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物心ついてから、死の恐怖にさいなまれつづけまていま

noname#228784の回答

noname#228784
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回答No.3

人生は、旅です。 生死も旅の1つなのです。 死んで終わりじゃないですから。 死んだらまた、(否応なしに)次の「生・出生」という旅が始まるのです。 これは仏教的死生観ですが、輪廻転生について 図書館などでいくつか本を読むと 少しは気持ちが落ち着けるのではないでしょうか。 質問者さんは、強いですね。 私には… 死ぬ事より、生きる事の方が大変に思えます。 ま、死んだ後なんて、死んでからじゃなきゃわからないし、それで十分です。 私にとっては生きる事が大変で、それだけで四苦八苦してるんですから、 それ以上のことなんて考えてる余裕はないのです。 生きる事について、長期的な意味を求めていらっしゃるようですね。 それについては 学校で習った、歴史の授業を振り返っては如何でしょうか。 一番すぐにわかるのは、時の為政者・権力者・大きな商家などの役目ですね。 「継ぐべき家があり、子孫を絶やす訳にはいかない」という立場にある人々。 ここからもう一歩、踏み込んでみましょう。 人間は社会にある以上「お互い様」です。お互いに、影響し合って生きているのです。 自分が何も考えていなくても、生きるには衣食住が必要です。 たとえニートでも、消費者として大事な役目があります。 ホームレスも、社会システムの不完全さの現れという一面がありますから、 彼らはより良い社会の構築に向けての、生命をかけた問題提起という存在にも見えます。 表面化しなければ、なかなか問題は見えてきませんから。 そして、能力と余裕と立場のある人が、魂の修行がてらにそういった社会問題に取り組むのです。 転生には、個人としての成長と、社会としての成長という 2つの目的があるように私は感じます。 より良い社会を作れるならば、或いは、良い社会や治安の維持に「良いルールを守って生活する」という方向で1役買うならば、転生後の未来は自分にとっても、他人にとっても明るい社会となるでしょう。 もちろん、転生先が「未来である」と100%言えるかどうかは、私にはわかりませんが。 過去・現在・未来は、実は同じ位置に存在するとかいう… 不思議な話も聞きますので。 上手く言えませんが、人は生かされているんです。 本人の意思に関係なく、生かされているんです。 私はここ数年、ようやくそれを感じるようになりました。 自分がどんなに苦境に立たされても、絶望しても、心臓の鼓動は休むことなく、 腕に荷重がかかりすぎれば、血が止まり、不随意運動が生じて腕がパタパタと動く。 体内や脳内にも微生物が存在しており、ウィルスや外敵を退治したり、 血管から細胞への栄養供給を手伝うなど、大事な役目を担っています。 大丈夫です。 日本の社会は今のところ、簡単には死ねないようにできています。 医療の発達により、病人だって良くも悪くも簡単には死ねません。 だからこそ、生きる事は死ぬ事よりも大変なのです。 どんな事でも【どう見ても悪い状態から、少しずつ良くなる】ということは、 【宙ぶらりんの生殺し】という期間が存在するのです。 【宙ぶらりんの生殺し】を経て【かなり良くなった、凄く良くなった】という状態になるのです。 いつの時代も、そういう生きる事の大変さは、避けては通れないんですね。^^; だから、楽しむことが大事なんです。 自分から楽しく生きる事が大事で、場合によっては難しかったりするんです。 その意味では、誰もが同じです。 時に弱音を吐きつつも、寿命まで根性で生き延びましょう(笑) ハングリーにね!

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