなみであり そこから来ているとのみ言うとすれば たぶんマチガイでしょう。それだと あたらしいものは出て来ないでしょう。  《精神は 言葉によって構成されているとき 言葉は神ではない》。こういう回答内容でしょうか?  《概念・言葉》が 神だと言おうとするのではありませんが それらが・それらのみで 《精神》であるというには あまりにも安易なのではありませんか?  ★ そして神は人間が作ったもので、神が人間を作ったというのは、それを転倒したもの。  ☆ 誰が神をつくったんですか?  そして誰が  ★ 神が人間を作った  ☆ と言ってるんですか?  ★ その神が経験世界を超えているというのも、人間が勝手にそう思っているだけで、そのように定義しているだけ。  ☆ これは 厳密には《定義》ではありません。《想定》です。(想定の中における定義だと言えば むろんそうなりますが)。  だから  ★ 人間が勝手にそう思っているだけ  ☆ かどうかには 何の関係もありません。想定したあとに わざわざその内容を心に思い続けるなどということは ちょっとおかしい。  ★ その神が「移ろいゆくものでもない」というのも、神の定義から導き出されるもので、単なる定義に過ぎないのだから、無意味。  ☆ 《神は人間が作ったもの》であるなら 《移ろいゆくものではないものとしてつくった》とし得ます。そういう前提は採りませんが あなたの議論の中で矛盾が発生しました。    ★ もし神なんか存在しないとしたら無意味。  ☆ だから 《神を想定した》というのは もし神が存在するとしたらの場合を言っているわけです。  《もし神なんか存在しないとしたら》という想定(前提かな)の場合と じつは 同等の命題(問い求め)です。相対的な内容や価値を持つに過ぎない人間の思想です。  ★ 神は因果関係を超えている  ☆ という指摘は 精神が因果関係から成る社会過程の中に生きるしかない(つまり 因果関係から自由ではない)という内容を明らかにするためのものです。つまり 精神は 神ではないことの――ほとんど単なる論理的なだけの――裏づけです。  ★ 要するに神が存在することを前提に、そういう質問をしている  ☆ 神を想定したことにもとづき 精神について明らかにしています。(神の想定内容については この質問では触れていませんが)。    ★ 神なんか存在しないと考えている人間  ☆ そのことが 有効であるのは あなたが 神と同等以上の能力を持つ存在であるときに限ります。さもなければ 一人の人間のひとつの憶測でしかありません。      

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回答No.4

不確定性原理の相補的不確定性において、原理的にある値を 確定化しようとすると、それを実体化すべき補完的な値が 無限発散する事が知られている。 そうした原理性を確定せずに、経験によって階層現象性を 表面的に(いい加減に)捉える事で、有限な存在性を生じ るのだ。 全知全能で本質まで把握できるならば、そこには“無=無限” しかない。 こうした「不完全ゆえの有限」は、論理学の不完全性定理に おける「公理系は不完全な場合にのみ無矛盾であり得る」と いう証明にも(対象=物としてだけでなく主体=心においても) 基づいている。 存在とは、『何かあるんじゃないの?』という疑問として 派生した時空に対して、「本当は無いんだけどね」という 無の射影として生じているのだ。 確かに「精神は神ではない」が、その不完全ゆえに造物主 なのだ。

bragelonne
質問者

お礼

 神が  ★ 全知全能 / 造物主  ☆ であると誰が言ったんですか?  ★ 「不完全ゆえの有限」  ☆ 《完全ゆえの有限》ってあるんですか?    ★ 「公理系は不完全な場合にのみ無矛盾であり得る」  ☆ 人間の認識が《〈不完全〉ではない》場合があるという前提に立っていますか?  ★ 無の射影  ☆ の《無》が あなたには分かっていない。定義出来ないと来ている。  どうせ言いっ放しの投稿をありがとう。    

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  • Nouble
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回答No.3

木を(も)崇拝する集団もいますよ? ご存じないのてすか? 木だから と、バカにした時点で 語るに落ちてます よね 世間知らずが 仕舞えてます よ お気をつけ遊ばせ て、いうか 此も自由な考えの内ですよね? 質問文上では こういうのも含めて 望んでいたのだ と、理解し得ない 仕舞えてますよ 挙げられたものは 論理思考、証明手順等 此等が間違えていて 話にならない そういっているのですが 此も自由な思考 その内ですよね? 貴方の望みに従ったものに対する態度 会話、此等の基本すら なってないですよ … 目を覚ました方がいいですよ 神は人がある無しに関わらずある 神は人等に思われて初めてある 神はただの物理法則 心の崇高さにこそ神が宿る、 または神がなす 団体が変われば どれでも在り得ります 神が人の其れに左右されない なんて マスコミがアニメなどを通し 適当に流した固定概念に 踊らされていませんか? 貴方は神を 感じられるのですか? 此と語れるのですか? 神を 名乗るもの、名乗らないもの、 此にも色々在りますから、 語れた と、しても、 其れが絶対 と 飛び付いては 行けません よ 神々が尚、崇拝する対象… 高天原に最初に現れしものが一柱… 私の声を君は聞けるのか …? なんちゃって こういうの 中二病 とか、言うらしいですね 貴方、誰ですか? 誰と話したのですか? 証明手順すら、会話手順すら、 不適切では 誰にも、理解されませんよ まずは もっと正しく 学びと向き合い 此を得た方が いいですよ あぁ、まぁ 小説家なら、此の限りではないかな でも、小説家はもっと 高尚な方ですから やはり学びが必要ですね もし万が一にも 暗号伝達等に使うなら よそでして、頂けませんか?

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  神は人がある無しに関わらずある  神は人等に思われて初めてある  神はただの物理法則  心の崇高さにこそ神が宿る、  または神がなす  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この命題は ふつうに人がもつ心情あるいは信念です。  哲学は その内容について 普遍性を持つかどうかを検証します。  また 普遍性のある内容として理論づけます。  あなたは ご自分の思っていることや それゆえ言いたいことを 吐き出しているだけです。よ。  ★ 団体が変われば / どれでも在り得ります  ☆ これについても 同じことです。《団体》を《個人》に代えても 同じことです。  むろん信教・良心の自由にもとづき そういう心情・信条・信念を持つことは 自由です。  その――もし出来るなら――経験合理性に根差したそれなりの根拠 これを問い求めているのです。  おれは この神を信じる。わたしは あの神よ。・・・てな具合いでみながそれぞれ おのれの神を言い合って行くという話ではありません。    よく考えてくださいというのは 滑稽な話になりましょうか。  ご投稿 お世話様でした。

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  • Nouble
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回答No.2

木は 経験世界を超えている。 その因果関係から自由である。 人の認知や経験に左右されて うつろいゆくものではない。 よって木は、紙である ×神 馬鹿馬鹿しいですね 精神は いかに高尚で有能であっても 経験事象である。 うつろいゆく。 適当に、言いたい事に 当てはまらないものを 挙げているだけですね 肉体でも猫でも何でもいいでしょう 例えば 烏賊は如何に崇高であろうとも 食のヒエラルキーから脱せられない、 全てを包み込む包容力などない 宇宙はヒエラルキーなどには左右されず 全てをその内に浮かべ包み込む 其の様は神以外にない 尤もらしいでたらめですね

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 木は / 経験世界を超えている。  ☆  《木は》というのは 《気》ではなく 根を張り花を咲かす《木》のことですね?  気がちがいましたか?  お礼を言われることによってその恥づかしさがさらに増すのでなければよいと思いつつ ご投稿をありがとうございます。  日本人の知性の情況も ついにここまで・・・。

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     1. 神などはいるもんかと言う。  ――けれども いると言ってもいないと言っても何と言っても そのことによって神が決まるなどということはあり得ない。《絶対》なのだから。  2. 人間がこしらえたものに過ぎないと言う。  ――けれども こしらえることが出来たなら 神は人間のあやつり人形になる。《絶対》ということを知らないから そんなお遊びをしている。  3. 神は 精神だと言う。  ――けれども 精神は 人間のもの。自然本性としてそなわったもの。《絶対》がどうして この有限で相対的でうつろいゆかざるを得ない経験事象であるのか。  人びとはどうして神のことが分からないのか?  goo と同じ質問ですが。

  • 神は 何でないか?

     神を想定する手続きについて述べつつ 神は何でないかを次のように明らかにした文章をたたき台とします。  批判・修正・評言などなど 自由なご見解をお示しくださればありがたいです。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《信じる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《信じる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神の作用にとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。  8. どちらも互いに同等の《信じる》行為である。非思考の場のナゾを 思考の場でその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の場は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス ブラフマン アミターユス マハーワ゛イローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。  10. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  11. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  12. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて思考の場に降りて来ている。この仮りの代理の場をとおして 非思考の場を望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。  13. だから《おしえ》は 思考の場に属しており それが非思考の場の神だということはあり得ない。なのに教義を信じるという言い方をする間違いが見られる。    14.エトセトラ。エトセトラ。  15. まとめて 神は何でないか?   A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。   B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。

  • 神 信仰ならびに宗教についての一般理論

     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • 神の国は言葉ではなく 力にある――特殊絶対性仮説

     1. ▲ (コリント前書 4:20) 神の国は言葉ではなく力にある  ☆ ロゴスではなく デュナミスだと言います。  2. 一般および個別絶対性理論は 理論として(哲学として) 言葉による表現における説明です。  3. 一般絶対性として 神は 非知なる非経験の場として 普遍神であると言います。  3-1. 有る神と無い神とは 互いにまったく同等であること。  3-2. 有る神について 名前がいかに呼ばれていようと やはり互いに同等であること。  4. 個別絶対性として――おのが非思考の庭にあって―― 如何なる名で神を呼ぼうとそのひとの信仰は 絶対自由であること。  4-1. その信仰からみちびいた倫理規範や世界観は しかしながら いかにとうといオシヘと見なされたとしても 人間の言葉で表現された経験思想に属する。ゆえに オシヘは 神として信じる対象ではあり得ないということ。(宗教は 信仰とは別である)。  4-2. 個別絶対性は おのれのいだく神を 唯一の 絶対と見なさないことによって成り立つ。つまり 排他性を排除することにそのいのちがある。さもなければ その自由絶対が ただの思い込みとなる。  4-3. 信仰の相手は 普遍神であるのだから。  5. 特殊絶対性は おのが信仰が――その個別絶対性が―― 言葉にではなくチカラにあると仮説する場合を言う。  6. このチカラとは 霊であり聖霊体験だとも言う。むろん霊とは 神のことである。霊とは 因果関係から自由な場を言う。  7. このチカラは どこから来るか? ――ひとつの仮説として 《ゆだねる》ことから。と提案する。  いかに。

このQ&Aのポイント
  • pixus mg3130プリンターのセットアップをCDなしで行う方法は?
  • MacBookでCD無しでプリンターのセットアップをするには?
  • 最新のosに対応しないダウンロードソフトはどうすれば良い?
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