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ポツダム宣言と原爆投下の理由とは?
- ポツダム宣言を日本が受諾した理由や、原爆投下の目的について考えられていますが、それぞれには異なる要因が影響していたようです。
- ポツダム宣言を受諾した理由は、原爆投下とソ連の参戦の両方が影響していたと考えられますが、具体的な理由は複雑であり、人道的な考えや国体護持など複数の要素が絡んでいたと推測されています。
- もし原爆を使わなかった場合、日本本土決戦が行われ、原爆投下以上の人命が失われた可能性があると考えられていますが、連合軍は日本本土決戦を避けるためにポツダム宣言を出したとも言われています。結果として、原爆投下の決定は複雑な要因が絡んでいたと言えるでしょう。
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>もし、原爆を使わなかったら、原爆投下以上の人命が本当に失われたかどうか 歴史に「もし」は禁物と言われますが、私は、原爆が投下されなければ人命の損失は少ない状態で終戦(敗戦)を迎えたと思います。 当初、原爆投下の候補都市は以下の4都市でした。 京都市:AA級目標 広島市:AA級目標 横浜市:A級目標 小倉市:A級目標 その後、横浜と小倉が候補から外れ、その代りに新潟が候補都市に昇格しました。 その結果、候補都市から外れた横浜に通常爆弾による無差別爆撃が実施されました。 横浜大空襲は、B-29爆撃機517機・P-51戦闘機101機による焼夷弾攻撃で約8千~1万名の死者を出したそうです。 もし、横浜の中心部に原爆が投下されれれば、その被害者は広島の140,000人を上回る犠牲者を出したと考えられますが、通常兵器による無差別爆撃では8,000~10,000人の死者ですんでいます。 その差、10倍以上です。 同じ比較を広島、長崎、新潟、小倉、最終的に京都に当て嵌めてみても、各都市で平均 10,000人づつ殺されたとしても50,000人の犠牲者がでたと推計されます。 一方、原子爆弾は広島と長崎だけで210,000人の非戦闘員を殺しました。 日本海軍はすでに艦艇の大半を喪失しており、わずかに残る航空機も高度9,000メートルから絨毯爆撃をするB29は迎撃する事もできす、硫黄島から離陸したP51がB29編隊を護衛するようになった後半では、日本の五式戦闘機でさえも迎撃を躊躇せざるを得ない状況でした。 また陸軍の高射砲でB29を撃墜できるケースも、それほど多くありませんでした。 しががって、広島、京都、新潟、小倉などに通常爆弾による無差別爆撃を敢行しても米軍パイロットの犠牲者も少なかったと考えられます。 あとは、原爆投下なかりせば、ポツダム宣言の受諾にどれほど時間を要したかという問題が残りますが、私は、最大でも、1か月程度の戦闘継続が限界だったと考えます。 したがって、私の結論は、 もし、原爆を使わなかったら、原爆投下以上の人命が失わることは無かった。 ということになります。
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- あずき なな(@azuki-7)
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ポツダム宣言受諾は結局「昭和天皇」の意思なのです 天皇はこれだけは譲らないとして頑強に主張しました 恐らく開戦決定のとき軍部に押し切られた(騙された)と言う事が重荷になっていたのだと思います なんとしても自分の意思で戦争を終結させたいと言う強い思いが昭和天皇にはありましたので 原爆投下がなければ軍部は本土決戦に持ち込んだでしょう アメリカも原爆を落とさない場合のプランも作っています また原爆を投下しても日本が降伏しなくても本土決戦となっていたかもです 9月にはアメリカは 房総半島、九州、紀伊半島から上陸を開始する予定でした
お礼
回答ありがとうございます。 >また原爆を投下しても日本が降伏しなくても本土決戦となっていたかもです そうならなかったのは、全ては天皇の聖断お陰というお考えのようですね。 私は心理学を勉強して来ました。人間は召使の失敗には厳しいが、ご主人様の失敗には寛容であるという心理があります。 天皇の失敗にはどうしても寛容になりがちですが、私はそれは客観的ではないと思います。全てに客観性を持たせないと真実から遠ざかります。
- eroero4649
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>ポツダム宣言を日本が受諾した理由は何でしょう? もうこれ以上戦争を続けても絶対に勝てないし意味がないと判断したからです。 >天皇や海軍など、大勢が受諾を決定した理由は何でしょう? 海軍はもう艦船をほぼすべて失っていました。戦艦大和が特攻したのはご存じのとおりですし、後に残った軍艦もほとんどが空襲を受けて大破していたのです。 最終的には昭和天皇の「聖断」があったからです。 英国留学の経験があり、親英派だった昭和天皇はそもそも日米開戦に反対でしたが、「絶対に上手くやりますから」というから渋々開戦を承諾したんですね。だけどなんだかんだでこういうことになったわけです。 ちょっと手元に資料がないので正確な日付はうろ覚えなんですが、戦局の悪化が明らかな昭和19(1944)年後半辺りから昭和天皇は「もうぼちぼち戦争の終らせ方をなんとかしろ」といっていたはずです。んで、昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲で帝都(東京)が灰塵に帰したとき「首都が焼け野原じゃねえか。もう勝てねえだろ。いい加減に戦争を終わらせろ」とかなり強い調子でいったんですよ。だけど政府がグズグズして、「ソ連に終戦の仲介をしてもらおうか」と考えていたとき、よりにもよってそのソ連が満州に攻め込んできたわけです。攻め込んでくるやつに終戦の仲介を頼もうとしていたわけですから、どんだけ間抜けな話なんだとさすがに政府もどうしていいか分からなくなったんですね。 これとよく似ているのが、福島第一原発事故で真水が足りなくなったときです。海水を入れるかどうかで右往左往したでしょ。当時の吉田所長が独断で「上からなんといわれても海水を注入しろ」といったから最悪の最悪はかろうじて逃れたわけですけれど。 話を太平洋戦争に戻せば、時間軸としてはそれより前になりますが、広島に原爆が投下されました。広島に原爆が落とされる、長崎に原爆が落とされる、ソ連が攻めてきた、で、さすがに昭和天皇が大激怒したんです。「おまえらグズグズしやがったせいでどんどん国民が死んでるじゃないか。もういい、俺が詔勅を出す!」と最後の最後にある種のトップダウンが行われたんです。私はこれを時々「昭和天皇の逆クーデター」といっています。 >もし、日本本土決戦になれば当然そうなるでしょうが、連合軍は実際に日本本土決戦を想定していたのでしょうか? はい。ダウンフォール作戦という日本本土上陸作戦計画を練り上げていました。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6 意外に知られていませんが、進駐軍は各地の海岸で上陸作戦みたいな感じで上陸してきたのですよ。理由は、日本軍の継戦派からの襲撃を恐れたためです。でも蓋を開けてみたら米軍もびっくりするくらい日本軍はどこでも従順に武装解除に応じました。つい先月まで狂信的なほどに頑強に抵抗していた日本軍があっさり武装解除に従順なので、あの口が悪いことで有名なチャーチル卿は「日本人は、のどぶえに食らいつくかひれ伏すかどちらかだ」とコメントしました。
お礼
回答ありがとうございます。 何事も色々諸説を知って総合的に判断したい私としては、日本のメディアで流通している「天皇英断説」にはマユツバです。 戦争を終らせたのが昭和天皇なら、では始めたのは誰でしょう?「朝まで生」で孫崎享氏が言ってましたが、310万人の日本人が死んだ責任は誰がとるのか、戦争を始めたのは誰か、それを追及すべきと。 >渋々開戦を承諾した 渋々なら許されるのか? だって、310万人も国民が死んだんですよ!
映画「日本のいちばん長い日」が封切りされました。 それを観ることが、一つの参考になると思います。 原作は半藤一利(はんどうかずとし)、題名は映画と同じ ドキュメンタリーで、かなり事実に忠実な実録作品です。 私は古いほうの映画をテレビなどで見ました。もう30年以上 のことですが、まず驚いたのは、終戦の詔勅を録音したいわゆる 「玉音放送」のレコードを軍人達が奪おうとしたシーンです。 天皇陛下を至上とたたえながら、自分たちの都合でその意思と 判断、つまり「聖断」と呼ばれた命令にそむく暴挙に出た。こ れは衝撃でした。 自分たちの都合、というのは、ポツダム宣言の第6に、 六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ(中略)日本国国民ヲ欺瞞シ之 ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤(下略) と、国会図書館に所蔵されてネット公開されている13の宣言に、 日本軍の「軍国主義」が、「国民を欺瞞」つまりだまし、「世界征服」 の「過誤」をおかしたという指摘があることです。 もちろん、軍人のいい分もあったでしょうが、国民をだましたという のは受け入れできず、降伏すれば軍の解体は自明だった。それでも、天 皇の判断と命令を拒否して詔勅のレコードを奪うというのは、暴挙とい うほかはないでしょう。 ポツダム宣言は、国会図書館におさめられている文語体の訳文を読め ば、誰でも理解できます(かなり読みにくいのも事実ですが)。ところ が、あまり読まれていないため、無条件降伏をおしつけたとか、占領軍 が好き勝手に日本を料理するというデマがひろがりました。 実際は、それとは正反対でした。たとえば、第10の宣言は、 十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメン トスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ 吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加 ヘラルヘシ 日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切 ノ障礙ヲ除去スヘシ 言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ わかりやすく内容ごとに区切って箇条書きにすると、 1.日本の国民を支配し、そして日本という国を無くすることはしないが、 2.捕虜虐待など、すべての戦争犯罪人の犯罪行為は裁く。 3.日本政府は自国民の民主主義を「復活」し、「強化」するため、 障害となる(軍の存在や軍国主義など)存在と制度を除去すべし。 4.特に言論、宗教思想の自由と基本駅人権の尊重は確立しなければ ならない。 といっています。 本当は、続く第11と第12の降伏条件がもっと大切なのですが、それは ご自分でお読みください。重要なのは、ポツダム宣言が日本国の国民を これ以上痛めつけたり、貧困化させないと、建前にしろうたっているこ とです。 裏読みすれば、国民は善良だが、政府と軍は極悪だと断じており、政 府の首脳部が最大の懸念として抱いた天皇と天皇制の処遇が、あえてふ れらていない構成になっています。 ここで、最初の映画にもどると、リメイク版でも旧作でも、昭和天皇 自身が国民の更なる犠牲を求めないと明言しています。御前会議に出席 した政治家と高級軍人は、当時最高のインテリ集団で、細かな戦況から 国際政治の動きまで、すべて把握していました。あえていえば、ポツダ ム宣言を出した側の連合国軍が決めつけたような、野蛮で極悪な集団と は必ずしもいえないエリート達でした(これも映画を見ての私の感想で す)。 にもかかわらず、玉音放送のレコードを奪って、その先は、昔の2.26 事件に匹敵するクーデタへ突入する寸前まで行きかけました。 事件の全貌が原作映画で明らかになったかどうか、専門家でない私に は判断できません。 歴史の事実としては、1945年の8月15日にラジオでポツダム宣言の受諾 と戦争終結の詔勅が放送されて、戦争は終わりました。 では、もっと早く宣言受諾をしていれば、広島長崎への原爆投下はなか ったのか。本土決戦は避けられたのか。 ひとつだけいえるのは、原爆投下もアメリカ軍の本土上陸も、正確な時 計のような軍事計画として用意されていたということです。 皇居の御前会議にあった旧日本の頭脳もまた、それを察知していたはず です。これ以上抵抗すれば、自分達の都合で戦争を長引かせ、国民をだま し、世界中の人間の人権と自由を踏みにじろうとした極悪非道集団として 裁かれる。 さすがにそこまでは行きたくなかったでしょう。頭のいい人達でしたか ら。 というと、皮肉が過ぎます。本当は、昭和天皇の意思と判断に粛然と従 った、潔い人達だった。私個人はそうおもっています。
お礼
回答ありがとうございます。 >事件の全貌が原作映画で明らかになったかどうか、専門家でない私には判断できません。 まだまだ全貌は明らかになっていないような気がします。というのは、現在のメディアでは天皇こそが戦争を終らせた慈悲深い人であるという論調ですが、天皇に対しては小田実など厳しい見方をしている人がいます。小田実ではないのですが(名前を今、失念しています。また調べ直したいと思いますが)、ある人が書いていたものに次のようなものがありました。閣僚か誰かが天皇に「無条件降伏しかありません」と進言したら天皇が「一発やり返してから」と答えたとのこと。勿論戦況を有利にしてからという意味だろうし、もっと上品な言葉を使ったはずですが、戦争終結は天皇の英断のお陰というメディアの論調にも、ある種のバイアスを感じます。もっともっと真実を追究する必要があると思います。
- dragon-man
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敗戦に関してのご疑問ですが、それには諸説紛々があって、決定的な見方は今もってありません。敗戦の混乱の中で、きちんとした検証が行われなかったことと、終戦直前の英米ソを中心とした連合軍の間に、戦後を踏まえたいろいろな権謀術策があったからです。たとえば英米ソがポツダム宣言を作成し、日本に発した後に、広島に原爆が落とされ、日本が受諾した後にソ連が満州に攻め込んでいます。これらの事実を見ていても、ポツダム宣言と日本の受諾、降伏に整然とした経緯や合理性がみられません。いわば戦後分割を睨んだ狐と狸の騙し合いだったのです。ですから、あなたのご疑問にきっちり答えられる人はいません。そのことを前提に、 >ポツダム宣言を日本が受諾した理由は何でしょう? 日本がこれ以上戦争継続できない悲惨な状況に陥っていたからです。それ以上でも以下でもありません。陸軍の一部に反対があったことや、原爆投下は本質的な問題ではありません。 >7月26日から8月14日まで、受諾を決定出来なかったのは、国体護持に拘っていたからですか? それも一つの原因ではありますが、それが主な原因ではありません。当時軍部にも国民にも戦争継続、本土決戦を主張する人が少なからずいました。たとえば朝日新聞の8月14日の朝刊には、1面トップで「本土決戦」を声高にうたった記事を載せています。当時も今も朝日新聞の影響力は大きかったのです。国民が支持をしているのです。そういう世論をまとめて受諾に持って行くにはそれくらいの時間はかかったのでしょう。そうでないと国内に陸軍を中心とした反乱すら起きた可能性がありました。とても受諾は出来なかったでしょう。日本は戦争以上の混乱が起きたでしょう。 >連合軍は実際に日本本土決戦を想定していたのでしょうか? 戦術としてはそれを想定した作戦は立てていたでしょう。いつの時代も作戦はいろいろ立てます。しかし戦略としては疲弊した日本の国力ではこれ以上の抵抗は出来ないと見ていたでしょう。占領に多少の抵抗は受けるだろうが、本土決戦にはならないと。そんな力な日本に残っていないと、アメリカは判断していたはずです。そういう論調も多々見受けられます。 >本土決戦は出来れば避けたいからポツダム宣言を出して、戦争を終らせようとしたのではないのでしょうか? ポツダム宣言の本質は、英米ソによる戦後支配の設計図です。戦勝国のぶんどり合戦です。宣言は出さずとも、戦争がすでに終結するのは見えていました。日本に最後通告を与える形で、彼らの戦後支配の力関係、ルールを確認し合ったのです。日本が受諾することは分かっていました。そのことはポツダム宣言を読めば分かります。 ここを間違うと、おかしなことになります。国会で安部総理にポツダム宣言の条文を言わせようとするのです。あの愚かな質問者は、ポツダム宣言の意味がまるで理解できていません。まるで神様のお告げのように見ています。まったく浅薄な議員ですね。
お礼
回答ありがとうございます。 貴方の見解がよく分かりました。 >>あの愚かな質問者は と言って、共産党委員長をこき下ろしたり、受諾をぐずぐずしていたのは必ずしも国体護持に拘っていたことだけではない、という見解から判断すると、ある種バイアス色を感じます。 >>ポツダム宣言の本質は、英米ソによる戦後支配の設計図です 戦後をにらんで、自国の勢力拡大を各国が狙っていたのはその通りだと思いますが、ポツダム宣言をいくら目を凝らして読んでもそういう設計図は読み取れません。 私の眼力が不足しているせいなのかも知れませんが・・・
- mo9518
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原爆投下の有無にかかわらず、ポツダム宣言の受諾以外に日本の取る道は無かったと思います。 考えてみてください。同盟国であったドイツ・イタリアが陥落し、資源も何もない日本が世界中を敵にして、どうして生き残ることができるでしょうか? 原爆投下が無くても日本の降伏は時間の問題でした。原爆開発者の中にも原爆投下に反対した方もいたとのことです。 しかし、アメリカは原爆を実際に使ってみたかったのだと思います。戦後の広島・長崎にはアメリカから多くの科学者が訪れて研究にあたっています。広島・長崎は結果的にはアメリカにとっての貴重な研究資料・実験材料となったのです。 もし、原爆投下が無かった場合、降伏の時期は遅れたでしょうが、国土は壊滅的な被害を受けたでしょうね。 天皇の戦争責任も回避できなかったのではないでしょうか。 尚、私はアメリカの原爆投下を肯定している訳ではありません。 日本はもっと早い段階でポツダム宣言を受諾すべきであったと考えます。
お礼
回答ありがとうございます。 >>アメリカは原爆を実際に使ってみたかったのだと思います。 私もそう思いますね。 テレビで証言されている女性がいました。陰毛の発育具合までアメリカから来た調査員に調べられ、本当に嫌な思いをしたと。
歴史にIFは無いんじゃね。(´・ω・`)
お礼
回答有難うございました。 しかし、欧米の学校では、歴史の授業で「もしあの時、こうすれば戦争を避けることが出来たのじゃないか?」って、そういうIF討論をするそうですよ。
- k26suki
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もしも、ポツダム宣言を受諾していなかったら、コロネット作戦という作戦がアメリカ軍にはあり、相模湾から上陸して、東京を直接攻められていました。その情報は日本にも伝わっていて、神奈川の人を疎開させる計画もできていたそうです。 また、オリンピック作戦という作戦もありました。九州に上陸するというものです。 ここからは私の意見となりますが、こうしてもしもポツダム宣言をを受諾していなかったら、陸上戦となり、多くの人がなくなりました。また、オリンピック作戦は、東京を直接攻める作戦なので、日本の政治から何まで崩壊してしまいます。そういうのもあり、ポツダム宣言を受諾したのではないかと思います。 長文失礼いたしました
お礼
回答ありがとうございました。 よく分かりました。
お礼
回答ありがとうございます。 >歴史に「もし」は禁物 誰がどこで言い出したのでしょうね? >1か月程度の戦闘継続が限界だった きっとこの根拠もお持ちのことと思いますが、長くなるのでそれは問いません。 IFを許容しての回答まことにありがとうございました。