• ベストアンサー

精神は 神ではない。

amenhotep2000の回答

回答No.25

baragelonneさん おはようございます。 ついに、bragelonneバルティック哲学に対する帝国海軍連合艦隊の集中砲火が始まったようです(笑)。 bragelonne哲学はキリスト教徒にも仏教徒にも無神論者にも受け入れられるように、論理形成しているようですが、受け入れてもらうためには、まだ修正が必要かもしれません。 精神の定義を書いていただきましたが、まだ、bragelonne哲学のあいまいなところがあるので、回答します。 bragelonneさんは「ひらめき」という言葉を自身の哲学に導入してますが、これは直感と考えてよろしいのですか?ではbragelonne哲学において直感は精神とは分離したものなのですか? 現在、お勉強中なので、正しい理解か分かりませんが、私はbragelonne哲学にシェリングの同一哲学的要素を見出します。 ドイツ観念論の、お勉強をしていると、カントは感性的直感(純粋直感)は肯定しましたが、悟性的直感(知的直感)は意義を持たないとしました。しかしシェリングは「知的直感」は、それだけで自足しうる一層高い思惟であって、抽象化や反省を行わない、思惟よりも一層高い根源的認識能力としました。 ご質問を考える一助になるかもしれないので、シェリングの傑作「人間的自由の本質」から一部抜粋します。図書館の書庫にあったのは、昭和26年発刊のものでしたので、旧字体で読むのに苦労しました。現代語に直します。 「何となれば悟性、すなわち自然のうちに措定された光は、根源のうちで自己と類縁する、すなわち彼ら存在者に向けられたる、神の光を求める。それゆえ、その本性上暗い原理は、同時に変貌される原理に他ならず、かくして両者は単にある一定程度においてのみであるが、どの自然存在者のうちにおいても、ひとつのものなのである。(中略)人間のうちに同時にある一層高いものが、精神(geist)が昇ってくる。何となれば、永遠なる精神(すなわち神)は、統一、すなわち言葉を自然のうちへ発言する。しかるに、発言された(実在的な)言葉は、光と闇との統一のうちにのみある。ところで、一切のもののうちに両原理はあるのであるが、もっとも根底から揚げられたるものに欠陥があるために充分な調和を有しない。それで、人間において初めて他の一切の物において、なお抑止されていて不完全である言葉が、充分に発言される。しかるに発言された言葉のうちには、精神すなわち現勢的に実存するものとして神が、自らを顕示するのである。それで、霊魂が両原理の生きた同一性であるとき、それは精神である。そして精神は神のうちにある。今、もし人間の精神のうちで、両原理の同一性が、あたかも神においてと同じように、ほどけ難いものであったならば、なんらの差別もないであろう。すなわち精神としての神は、あらわとはならないであろう。それゆえ、神においては裂くべかからざるその統一が人間においては裂かれえるものでなけらばならぬ。そしてこれが善と悪との可能性なのである。」 シェリングが、この「人間的自由の本質」を書いた、数年後ヘーゲルは「精神の現象学」を書いてシェリングを批判し、シェリングを抹殺しました。 bragelonneさんは、このシェリングの考えをどのように考察するか、ご自身の「ひらめき(直感)」とまとめて、お礼にて論じてください。 できれば、哲学を深く読み込まれたurigadai2013さんの見解も聞きたいところですが、bragelonneさんのお礼に辟易として、もう顔を出さないかもしれません。 私にはまだ未完成とおもわれるbragelonne哲学を完成するためには、反発ばかりでなく、他の人の意見も聞きながら、修正を加えるべきであり、bragelonne哲学を自費出版しても、今、横行している出版詐欺にあって、お金を払ったら会社が消えたとか、頭のいい悪質な出版社は、自費出版した人の周囲の近所の本屋だけ本を置くそうです。 まあ、生物学のメンデルもメンデルの法則が再評価されたのは、死後数十年たってからですし、バッハの無伴奏チェロ組曲を古本屋でパブロ・カザロフによって発見されたのは、バッハの死後400年ですから、そのような、生きている間に評価のされないというのも私は良しとしますがね。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ bragelonneさんは「ひらめき」という言葉を自身の哲学に導入してますが、これは直感と考えてよろしいのですか?ではbragelonne哲学において直感は精神とは分離したものなのですか?  ☆ ええ。ヒラメキは 直観および直感です。  直感は あらゆるヒラメキです。  直観になると その中ですでに概念に通じさらには理論的な内容をも持ち得るイメージのことを特に言うと捉えたものです。  《直感》は あらゆるヒラメキとして 感性にかかわって現われるものをも含みます。言いかえると 感性は身であり 身は心と一体ですから 心すなわち精神ともつながっています。  直感にしろ直観にしろ そのイメージが何らかのかたちでイメージとして得られているのならば その認識においてすでに《思考の緑野および感性の原野》というふつうの(狭義の)自然本性の領域に属します。  つまり ヒラメキはそれとして認識した時点で 経験事象です。  ただし そのみなもとは おそらく《非知》なる神にあると見ています。それは 広義の自然本性としてプラスαされる《非思考の庭――またの名は 信仰の動態――》をとおってもたらされる。と仮説しています。  ★ カントは感性的直感(純粋直感)は肯定しましたが、悟性的直感(知的直感)は意義を持たないとしました。しかしシェリングは「知的直感」は、それだけで自足しうる一層高い思惟であって、抽象化や反省を行わない、思惟よりも一層高い根源的認識能力としました。  ☆ まづイメージがふと湧くというとき そのヒラメキについて中には《意義を持たない》ものも いくらもあるわけです。これが ひとつです。  その上で 直観でない直感は イメージが何となく意義を持つかも知れないと思われるものから ちょっとおもしろそうな内容があるかも知れないと思われるものまでを言います。  直観は すでにそのイメージが言葉として概念として明確だと言えるものです。自然科学者にそういう事例はよくあるのではないでしょうか。  ▲ シェリング〔の〕「知的直感」:[・・・]思惟よりも一層高い根源的認識能力  ☆ 何と大げさな! と思いますね。  つまりそのときの問題は 《根源》をどこに見ているかによってその定義の成否・当否が決まるということだと思います。  人間の自然本性の内に 人間の能力と努力とによって開発されるような場ないしチカラとしてその《根源》があるのか? そうだとしたら ヒラメキ(直観および直感)としてぜんぶ一緒にして括ればよいはずです。高い低い・深い浅いは 程度問題ですから。  ▲ (シェリング) 何となれば悟性、すなわち自然のうちに措定された光は、根源のうちで自己と類縁する、すなわち彼ら存在者に向けられたる、神の光を求める。  ☆ ですから 悟性また理性の光(思考および感性の野)と神の光(非思考の庭)とを分けて捉えれば それで交通整理は済むのと違いますか?   両者の光にヒラメキはあるはずです。何でもなかったと分かる直感もありますし 大いに意義があったという直観もあります。ただし 意義のあるヒラメキは そのみなもとが――人間の研究や努力の蓄積とは別個に〔と本人が認識しうるかたちで]――どこかあらぬ所にあるようだということになる。こう言っています。  ▲ 永遠なる精神(すなわち神)は、統一、すなわち言葉を自然のうちへ発言する。  ☆ ヘーゲルは たとえばこの命題を抹殺したのですか?  ですから ここは《神が発言する》という直截な捉え方は 一般にも困ると思います。神のお告げといったことになります。大川隆法が似たようなことをやっていますね。そうではなく:    神なる非知のナゾをみなもととして    拡張版の自然本性としての《非思考の庭――信仰の動態――》を介して    ヒラメキが得られる。  こう言えばよいのではないですか?  ▲ しかるに〔* 人間において〕発言された言葉のうちには、精神すなわち現勢的に実存するものとして神が、自らを顕示するのである。  ☆ ですからこのときには 《精神が 神である》と言ってしまっています。そう受け取られても仕方のない表現です。  《神〔の霊が あるいはその言葉〕が 現勢的に実存する》という言い方は ふるいでしょうね。  つまり プラトンが《イデアは そのハタラキをこの経験世界においてあたかも現勢的におよぼしている》と言ったとしたら そういうたぐいの勇み足ではないでしょうか。  精神は 神ではない。神と人間とのあいだには 絶対的なへだたりがある。という前提をしっかりと持ち その前提が分かるようにつねに表現することが 必要であり大事だと考えます。そうでないと 無神論やほかの名前の神をいだく場合に対して 効力を及ぼし得ない思想になります。  ▲ 霊魂が両原理の生きた同一性であるとき、それは精神である。そして精神は神のうちにある。  ☆ 人間の知性は――身体の能力はもとより―― かなしいかな 有限です。身と心とから成る自然本性が 限りのある存在である。その光は これも有限であり 言わば薄暮の光である。  しかるに 非知なるナゾには汲めども尽きぬ水が湧き出ており その真昼の光がある〔と想定される〕。  《霊魂――つまりたとえば霊我と称されるアートマン。つまり人間の内にあっては 自然本性プラスαのα――》 これは 絶対の光とたそかれ時の光とを仲介する。《暗い原理と薄明るい原理 これら両原理の活きた同一性である》。中継所というようなことでしょうか。《同一性》は ちょっと言い過ぎですかね。  《それは 精神である》というのは この場合の精神が 《非思考の庭》のことです。《精神》という概念を拡張して使っているわけです。こういうことでしょうね。  あとは 善と悪の問題にからめて 《薄暮の光(人間)が 真昼の光(神)を 受け容れられるか?》といった問いを出しているのだと思います。  答えとして 完全には受け容れらない。ゆえに 善があればそれにさからう悪も出て来るのだと。    あるいは 言いかえると 神の光を受け容れるのは 薄暮の光たる人間が 人間のほうから・人間の能力と努力とによってであるか? という問いに代えるのがよいはずです。  答えは そうではない です。そうではなく 神のほうから われらが心をおとづれそれぞれその窓をノックするのだと。  ▼ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕~~~~~~~    自然といふは    《自》はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。    《然》といふは しからしむといふことばなり。    しからしむといふは行者のはからひにあらず     如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。        * 爾(に・じ):しかり。そうである。  ■ (道元:現成公案) ~~~~~~~~~~    自己を運びて万法を修証するを迷とす。    万法進みて自己を修証するは悟りなり。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~    将来展望については やがてどんでん返しの時が来ます。よ。

関連するQ&A

  • 絶対有と絶対無とは同じである。

     一口メモによる情報交換です。  相対と絶対。  経験世界と非経験の場。  変わりゆくものごとと変わり得べからざること。  経験事象としての有ると無い。  これを超えるものとしての絶対は 有ると言っても無いと言っても どちらも当てはまる。  自由なご見解をお示しください。

  • 神は人間がつくったのなら自由にあやつれるのでは?

     一口メモによる情報交換です。  1. 神は人間がつくったものに過ぎないと言うのなら その神を仕様の範囲内で自由に使いまくることが出来るのではないか?  2. 全知全能だというのが 仕様だとすればそのとおりに人間は神をあやつれるのではないか?  3. いや 神が全知全能だなどというのはインチキだというクレームがついたときには では その仕様がわるかったのか。それとも 人間がつくったということがマチガイだったのか?  4. 神などというものは 人間がそれぞれ自由につくればよいのだというあやまちに落ち入っているのではないか?   5. いつまでその観念のおままごとで遊び続けるのか?

  • 神とは ひとを元気づけるチカラ

     一口メモによる情報交換です。  何でも話を聞いてくれるのが――ただし その願いがかなうわけがないのが―― 神である。  しかも 何でも願いに耳をかたむけてくれて 元気づけてくれるのが 神である。  エゴなる《わたし》をとうとび エゴを中心にして生活を立て直すチカラ――誤解をおそれずに言えば エゴイズムに自由に無理なくそのわが持てるチカラいっぱいに かつきよらかなおそれの下に 立ち得る元気――をあたえてくれる。

  • 神とは ひとを元気づけてくれるチカラ

     一口メモによる情報交換です。  何でも話を聞いてくれるのが――ただし その願いがかなうかどうかは分からないのが―― 神である。  しかも 何でも願いに耳をかたむけてくれて 元気づけてくれる。ひょっとすると 永遠に元気づけてくれる。  エゴー(わたしは)と言って思惟し行動する《わたし》をとうとび エゴーを中心にして生活を立て直すチカラを――誤解をおそれずに言えば エゴイズムに自由に無理なくそのわが持てるチカラいっぱいに かつきよらかなおそれの下に 立ち得る元気――をあたえてくれる。

  • いやしくも神なら 神は 普遍神であるほかない。

     1. 名前が違っても・誰にとっても 同じひとつの神であるしかない。  2. 有る神も無い神も 互いに同等であり どちらかを自由にえらべばよい。  3. 普遍神は 有るとか無いとかの経験事象を超えているゆえ。  4. シュウキョウは この普遍神を信じる――無条件に心に受け容れる――ことをつうじてヒラメキにて得られた直観を言葉にして表わし オシへとした結果生まれたものである。  5. 信仰という蝉の抜け殻である。経験思想ではある。つまり オシへは考えるものである。信仰という蝉本体ではない。  どうでしょう。  

  • 《非在》なる神をどうして理解できないか

     § 1 不在と非在  たとえば ○○さんご在宅でしょうか? と尋ねて いえ あいにく○○は不在です。といった会話があります。  けれどもこのとき《不在》だと言っても ○○さんは どこか他のところにいるはずです。  すなわち 《存在(在宅)と不在(留守)》とは互いにこの同じ時空間――《宇宙》としましょうか――にある或る人の存在についてふたつのあり方を表わしています。また それだけのことです。  ところが もし《非在》と言ったらそれは何を表わすか? 《存在に非ず》とは どういうことか?  § 2 不在でありうる存在は 《感じる・考える》の対象となる  在宅と留守とのあり方を交互に変える○○さんなる存在については 見ることも触れることも声を聞くことも出来ます。つまり 《感じる》ことが出来て さらにその知覚を 概念で認識して《デカイ》とか《だが声は小さい》とか言葉で表現し得ます。  さらにあるいは その小さな声で言ったことが妙に気に成ってその内容について《考える》ことをもおこなう。  では 《非在》とは 何のことか?  感じることが出来るのか? 考えることができるものなのか?    § 3 《非在》とは 想定である  《非在》とは 存在・不在なるこの世界(宇宙)をこえたところに想定したものです。  世界の合理的な理解としての経験法則――たとえば これがあればあれが生じるといった因果関係――から自由な場(ないしチカラ)を想定して名づけたものです。  この経験法則としては ○○さんは 在宅であれば会社には不在であるということを示します。家と会社とに同時に存在することは出来ない。という世界です。  あるいは ○○さんであって 同時に別の人たる△△さんであることは出来ない。あり得ない。という世界です。  《非在》という想定は このような居たり居なかったりする経験存在を超えた場としてなのである。  § 4 《非在》という想定が 神のことである  《存在が有るでもなく無いでもない》。《この原因でその結果が生まれるといった因果律に支配されない》とは どういうことか?  ということは 《どこにも有るのではなく どこにも無いのでもない》とすれば 当然のごとく――このささやかな人間の知性で考えるに―― 《因果律に支配されない出来事が起きる》ことを 想定として表わそうとしている。  ここにもあれば 同時にあそこにもある。  という存在(つまり非存在という別個の場 つまりお化け)のことを 人間は想定することができる。想定して来た。《神》として。  § 5 神は 人間やモノについて言う《存在》とは 別個の場として想定されている。すなわち 《考えるや感じる》の対象ではない。  非在なる神は したがって あまねくそのチカラがはたらくという意味で《遍在》だと 人間の理性では推し測られた。あるいはしまいには 全知全能なる存在ではないかと。  この神は すでに存在の有るか無いかで推し測る宇宙の次元を超えているからには 《感じる》ことも《考える》ことも出来ません。  出来たと思っても それが合っているのかどうかが 人間には分からない。考えて分かったというのは この経験世界における思考や想像によって得た補助線――神を理解するための補助線のこと――を言っている。神本体ではあり得ない。  それゆえに・あるいはそれでも 分かったと宣言する人が出て来ても ほかの人においても納得することが出来るかどうかは分からない。(だから分からないながら ある程度の人数の《賛同者やさらには崇拝者》が出る余地はある)。  § 6 神を受け容れるかどうか。受け容れるというのは 《考える》でもなく《感じる》でもなく 《信じる》と言う。  この神は その想定として受け容れるかどうかは ひとの自由である。ひとの選択にまかせられている。  ただし《受け容れない》と選択した場合も 神という想定じたいは 消えることはない。《感じる・考える》を超えている非在を どうして人間が消すことができよう。  だから 神とわれとの関係は 受け容れたと受け容れないとに分かれるとき それらは《有神論と無神論》とに分かれたことを意味する。  一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じないと言う。  すなわち後者は 《無い神を信じる》と言うのにひとしい。  《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。  § 7  信仰とシュウキョウ  《信じる――または わが心なる非思考の庭としての動態――》は 信仰としてありうるが この神をオシエとして《考えるや感じる》の対象にすることは――それが シュウキョウである―― いただけない。シュウキョウはその起こりからして 思考に非ざるものを思考したオシエを 信じるという自己矛盾である。  § 8 この神をどうして理解できないのか?

  • 人びとはなぜ神のことが分からないのか

     1. 神などはいるもんかと言う。  ――けれども いると言ってもいないと言っても何と言っても そのことによって神が決まるなどということはあり得ない。《絶対》なのだから。  2. 人間がこしらえたものに過ぎないと言う。  ――けれども こしらえることが出来たなら 神は人間のあやつり人形になる。《絶対》ということを知らないから そんなお遊びをしている。  3. 神は 精神だと言う。  ――けれども 精神は 人間のもの。自然本性としてそなわったもの。《絶対》がどうして この有限で相対的でうつろいゆかざるを得ない経験事象であるのか。  人びとはどうして神のことが分からないのか?  goo と同じ質問ですが。

  • 神は 何でないか?

     神を想定する手続きについて述べつつ 神は何でないかを次のように明らかにした文章をたたき台とします。  批判・修正・評言などなど 自由なご見解をお示しくださればありがたいです。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《信じる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《信じる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神の作用にとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。  8. どちらも互いに同等の《信じる》行為である。非思考の場のナゾを 思考の場でその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の場は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス ブラフマン アミターユス マハーワ゛イローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。  10. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  11. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  12. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて思考の場に降りて来ている。この仮りの代理の場をとおして 非思考の場を望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。  13. だから《おしえ》は 思考の場に属しており それが非思考の場の神だということはあり得ない。なのに教義を信じるという言い方をする間違いが見られる。    14.エトセトラ。エトセトラ。  15. まとめて 神は何でないか?   A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。   B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。

  • 神 信仰ならびに宗教についての一般理論

     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • 神の国は言葉ではなく 力にある――特殊絶対性仮説

     1. ▲ (コリント前書 4:20) 神の国は言葉ではなく力にある  ☆ ロゴスではなく デュナミスだと言います。  2. 一般および個別絶対性理論は 理論として(哲学として) 言葉による表現における説明です。  3. 一般絶対性として 神は 非知なる非経験の場として 普遍神であると言います。  3-1. 有る神と無い神とは 互いにまったく同等であること。  3-2. 有る神について 名前がいかに呼ばれていようと やはり互いに同等であること。  4. 個別絶対性として――おのが非思考の庭にあって―― 如何なる名で神を呼ぼうとそのひとの信仰は 絶対自由であること。  4-1. その信仰からみちびいた倫理規範や世界観は しかしながら いかにとうといオシヘと見なされたとしても 人間の言葉で表現された経験思想に属する。ゆえに オシヘは 神として信じる対象ではあり得ないということ。(宗教は 信仰とは別である)。  4-2. 個別絶対性は おのれのいだく神を 唯一の 絶対と見なさないことによって成り立つ。つまり 排他性を排除することにそのいのちがある。さもなければ その自由絶対が ただの思い込みとなる。  4-3. 信仰の相手は 普遍神であるのだから。  5. 特殊絶対性は おのが信仰が――その個別絶対性が―― 言葉にではなくチカラにあると仮説する場合を言う。  6. このチカラとは 霊であり聖霊体験だとも言う。むろん霊とは 神のことである。霊とは 因果関係から自由な場を言う。  7. このチカラは どこから来るか? ――ひとつの仮説として 《ゆだねる》ことから。と提案する。  いかに。